こちら編集室「読者の反響」(97・8・6)
県南日々が取り上げる記事に対して、見知らぬところから思わぬ反響を耳にするようになった。嬉しいことだと思っている。
その一つは「大曲市がホームページ」を開設したというニュースである。掲載して間もなく横浜市の読者の方が、同級生である大曲市職員に直接、手紙を寄せられた。「読んでみませんか」と手渡されたその手紙には「県南日々で『大曲市もホームページ開設』の見出しを見て、すぐにアクセスしたら懐かしい大曲の風景が目に飛び込んで、この正月帰省したのは一体、何だったろうなと思うと同時に便利な世の中になったとしみじみ驚いてます。きっと今では私の方が大曲の人より大曲通かもしれませんよ」と書かれてあった。
そして今日6日には大阪の読者が「県南日々新聞で西仙北町のホームページを知り、さっそくアクセスしてみました。故郷を離れて30年ですが、心にはいつも豊かな自然、深い人情が残ってます。ホームページには沢山の情報が掲載されていて、ほんとうに嬉しい限りです」との電子メールがページ制作を担当した大曲市の松戸市コンピューターサービスにあったとの報告があった。 県南日々への直接のメールではないものの、見知らぬ所で県南日々は読まれ、故郷の新聞として多くの人に支えられていることを改めて知った。
そう言えば、グランドパレス川端が「山の手ホテル」のPRを兼ねた小冊子「憧憬」を発行した記事を掲載したら、その日の内に十文字町出身で埼玉県在住の読者から「小冊子『憧憬』を手に入れるにはどうしたらよいか」との素早い反応と問い合わせがあって、手配したこともあった。
そして昨日は大曲市の建設部職員から「伊藤さん、海外青年協力隊の一員としてタイに行っていた親類の子が帰ってきたので、大曲の事でも少し話してやろうかと思ったら、『おじさん、大曲のことは県南日々で毎日、見てたからみんな分かってますよ』と言われてしまった」と頭をかきながら、嬉しいお話を聞かせてくれた。
そしてまだ一度も取材に行ったこともなかった雄物川町からは電子メールで「全国川サミットが7日からわが町で開かれます。県南日々の取材をお願いしたいのですが」との要請があった。本来の仕事の合間を縫って取材に行くことにした。
昨年12月1日、ヨチヨチと歩きだした県南日々新聞だった。紆余曲折の連続だった。こんな事で何になるんだろうと、霧のなかを手さぐりで歩くような孤独感と不安な毎日だった。そして経済的な支えは何もなく、むしろ記事や写真がパソコンの中にたまれば溜まるほどハードデスクの残量は少なくなり、新たな出費に悩まされるばかりだった。
大新聞のように人的な組織と経済的な裏付けがあっての新聞発行なら心配はないが、まるで個人行動である。弱気になることもあった。そんな自分に対して河北新報社のインターネット担当の早川さんからは「弱気になっているみたいですね。少なくとも仙台とアラスカの読者は県南日々を楽しみにしてますよ」との励ましのメールがあった。アメリカの岩間さんからは「県南日々は大丈夫ですよ。時代の先端を行ってますから」との励ましもあった。
こうした早川さん、岩間さんからの励まし、そして県南日々への直接のメールではないものの間接的にその存在を知る読者の声を耳にすると無責任なことは出来ないと思う。 空しいと思うこともあった。インターネットで県南日々を発行しているんだと話題にしても、まるで冷やかしのように「インターネットか」と小馬鹿にしたような調子で聞き流す人も多かったからだ。さらには「それで金になるのか」と追い打ちを掛けられるのである。カネにならないと価値観がないとでも言いたげなのである。確かに現状では、お金にはならない。また自慢にはならないが、「お金を稼ぐ」という事に関しては見事なほど下手であり、苦手な自分である。
しかし、お金にはならなくとも県南日々は郷里を遠く離れて暮らす人たちに「ふるさとの様子」を伝える情報伝達手段として、また一つの文化としてもう少し温かい目で見てほしいと思ったことはあった。
残念ながらそう言う人たちの多くがインターネットもパソコンも触ろうとしない言わば食わず嫌いの人たちである。そうした人たちの理解を得られないまま、県南日々は9カ月目の誕生日を過ぎた。空しさと期待と喜びと不安とが交差する毎日だが、自分でタネを播いて、歩きだしたミニ新聞である。何か可愛いとさえこのごろ自分でも思うのである。
今日から文化欄に大曲市職員がドイツ連邦共和国の友好都市「テトナング市」を訪問した時の記録が掲載された。美しいテ市の街並み、懐かしいマイヒレ市長の顔があった。過去2度訪れたテトナング市。優しい人情にあふれた町だったと記憶している。県南日々がいつかテトナング市とも情報を交換できる日が来ることを望みたい。