こちら編集室「玄作君と少女のブロンズ像」(97・5・1)

 秋田市の「ギャラリー杉(さん)」で開かれた写真家・泉谷玄作さん(37)の花火写真展を観た。写真集で観る作品とはまた違った迫力で花火の爆発の光が、観るものの心を捉えた。美しい青色が複雑な線を描いていた。あやしいまでの魅力を持って迫る赤や金色の光の躍動もあった。プロの写真であると実感した。

 玄作君。中央の出版社からは「先生」と呼ばれるまでになった写真家だが、あえて彼を君と呼んでも自分なら差し支えないだろう。彼と初めて会ったのは、10数年前、当時勤務していた大曲市のカメラ店でだった。少し猫背の貧相な青年だった。その彼が「伊藤さん、相談したいことがあって今夜、訪ねていってもよろしいでしょうか」と小さな声でささやいた。

 夜、自宅を訪ねてきた玄作君は「実はどうしてもプロのカメラマンになりたいんです」と夢を語りはじめた。そのころは自分も写真に夢中だったが、写真で飯を食うということの大変さ、恐らく多くの若者がただ単なる憧れで写真家を目指し、最後はのたれ死に、いや多分、借金だけが残るという悲惨な状態になって無理だったことに気付き、別な道をとぼとぼと歩んでいることも知っていただけに、始めのうちは「止せ、よせ。冗談じゃない。写真で飯を食うなんて無理だよ」と説得した。

 しかし、「写真家の道は小さいころからの夢。どうしてもなりたい」と食い下がった。しかも、「自分は百姓。どうなっても食うには困らない。百姓をしながら、写真を撮って歩きたい」とまで言い切った。そんな悲壮な覚悟を耳にしたとき、思いついたのがそのころ既に風景写真のプロ作家として道を固めていた角館町の千葉克介氏である。彼を紹介することとした。千葉氏は弟子入りを許してくれた。

 その後、十和田湖の奥入瀬渓流で千葉氏の助手として働き、カメラの三脚の足場を固めようとして渓流に転落、激流に流されるなど口で語れない苦労もしたと聞いた。そして独立。とはいえ、夏場は北海道や京都を旅し、冬は東京で出稼ぎし、フイルム代などの撮影資金を稼ぐという苦労も重ねた。そして数年──。写真エージェントに預けた作品は少しずつカレンダーや写真集などに使われだし、玄作君は写真家としての独立した道を歩きだした。

 京都の写真集などに作品が掲載される都度、自宅を訪ねては喜びを報告する玄作君だった。その玄作君の友人・小野則夫氏(故人)も当時は売れない画家であった。小野氏も玄作君と一緒に良く拙宅を訪ねてきた。玄作君はあまり酒は呑めるタイプではなかったが、妻の手料理を口にしながらお互いの出世に夢を馳せては、家に泊まっていった。おそれ多くも当時の自分はまるで2人の芸術家の卵を養っているような気分でもあった。玄作君は控えめに酒を呑み、小野氏はまるで自分を苛めているかのように自虐的にがぶりがぶりと酒を飲んだ。

 控えめだが写真に対する態度は常に厳しく、「伊藤さん、俺は売れる写真だけを撮るんじゃなくて、売れる写真は商品として、そしてもう一つの写真は作品として残しておきたいんだ」とひたむきに語った。小野氏も酔ってくると口角から泡を飛ばす勢いで、「伊藤さん。俺、絶対に俺の作品に高い値段がつくような画家になるからな。そして絵を買ってくれた伊藤さんと奥さんには必ず恩返しはするからな」と小さく細い体を揺すっては夢遊病者のように語った。

 その小野氏の画に秋田市の光悦洞美術館の館長が目を付け、同美術館専属の絵描きとして採用した。絵を1枚仕上げると自分の命を数カ月も削ってしまうような、稠密(ちゅうみつ)な静物画を描く小野氏だった。まるで写真のような仕上がりの絵を書いた小野氏であった。初めての光悦洞美術館での個展。お祝いを兼ねて訪ねると、まさに小野氏の作品はそれまで知っていた画風とは別世界のものとなっていた。そこにはプロとしての画家が誕生していたのである。

