宮崎 駿監督作品「もののけ姫」の背景モデルは秋田の白神山地

 この秋田日々新聞の読者の中にも、この夏、7月12日(土)から東宝洋画系で公開となった長編アニメーション映画「もののけ姫」を御覧になった方々も多いと思う。
監督は天才、宮崎駿。そして、そのスタッフのスタジオジブリ提携作品となっている。
宮崎作品には「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」など、数々の名作があるが、公開前からこの「もののけ姫」は彼の集大成というべき超大作としてアニメファンだけではなく、日本の映画ファン全体の注目を集めていた。
 そして、その期待どうりのすばらしい作品に仕上がり、当初の予想をはるかに上回り、1983年に公開された「南極物語」を抜き邦画新記録を達成。日々、その記録を塗り替えていることは、もうご存じかと思う。
このまま行けば、もはや「E.T.」の持つ国内最高配収記録96億円突破も夢ではない勢いである。

 さて、この「もののけ姫」。
もう御覧になった方も多いと思うが、この作品の背景画に秋田県の白神山地がモデルとして描かれていたことをご存じだろうか?

 白神山地は、秋田県北西部から青森県南西部へとまたがる面積約130,000haの土地の総称でその中心 部約17,000haが屋久島と共に1993年に世界遺産(自然遺産)に指定されている。
 人間活動の影響をほとんど受けていない原流域が集中し、 世界最大級といわれるブナ林が広域に渡ってほぼ原生そのままの姿で残されている。
人間の進入を拒んでいるようなブナ林内には多種多様な植物群が共存し、それに依存する多くの動物群が育まれ、 自然の生態系がありのままの姿で息づいており、そこに住む動物、特にツキノワグマなどのほ乳類、 クマゲラに代表される鳥類や昆虫類などの宝庫なのだ。

 さて、世界遺産とは、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に基づき、世界の全ての人々に関係するようなすぐれて普遍的な価値をもつ遺産で、文化遺産と自然遺産の2つに大別されているのだが、日本の自然遺産として指定されているのは、この白神山地と屋久島だけなのである。

 そして、この世界遺産に指定された二ヶ所の森がこの「もののけ姫」の背景モデルに選ばれているのである。

 それに、秋田県人として嬉しくなるのは、実は、この作品の美術担当の一人には秋田県出身の方が参加されている。
 お名前は男鹿和雄さん。
男鹿さんはこの作品を手掛けるに当たり、白神山地にロケに来られて実際に森の中を歩かれ、その風景を参考にして主人公である少年アシタカの村の背景を描かれたそうだ。
 秋田の森を秋田出身の人が画いているのである。
これを知ったら見なければならない。・・・秋田県人ならば絶対見るべきである。(笑)

そういうわけで、わたしも見に行った。
 この「もののけ姫」は、舞台を室町時代に置き、主人公は今までの映画では取り上げられなかった歴史の舞台には姿を見せない一般の人々、そして、その人間達と自然を守ろうと対立する荒ぶる神々(もののけ)との戦いの中に生きる過酷な運命を背負った少年と少女の物語であった。
 今までの宮崎作品には見られない衝撃的なシーンから始まり、観客を一瞬のうちに室町時代に引き込んでしまう強引なまでの表現力、本当に日本が世界に誇れる映画に仕上がっている。
 そして、その優れた映像に負けないストーリー展開は、さすが宮崎作品である。

 ただ「となりのトトロ」の時のような「なつかしい自然」はそこにはなかった。
どちらかと言えば、「太古の自然」と言うことになるだろう。
宮崎監督が、世界遺産である「白神山地」と「屋久島」をロケして画いた世界がそこに広がっている。
雄大でいて、しかし、日本以外のどこにも存在しない風景。
少年の頃見た風景とは違う、私たち日本人の遺伝子の中の記憶に残されている自然と風景がそこにはあった。
ストーリーの奥に隠されている「人類と自然との共存」というテーマの重さが、森の中に差し込む光のように心に入り込んでくるのだ。

