こちら編集室(97年4月6日)
インターネットは人と人を結ぶ交流の和かもしれない。そう思った。4日夜、この新聞のアクセス数が1万件を超えたのを記念して、新聞づくりに当初から携わって下さった田沢湖町のデジタルアートファクトリーのチーフディレクター・長瀬一男氏、チーフエンジニア・海賀孝明氏、デザイナーの高橋成人氏、松戸市コンピューターサービスの佐々木徹氏、事務の鈴木博子さん、わらび座東京事務所の横山民さん、友人で写真家の泉谷玄作氏の7人が西木村の民宿「泰山堂」で泊まり込みの祝賀会を開いて下さった。
その祝賀会に夫婦で招待され、松戸市コンピューターサービスからは花束の贈呈と記念品のボールペン、シャープペンシルのセットまで頂いたのである。50年近く人間をしてきたが、花束贈呈というセレモニーの主役になったのは初めての体験である。嬉しかったのはそれだけではない。この新聞を毎日のように東京事務所で楽しんでいるという横山さんのお言葉であり、優しく美しい笑顔であった。失礼ながら、自分よりも年齢を重ねた横山さんだが、この新聞のお祝いのために深夜までお付き合いして下さったその心遣いがなにより有り難かった。
長瀬さんの「伊藤さんの新聞が少しでも、取材経費を稼げるようになれたら良いけど。みんなで考えよう」と懐具合を心配してくれた励ましの言葉もまた、嬉しかった。
この新聞のため、技術的な面で苦労しながらもいつも好意的に指導してくれた海賀さんは、せっせとお酒を燗しては、「伊藤さんどうぞ」とサービス役に徹していた。コンピューターを前にすると冷徹な科学者のように目を光らせる海賀さん。この夜は少年のような目で静かに笑い、喜んでいた。様々な交流があり、友情が育った夜だった。
コンピューターという機械が媒介して、インターネットを知り、人を知り、さらに電子メールという情報伝達を通じて多くの読者を知り、人と人の和は広がった。インターネットがもたらした人の和は自分にとって大切な財産だと思っている。
思えばインターネットで新聞を発行してみたいと、長瀬氏らの下に相談を持ちかけたのは昨年の10月末。そして11月に入ってから、ホームページ作りのため、週1回から2回のペースで田沢湖町に通い、チンプンカンプンのまま12月1日には「秋田県南日々新聞」の名で新聞はスタートした。
当然ながら、アクセス数はゼロ。それでも自分で書いた記事が紙面を飾り、そしていずれは多くの人が目を通してくれるかもしれないと淡い期待は持ってはいた。それが数日後には50数件となり、10日後には100件近くのアクセス数が刻まれ、ドキドキしながらノートに数字の伸びを記録した毎日の喜びは未だに忘れられない。まるで玩具を手にした子どものようにはしゃいだ毎日だった。
しかし、同時に苦しく空しい毎日でもあった。とにかく、一本だけでも記事は毎日入れ換えるという義務を果たしてこそ「日々新聞」である。これは今でも同じだが、毎日、記事を書くということはやはり大変である。好きだった読書もこのごろはほとんどその時間もない。それでもこの新聞を今日まで続けられた原動力となったのは読者のお便りであり、励ましであった。そしてアクセス数の伸びであった。読者からの直接の言葉であった。
知事選の取材のさなかに新進党の笹山登生代議士と横手市で会った。「伊藤さん県南日々、良くやってるね。東京で見てますよ」とのお言葉があった。こういう人までがこの新聞の読者となっていることを教えられ、見えなかった読者の顔が次第に見えるようになった。
今日6日、アラスカから英文のお便りが入ってあった。読者のお便りに取り込んだ木村悦子さんからのお礼の返信のようだ。97年4月6日。日曜日午後。一人で記者室にこもり、この新聞がもたらした人の和のありがたさを温かさを一人で味わい楽しんでいる。明日の励みのために。