 妻と何度も会場を歩き、一つひとつの作品を観てはため息をついた。値段にである。とても手が出せない額の絵となっていた。「でもいいなー」。私たちは気に入った1枚の絵を前に足が地に付いたように動けなくなった。しばらくしてソッと会場から抜け出し、「おいどうする。俺の給料の数カ月分だぜ。でも欲しいね」「うん」。ひそひそと私たち夫婦は語り合った。そして決心を固めた。「買おう」と。後は、一足反に小野氏のもとに駆けつけ、「小野さん。この絵を家に飾らせて欲しい」と頼んだ。小野氏の細い目から小さく光ったものがあった。「ありがとう。伊藤さん」。

 ともかく私たちは小野氏が押しも押されもせぬプロの画家として大きく育ったことに友人として誇りを持ち、喜んだ。だが、絵を書くごとに自分の命を削っていくような小野氏。そしてその苦しみから逃れようと酒を呑み、アトリエにこもった生活をしているという噂が流れ、行く末を心配した。心配は的中した。ある日、アトリエで意識を失い、そのまま病院に担ぎ込まれ、意識を回復することもなくこの世を走るようにして去った。惜しい画家の喪失に悲しんだ。

 一方の玄作君は独自の境地をコツコツと歩み、数年前には写真家のプロの集団である「日本写真家協会」の会員として登録された。「伊藤さんたちご夫婦には本当にお世話になりました」とお礼を兼ねて市内のレストランに招待を受け、ご馳走にもなった。常にニコニコと笑顔を絶やさなかった玄作君夫婦がその日の夜は眩しいほどに輝いて見えた。

 そして今度の個展。妻と訪れ、写真に感心しながら「良かったね。すごいじゃないか」と成功を喜び合った。一通り写真を観歩いた妻は主会場の2階から下りたまましばらく姿を見せなかった。「どうしたんだ」と自分も下りたら、ジーッと少女のブロンズ像の前に立ち止まったままだった。帽子を被った、いじらしいほど可愛い少女像だった。籠を両手で下げ、草原に立っているような姿だった。

 「光と風と友だちと」。ブロンズ像の題名だった。

 「ねえ。玄作さんの写真は買わないで、これを欲しいって言ったら玄作さん、ショックでしょうねー」。真剣な眼差しだった。「いいじゃないか。玄作君だって分かってくれるさ。それにこの会場を使っている手前、俺たちがこの店から買い物したというなら玄作君だってオーナーに顔が立つというもんだ」。勝手な理屈をつけて私はオーナーの杉渕薫氏を呼んでほしい、と店の人に依頼した。玄作君と下りてきた杉渕氏は「いいでしょう。とても可愛くて家でも気に入っているんです」と作家の経歴を語った。

 誠実そうな杉渕氏の人柄もあって、私たちは少女像を自宅の玄関に飾ることを即決した。玄作君も「奥さんらしいのを選びましたね」と大喜びでブロンズ像を褒めた。「ごめん。玄作さんの写真を求めるべきなのに、家では飾るところもないし」。確かにそうだった。玄作君の写真も良かったが、飾ろうとすると場所も無かった。写真はどうしても事務所か応接間が似合う。不釣り合いな場所に折角の作品を置いても居心地も悪い。

 少女のブロンズ像はいま、わが家の小さな玄関に飾られ、共働きの私たち夫婦を朝夕、送り迎えしてくれる。フックラした頬。大きな瞳。少女の顔をジッと見つめていると、10日ほど前に体験した嫌な思いも忘れさせてくれるようだ。人間が心を込めて作った作品には不思議な力を持っているものだと思った。

 ずいぶん取り止めのないことを書いてしまった。実は記者には先月末、ムシャクシャするほどの嫌なことがあった。その救いを少女像に求めた。強く求めた。ブロンズ像の少女の小さな笑顔に夢を託そうと、妻に購入を強く薦めたのかもしれない。ともかく、この新聞は続けようと少女に語った。