こちら編集室「わが友となった国語辞典」(97・11・14)

 手元にいつも置いている辞典は三省堂の「新明解国語辞典」第四版である。この辞典を購入する動機となったのは「文藝春秋」の1993年3月特別号に掲載された画家で作家の赤瀬川原平さんの文との出会いだった。題して「新明解国語辞典の謎」である。

 何気なく目を通したのだが、たまらないほどのおかしさ、着眼の面白さと観察の巧さ、簡明でピリリと辛味を利かせた文章にいっきに読み上げてしまった。読んでから、よし自分も買ってみようと本屋さんにかけつけていたのである。

 なるほど辞書がこれほど面白い読物だったとは思わなかった。赤瀬川さんは書く。「私はSM君から三省堂の辞典の中に誘い込まれた。何で辞書の中に?と怪訝に思ってついて行くと、それが単なる辞書ではなく深い密林のようなところで、あれよあれよと読むうちに出られなくなり、危うく遭難しそうになった」と。

 赤瀬川さんが言うように辞書というより読物なのである。まず「恋愛」。「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態」と説明する。

 とにかく微に入りさいをうがつ説明は時には声を出して笑いたいほどおかしいのである。ちなみに広辞苑を開くと「恋愛」は「男女間の恋い慕う愛情」と素っ気ない。「出来るなら合体したいという気持ち」までは踏み込んでない。さらに「勃起」である。新明解では「急に力強く起(た)つこと。狭義では、合体を思い、陰茎が伸びて堅くなることを指す」と来る。ともかく「合体」にこだわるのである。広辞苑は「にわかにむくむくとおこりたつこと。ふるいおこること」とさり気ない。新明解は広辞苑のようにお上品に止まっておらず、常に前向きに突っ込んで来るのである。

 いわば「親切で、ていねい過ぎる」のである。赤瀬川さんではないが、手にしてからしばらくは新明解辞典の中をまるで宝物でも探すように“言葉探し”の冒険をしてしまった。

 そしてこうなると黙っていられない自分は「新明解辞典」の歩く広告塔となってしまった。つまり、取材先で何度もこの「辞典」の面白さを話題にしたのである。ある職場では、その辞典が本箱にあるのを見つけ、一人でニヤニヤしてしまった。事務を執っていたまだ独身の女性が変な目で見つめ「なによ。気味が悪い」とにらんだ。「いや、その辞書。その辞書がね」。私は赤い背表紙の辞書を指さし、あわてた。女性はさらに「なによ。辞書がどうしたっていうの。お化けでもいるって言うの」。目を輝かし、なかなかきつい口調で追い詰めてきた。 「いや。とにかくちょっと目を通してごらん。例えば『恋愛』を」。「えーっ。なんでー」。独身女性は興味津々の目で辞書を開いた。「どれどれ」までは良かったが「ヒャー。なにーこれー。合体したいだなんて」。甲高い声が部屋中に響いた。

 「オイオイ。日中から何を言ってるんだ」。周囲から男たちが集まった。「ちょっと見て!見て!。すごいエッチなんだもん。この辞典!」。彼女は頬を染めて、それでいて嬉しそうだった。

 とにかく「新明解辞典」と作家の赤瀬川さんのおかげで、その日、私はその職場のちょっとした人気者だった。集まってきた男たちは次々と性的な言葉を懸命に捻り出しては辞書を調べ、笑いが渦巻いた。以来、「新明解辞典」は自分の友のようにいつもパソコンのそばにデンとしている。辞書にこんな親近感を抱いたのは初めてである。赤瀬川さんもおっしゃるように言葉の説明のうえにそれに付随した比喩がまた面白いのである。

 例えば「狂う」。「働きはするが、そのものの正常な機能が失われる」とあったほかに、具体例として「競輪(女)に─〔おぼれて、生活のリズムがすっかり失われる〕」とまでやる。何もそこまで踏み込まなくてもと、ついこの辞書を編集した人たちに同情してしまいたくなるのである。

 このごろ心が乱れだした。「フラフラ」した気分である。新明解は説明する。「心がしっかりしていないため、状況の変化などに簡単に動かされやいことを表す」と。ともかく、私自身が「フラフラとどこかへ出てゆきたい」心境なのである。

 なぜだろうと思う。揺れ動く心に苦しむ。失意。そうかもしれない。浅はかな自分に意味もなく悲しくなる。「失意に泰然たれ、得意に淡然たれ」と昔の人は言った。しかし、凡庸な自分は失意を前にするとヘナヘナと水分を失った花のようにしぼんでしまう。得意になると大声をあげて漫然と歩きたくなる自分だが、得意になれるようなことはこのごろない。「心がしっかりしていない」自分のため、もう一度、新明解辞典の森の中を歩いてみようか。(赤瀬川原平氏の「新明解辞典の謎」は単行本となって販売されてます)