こちら編集室「神の言葉から」(97・11・24)
親類の娘がお婿さんを迎えることになって、初めて教会での結婚式を体験した。信者でもないのにと戸惑いもあったが、厳かに営まれる式を見ているうちに教会での結婚式もまた良いものだと思った。言葉があり、オルガン演奏があり、歌があるからである。
サッパリ分からない日本の神々を前にしての祝詞(のりと)を聞いているより、分かりやすいのである。「神の言葉をこれから述べます」と歯切れ良い牧師の声が教会に響いたときの荘厳さは何とも言えぬ優しさと美しさがあった。手元にはその言葉を書いた「コリント人への第一の手紙・第十三章」があった。
「たといわたしが、人々の言葉や御使(みつかい)たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。(略)愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない」。
聖書を読み上げる牧師の声はかなりのスピードで教会内に流れるのだが、聞いていて、そのリズム感の美しさに感動した。歯切れ良さに酔った。言葉の美しさに打たれた。これは神の言葉というより、荘厳な詩の朗読だとさえ思った。高度な文学書との出会いのようにさえ思った。若いころ、わずかにかじったことのある聖書だったが、これほどの感動はなかった。牧師が神の声として伝えるからこそ、このように感動をあたえるものだろうか。不思議な思いで、牧師の静かな声に耳を傾けていた。
しかし、愛とはなんだろう。人を愛することによって、人を好きになることによって体験する悲しみと寂しさ、泣きたくなるような辛さは何であろう。それを乗り越えて、世間の祝福を受け、ゴールインするカップルの誕生は良い。しかし、妻あるものが人を好きになり、苦しむ。夫あるものが人を好きになり、苦しむ。世間はそれを「不倫」という2文字にひっくめるが、当事者の心の源流に流れているのは純愛であり、真珠のような美しい輝きをもった慈しみではないであろうか。純愛であるからこそ、小説にもなり、人はそのストーリーに感動する。そして憧れる。大ヒットとなった「マディソン郡の橋」。川端康成の「雪国」。井上靖の「ある落日」、「氷壁」など。いずれも妻あるものが、一人の女性を愛し、求めた。
六郷町の川柳作家・小諸索さんの「句文集『風紋』」を「こちら編集室」で紹介したのはいつだったったけ。
「さめざめと泣いて男を斬っている」
「逢えた日は櫛に素直な髪となり」
「生い立ちに触れぬ二人の夜の深み」
女のかわいさ、情念を見事に歌いきった小諸さんの「川柳」に心打たれたのも、そこに「倫」を踏み破った「勇気」と、はたからは伺い知れない男と女の「悲しみ」と「美」を見たからである。どうもいけない。世の妻たちや夫たちから指弾されそうな「不倫」の勧めを書くつもりではない。「愛別離苦」。この世には男と女しかいないから、ドラマがあり、小説が生まれる。小説は人生の潤滑油であり、人生の教科書である。小説に男と女のドラマがなかったら無味乾燥の世界で、読む人もいなかっただろう。
支離滅裂になってきたが、さて聖書である。表紙写真にも書いたが神の言葉の「愛の世界」には「(愛は)不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」とあった。だれだって喜んで不義をおかすものはいまい。しかし、それを超えてしまった愛の苦しみを救う言葉がない。結局、一人で苦しめというのか。
教会での結婚式を見ながら、いろいろと思考を張りめぐらした1日だった。若い人たちの喜びのスタートを祝いながらも。そしてその結婚式の宴に顔を見せた女性たちの美しさに目を見張り、アメリカの作家・ヘミングウエーの言葉を思い出していた。
「ああ。美しい人よ。あなたは今、私のものだ」。 パリを旅した作家が喫茶店でたままた隣り合わせた美しいパリッ娘に感動し、心の中で思わずつぶやいてしまったと言う。「美しい人よ。あなたは今、私のものだ」と。県南日々を取材し、編集している自分も単なる男に過ぎない。心の底流には悲しみや苦しみを伴いながらも、恋をしてみたいという秘かな願望があるようだ。神の言葉では救われず、一人で苦しむしかないのに。