こちら編集室「父の死」(97・8・14)

 お盆の13日、ユックリした気分で父・母の眠るお墓参りをしたいと県南日々のニュースの取材は休んだ。それでもアクセス数が13日に3万8400代だったのが、翌日になると3万8600代にと増えているのを見て、不思議な感動を覚えた。「県南日々」は取材を休んでも全国の、あるいは世界のどなたかが目を通して下さっているんだなと、なんとも言いようのない感動だった。

 夕焼け空が美しく映える田園の中に位置する墓地で眠る父は自分が33歳の時、77歳で病死した。母はそれから8年後、自分が41歳の時に85歳で老死した。20歳(はたち)で小さな新聞社に入り、妻を迎え、共働きしながら迎えた父と母の死だった。

母が脳溢血で倒れ、病院で母の面倒を見ていた父が、それから間もなく肺がんで倒れて入院したのは1979年2月だった。主治医は「あと半年でしょう」と死期を告げた。

 それから父が亡くなる9月27日までの8カ月間、妻と自分は病院のベッドの下にねぐらをつくっての生活となった。母はおしめをあてがい、父は気弱となって病室でほろほろと涙を流す毎日だった。おしめのままおしっこをするのをためらった母は深夜、何度も目を覚ましては妻を呼び起こして車イスでトイレに駆けさせた。お互い寝不足が続いた。寝不足のまま二人は職場へ通った。

 糞便で汚れた母の下着は当初、見るのさえ恐かった。それがいつの間にか恐さも失い、寝不足の妻任せに出来ず、下着の取り替えを手伝い、洗濯までやれるようになっていた。一方の父は次第に病気が進み、大部屋から個室へ、そして最後はナース室隣の特別室へと移され、死を待つだけとなった。母の病室から父の病室へと自分たち夫婦はねぐらを移し、父の看病へ重きを置いた。

 ゼイゼイと苦しそうな呼吸を繰り返す父の目にはいつも涙があった。そんな父には何も語ることが出来なかった。妻が「うん。なーに」と声をかけるだけだった。「もうダメだな」。この世を去る10日ほど前にかすかな声でそう言った。「なに弱気になってるの。先生だって大丈夫だって言ってるのに」。妻の怒ったような声が病室に響いた。車イスで階上の病室から見舞いにきていた母は何も言わず涙を流すばかりだった。それから数日して父は意識を失い、9月27日夜、静かに呼吸が停まった。

 「我慢強いお父さんでしたね」。最後を見取った看護婦と医師のねぎらいの言葉にたまらず涙があふれた。「おやじ。後のことは何も心配しなくてもいいからな」。涙声で病室で叫んだ。

 小さな新聞社の記者になったころ、一番、喜んだのは父だった。「新聞記者なんて、そう誰彼なれるものじゃないから頑張れ」。父が思うほど自慢できる社の実情でないことを知れば知るほど励みを失い、挫折しそうな自分だったが、父と母が誇りとする姿を見ていると「辞めたい」とは言えなかった。

 夫婦心中、交通事故死などがあれば当時は何が何でも顔写真を手に入れるのが新聞社の使命だった。不幸のどん底に落とされた相手方を訪れ、「亡くなった方の冥福を祈り、このような不幸が二度と起きないためにも読者と共に力を合わせたいのですが」と、顔写真を手にするための手段としてのせりふを、記者室でマージャンとともに手ほどきしてくれたのは親子ほども年齢が違う東京紙の記者だった。そのせりふを頭にたたき込んで、やっと手に入れた顔写真。「よくやったぞ、伊藤君」。褒めてくれたのもその先輩記者だった。

 お酒をご馳走になり、共同取材に走り、取材のイロハの指導を受けているうち、「伊藤君。地方回りの記者をやってみないか。推薦して上げるよ」と飛び上がりたいほど嬉しいお話を持ち出してきた。喜び勇んで家に帰り、報告をしたとき、最も寂しい表情を浮かべたのは父だった。「頼りになるのはお前しかいない」。口には出さなかったが、無言の夕食となった。翌日、「家を離れることはできない身分なんです」と報告した。「そうか。お年だからね、ご両親は」。それから先輩記者は間もなく大曲を去った。

 父や母は、こんな話があってから10年に満たないうちに病院の人となり、死を迎えた。最後を頼むと自分たち夫婦に期待したのはこうした老後の事だったかもしれない。

 月日は流れ、インターネットという代物が怪物の誕生のように騒がれた。パソコンに疎い自分も昨年4月には導入に踏み切り、そしてインターネットを体験するうち、新しい情報発信手段としてまた、自分の自由な発言の場をつくりたいとの副次的な目的もあって、田沢湖町のわらび座の人たちやこのパソコン購入時にお世話になった松戸市コンピューターサービスの協力を得ながら「県南日々」を開設した。

 13日には災害発生時の情報ターミナルとして「報道ネットワーク もう地震には負けない」との表題を付けてホームページを開設している姫路市の吉田彰さんからメールがあった。本紙読者のお便りにも掲載され、リンクできるようになっている吉田さんのホームページは災害時に備え「尋ね人情報や避難場所、救援物資、医療機関、ボランティアの救援」などを書き込めるようになっている。阪神淡路大震災を経験した姫路市の人ならではのページだと敬服している。

 その吉田さんからのメールは「ウェザーライン様よりリンクの承諾を頂きました。気象情報(全国版)、地域情報などこんな気象情報が欲しかったとだれもが思えるサイトです」と紹介の呼掛けであった。なるほど全国どこからでも居ながらにして気象衛星「ひまわり」の写真を手にすることができ、詳細な気象情報も得られる。災害時に備え、役立つページで在りたいとする吉田さんの努力には頭が下がるばかりだ。 まだ一度もお会いしたことのない吉田さんだが、インターネットという新聞は思わぬ人脈を広げているようだ。