こちら編集室「思い出」(97・7・5)
小さな新聞社の記者になりだてのころ、親ほど年齢が違った当時の読売新聞大曲通信部の先輩記者は「伊藤君。名刺で仕事をするような記者になってはだめだよ。水戸黄門の印籠じゃないけど、記者という名刺は役人には重みがある。だから、若い君を普通なら寄りつけない人物でも丁寧な迎え方をしてくれるかもしれない。それが段々、のぼせ上がり、自惚(うぬぼれ)させ、俺は偉いんだと勘違いしてしまう。気を付けなきゃね」。お酒を飲んではそんな話を良く、聞かせてくれた。
自惚れるほどの新聞社ではなかった。週3回しか発行できない小さな新聞社である。毎朝、警察に顔を出して、事件を取材しても新聞に載るのは2日から3日遅れ。日刊紙は当然、翌日の朝刊に事件の詳細が掲載される。悔しさと焦り、ニュースにならないニュースの原稿を書く空しさが溜まった。
警察に顔を出すのが嫌になった。それでも足が向いたのはもう定年間近な当時の大曲警察署長の人柄だったかもしれない。もう名前は忘れたが、大きな腹を突出し、ダルマさんのような大きな目がとても優しかった。会社の先輩記者から「新人です。よろしくご指導を」と紹介され、名刺を差し出したら「おう。そうか。そうか。新人か。頑張れよ」と大きな声で励まされ、「まあ。そこへ座りなさい」とソファを指定された。
まだ二十歳(はたち)そこらの自分が「署長室」という特別に区切られた部屋に通され、警察の最高幹部と対等に向かい合う。戸惑いもあったが、内心は知っている人たちに自慢したくてならないほどだった。しかし、20代の自分が既に50歳を過ぎた署長とどんな話題を交わすことができるだろう。ただ問われるままに「はい。そうです」。うなずくだけだった。
翌日朝からは警察通いが日課となった。9時ごろには署長室に入り、あいさつを交わし、報道用の事件・事故報告に目を通し、メモを取る。次第に各社の記者が集まってくる。当時の大曲市には朝日、読売、毎日、産経、河北、NHKの各通信部に魁支局があった。集まった記者同士の会話は自分の勉強の場だった。新聞に目を通し、親しくなれた記者にはなりふり構わず記事の書き方、取材の仕方を聞いた。もちろん、署長も交えた2人か3人しかいない場での事だった。
「あんた。熱心に勉強するね」。半年も過ぎたころ、署長は毎朝、定時に通ってくる自分をニコニコした笑顔で褒め、小さなメモを自分に渡し、報道用に発表された内容とは少し違った情報をコッソリと教えてくれた。「俺は日刊紙も君の新聞も差別してみることはないからな」。署長は小さな声でささやいた。事件は放火犯の逮捕を伝える内容だったと思うが、1日遅れのニュースは他紙とは違った内容で書くことができた。
「伊藤チャン。やったじゃない」。いつも「チャン」呼ばわりする当時の産経新聞の記者は自分とは親子ほど年齢が違ったが、自分のことのように喜び、記事を褒めた。確か、佐藤さんという人だった。佐藤さんは市役所教育委員会から自分が「アンケート結果」を入手して、記事にしようと悩んでいたら「伊藤チャン。こういうのはね、1回でまとめようとしたら無理なの。2回か3回に区切って読者に読んでもらうようにすべきなんだ」。良く記事の書き方のアドバイスをしてくれた人だった。マージャンが好きで、「君も覚えてもらわないとメンツが揃わないから」と記者室で手ほどきを教えてくれたのも佐藤さんだった。
人手の足りない小さな新聞社では記者を育成する時間もなかったかもしれない。あの当時はすべて他社の記者の動きを見よう見まねで追い、勉強するしかなかった。取材の足は自転車だった。真夏に差しかかっていた。西仙北町で高校生数人が、体育の授業中に雄物川で溺れたという大事件が飛び込んできた。「どうしよう。おい。どうする」。焦ったが、タクシーを使えるような身分でもなかった。
急いで朝日新聞大曲通信部に駆け込んだ。「何とか乗せてもらえませんか」。朝日の記者は、かぶと虫と呼ばれていたスバル自動車を持っていた。「ああ。いいよ」。簡単に同意を得て、共同取材となった。現場は大騒ぎだった。西も東も分からないまま、朝日の記者を追って現場の写真を撮り、学校へ駆けつけ情報を取った。高校生たちは不幸にも帰らぬ命となっていた。学校で青ざめた顔で泣いている女子高生たちの顔があった。まだ高校にプールの無い、貧しさが招いた不幸な事件だった。
ペンの暴力と新聞が批判されることがある。滅多にないが、独りよがりの批判記事を目にすることがある。そんな時は駆け出しのころ、先輩記者たちから教えられた「書かれる側の心の痛み」も考えて行動しようと自戒する。いろんな人と出会い、いろんな人から多くのことを教えられた。このごろ、昔のことが思い出されてならない。