こちら編集室「携帯電話とマナー」(97・5・21)
いつも行く小さな食堂で食堂側がサービス用に用意している週刊誌を読もうと、そばにいた若者に「よろしいですか」と断ったらいきなり「駄目だよ」と大声の不意打ちを食らった。相手はその週刊誌を見ようとしている様子でもない。
「何だろう。こいつは」。ぐっとその言葉が胸に突き刺さって相手をにらんだらラーメンをすすりながら携帯電話で話している最中だった。声は食堂中に響くような大声である。食事中の人たちも顔をしかめながら、若者に迷惑そうな視線を投げかけていた。
携帯電話。私自身もこの便利な機械の恩恵を受けているが、なるほど場所によってはこれほど迷惑な機械はないと思った。飯を食いながらもとにかく喋ってないと気が済まないのか、若者はラーメンをすすっては延々と相手と通話である。しかも、「駄目だ。バカ」。「おれは知らん」。けんか腰の乱暴な言葉が次々と飛び出しては悦に入っているのである。
不快指数100%近くなったと思ったところで、とうとう店の女主人が厨房から出てきて「お客さん、もう少し静かに食べてもらえませんか」と若者に忠告。電話の騒音はやっと修まった。
私自身もあわてたことがある。図書館で新聞に目を通していた時である。いきなり背広の中がビリビリと震えはじめ、何事かと飛び上がるほどびっくりした。まだ携帯電話に慣れていない時である。気付いたときは電話を手にして後先も考えずスイッチを入れ「もしもし伊藤ですが」と大声を出してしまった。一瞬、周りの人の目がこちらに注がれたのに気付き大慌てで外に飛び出した。
食堂での若者の電話騒ぎを見ているだけに受信されたときは場所に気を付けよう、気を付けようと自分に言い聞かせておいてもこうである。最近ではようやく場所を弁えて利用できるようにもなり、先日、大曲市民会館で開かれたコンサートに行ったときは事前に電話のスイッチを切るというマナーも守った。
ともかく在って便利で、在って不便な現代が生み出した利器である。先日は飲み会があって、ワイワイガヤガヤとやっているうちに背広を脱いだ。いい気分で家に帰ったら妻がなぜかご立腹である。「なによ。どうして出なかったの」。「えっ。何の話?」。「電話よ。いくらかけても出ないじゃないの」。飲み先に電話をかけてくるような妻ではないが、どうしても聞きたかった大事な用件があったわけである。「済まん。済まん。暑くて背広を脱いでいた」。言い訳でもなく、ともかく事実そうであったからである。
路上で、階段下で、デパートの入り口で、あるいは車内で。携帯電話での会話の姿がこの大曲でも良く見られるようになった。しかし、かけてくる相手もこのごろはマナーを身につけているようで嬉しい。「○○です。いまお話してもよろしい場所でしょうか」とわざわざ承諾を求めた上で、話をしてくるのである。路上ではちょっと気恥ずかしいが、通行人がいない場所だったので数度、会話を受けた。県南日々新聞で取り上げた記事に対するお礼の電話であった。また記者会見の日程を知らせる市からの電話でもあった。
この携帯電話に関して産経新聞の「産経抄っ子」がきついお叱りの文(5月3日)を書いていたことが思い出された。「街角で、路上で、人ごみで、つまり、ところ構わず電話にがなり立てている。その図は、獣が空に向かってうそぶいている姿を連想させてしまう」と。なるほど他人の迷惑を考えず、その上、場所も弁えず大声で話す姿は見ていても嫌な眺めだし、耳障りだ。
しかし、電話を手にし、その便利さを知ってしまった今では身から放す気にはならない。それだけに相手に迷惑をかけないような使い方を携帯電話所持者は工夫すべきだと思う。食堂で他人の耳も気にせず大声で話すあの若者はなるほど獣に似ていた。我々も獣のような姿にはなるまい。
ともかく場所に注意することを心掛けたい。それにしてももしあの時、自分も含めた内部の客が若者に注意をすべきかどうだったかは未だに回答がでない。最近では車のクラクションを鳴らされただけで、相手を殺してしまうような事件さえ耳にする。そんなことまではならないとしても会話を楽しみながら食べるのも食事の楽しさである。それだけに電話での会話も確かに会話であり、注意するのは余計なお節介かと思う躊躇(ためら)いがあったからである。同時に食堂のお客さんの管理責任は食堂の経営者にある。変な騒ぎを巻き起こしてもしょうがないとも思った。
幸いタイミング良く、食堂の女主人が注意したからこそあの場は、何事もなく修まったのかもしれない。見も知らぬ男に注意されたら、若者の心も深く傷つき、メンツをかけての逆襲を受けることになっていただろうから。難しい時代だ。