こちら編集室「矢切りの渡し」(97・11・7)
松戸市から江戸川を越える「矢切りの渡し」を渡るとそこは映画「ふーてんの寅さん」の故郷・東京は柴又、「帝釈天」のある門前町であった。映画ソックリの街が帝釈天を頂点に、短冊のように延びていた。寅さんシリーズそのものはあまり見たことはないが、寅さんがひょっこり表れて来そうな不思議な思いに捉えられた。売り子の声が流れ、活気にあふれた街の様子は東京下町のエネルギーを感じさせた。
「松戸にいらしてみませんか」。「秋田県南日々新聞」が、いろんな意味でお世話になっている「松戸市コンピューターサービス(以下、MCS)秋田センター」から本社への招待を受けたのは先月末だった。東京までの切符とホテルまで用意しているという。MCSからの依頼を受けて、ホームページをデザインすることになったデザイナー「グラフィック」の高橋成人さんと31日朝8時大曲駅出発の新幹線「こまち」に乗り込んだ。
大曲駅ホームでは寒さに身を固くして新幹線を待ったが、松戸市は背広姿では汗ばむほどの温かさだった。MCS本社でも多くの方がワイシャツ姿での仕事だった。秋田で寒さに震え、松戸で温かさに汗ばむ。北国秋田の天候のハンディを大きく感じた。
MCS秋田センターの宮本亮一所長の案内で、常務取締役の中村雅實氏、社長の金居良忠氏の紹介を受けた後、高橋さんは早速、ホームページの打合せ作業に入ったが、こちらは特別な用事もなく、秋田センターの佐藤寿洋さんの案内で本社や管理センター、電算処理センターなどを見学。夕方に高橋さんがいる打合せ場所に同席した。打合せの最中、何度か高橋さんの口から「県南日々」が話題に取り上げられたとのことで、ページ運営の責任者となる同社管理部の森脇紘部長から「何か一つアドバイスを」となった。
MCSも高橋さんも「単なる会社のPR用のページでは見てくれない。PRを前面に出すというより、とにかく多くの方に目を通してもらうページを作りたい」との考えで一致していた。女性社員も含めた6人がテーブルを囲んでいた。
私は「県南日々はとにかく毎日1本か2本、必ずニュースを流している」ことを強調。この書き換えという努力が必要だということを強調した。文章を書くことに慣れてない担当社員は困惑の表情を浮かべたが、「本格的な取材やニュースを書けと言うのではなく、タウン誌的な性格で気楽に取り組める方法を考えてもよいのではないか」と差し向けた。例えば松戸市にあるスナックやクラブの女の子を写真と簡単なメッセージで紹介する。それも一気に何十人も取り上げるというのではなく、社員が飲むに行った際に、写真を撮って、そしてその店を紹介する。この積み重ねだけでも県外から松戸市を訪ねることになる人には大切な情報源となるはずだからである。
ようやく「それならやれそうだ」と話しも弾んだ。また、秋田市の高杉静子さんが運営しているホームページ「あきたNEWS」も紹介。新聞に掲載された松戸市関係のニュースを参考に、書き手が自分の考えを加えながら独自の文章に書き換える方法もあることを語った。だれもが自由に発言し、和気あいあいと会議を進める温かさは、この会社が若い人を中心にコンピューターの可能性を探る探究心の強さからだろうと思った。
そして翌日に歩いたのが「矢切りの渡し」である。真っ青な青空が広がり、江戸川の風が爽やかに流れていた。タクシードライバーは「矢切りの渡し」に行く前に、こちらが尋ねた「金木犀」の花を見つけたいと何度も住宅街で車を止め、探してくれた。10数年前、東京から秋田までお客さんを乗せて走ったことがあるとかで、秋田である私たちにとても好意を寄せてくれたのだった。花はとうとう見つけることは出来なかったが、伊藤左千夫の「野菊の墓」の舞台となり、そして歌手の細川たかしさんの歌の舞台となった「矢切りの渡し」に着いた時は切ないほどの懐かしさと郷愁感が沸いた。
もうあのような小説は古典過ぎて今の若い人に理解を求めても無理かもしれないが、「野菊のような人だ」と政夫が語った民子との純愛。そして「連れて逃げてよ」と歌った細川さん。
「矢切りの渡し」には数々の男と女のドラマがあったように思えた。私たちを乗せた舟はユックリと江戸川を渡った。カモメがそばに寄ってきた。川は晩秋の日差しを受け、銀色に輝いていた。悲しみ人を乗せ、あるいは若い人たちの希望を乗せ、江戸時代からとうとうと続いた歴史を乗せて舟は東京・柴又へと着いた。
前夜、宴会の席上で同席して下さったMCSの中村常務さんをはじめとする幹部社員から、「伊藤さんには末永いお付き合いを願いたい」と温かい励ましを受けた。県南日々は何か新しいドラマの展開に向けて「矢切りの渡し」を渡ったように思えてならない。