 鉄を手に入れるために森を切り崩していく人間と、その森を守ろうとするもののけ達。
室町時代という設定の中で展開していくストーリーは、どうも、現代の私たち人類がしでかしている事への警告のような気がしてならないのである。
 今までの、この手の物語なり映画では、人間は悪い、もののけ達が正しいという結末が待っているはず。
そうすることで、観客は何となく安心して家路に帰れたわけだが、この物語はそう単純ではない。

 主人公の少年アシタカは、「僕はこれからディープエコロジストになります。」なんて言わない。
「だってしょうがないじゃないか・・・」とも言わない。
ただ、「それでもいい。共に生きよう」という言葉が、わたしには切なくてしかたなかった。

 これは、現代人の抱える最大の矛盾のような気がする。
私たちは、もはや十分に自然の尊さを知っている。世界的にも認められ保護されている場所も増えていくことだろう。
しかし、その一方で、今までの暮らしを捨てられない。
どんなにエコロジストを気取った人でも、もはや人工の世界でなければ生きられないのである。

西木村の風景 わたしの住んでいる西木村でさえ、それは例外ではない。
自然がいっぱいある村ではあるが、やはりそれは人間が手を入れた自然だ。
田園が広がり、人間によって植えられた杉の森が多く存在する自然である。
人間にとって都合のいい自然なのだ・・・。
 少なくとも、わたしは、この「もののけ姫」を見て、とてもやりきれない気持ちになり映画館を出なければならなかった。

 明確な答えがどうしても出せないのである。
ただ、言えることは、自然との闘いに人間は永遠に負けるはずだし負けるべきであると思った。
この戦いにもし、我々人類が勝つときがあるならば、それは多分、もう人類の存在も終わるときではないのだろうかとも思った。
 宮崎監督の意図するところは、相当深い絶望感と、かすかだけれど痛切なる希望を込めて「言うべき事は言ったぞ」という手遅れになりそうな危機感を私たちに提示している作品だと思われる。

しかし、正直、「難しすぎて、子供たちには意味が分かるのだろうか・・・?」とも思った。
だが、すぐに考えが変わった。子供時代の自分を思いだしたのである。
近所のおじさんがコンクリートで固められた小川を見て「奇麗になったべ。これで、蚊もいなくなるし、雪を捨てるにも都合が良くなった。」と言った。
子供のわたしは、もう魚がいなくなるのを知っていて全然嬉しくなかったのを思い出したのである。
子供の方が、本質を見極める心を持っているのではないかとも思った。

 また、この作品を見て、わたしの尊敬する大好きな作家 司馬遼太郎さんを思い出した。
「一遍の小説を書くよりも苦労した。」と執筆者仲間にもらされながらも、小学国語教科書(「小学国語」六年下)に書かれた「二十一世紀に生きる君たちへ」という書き下ろしの文章の中の一遍を思い出した。
「人間こそ、一番偉い存在だ。という思い上がった考えが頭をもたげた。二十世紀という時代は、ある意味では自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。」
「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている」
という文章が心をよぎった。

そして、ふらふらと帰り道に小さな本屋で偶然にも「時代の風音」という宮崎駿さんと司馬遼太郎さんとの対談集を 見つけて驚いた。
その中に、司馬さんが宮崎さんにお願いがあると切りだしたところがあった・・・。
「人間への大きな批判をこめた平安朝の物の怪は、アニメーションにならないでしょうか・・・」と。

それを見て、この作品は宮崎監督の個人的な「司馬遼太郎追悼作品」でもあったのだろうと思った。

追記、
これを書いている最中の新聞に、白神山地のある八森町で展望台の見晴らしが悪くなったためブナの木を切るべきか、切らざるべきかという協議が行われたと一面記事として取り上げられていた。
自然保護を優先せよと言うのは簡単だが、これといって何もない地元の人達の観光への思いも、田舎にすんでいる自分としては切実な問題であると言うことが理解できる。
なんとも、「自然と人間との共存」というのは難しい問題であり、だからこそ、今、真剣に考えなくてはならない問題であると痛切に感じた。

(秋田日々新聞の読者の方には海外で活躍されている方も多いと思うが、この「もののけ姫」はディズニー映画の配給により世界でも公開されるとのこと。また、詳しい情報はスタジオジブリがホームページで情報発信しています。是非、御覧になることをお勧めします。)