こちら編集室「櫛風沐雨(しっぷうもくう)」(97・12・6)

 「櫛風沐雨(しっぷうもくう)」という言葉が好きだ。風が髪を梳(くしけず)り、激しい雨が髪を洗う。風雨にさらされた苦労を重ね、生きた人を言う。 我が生きざまは思い返すと、ぬるま湯に浸かったままの半生だったように思えてならないが…。

 戦前に生まれ育った兄たちは随分、羽振りのいい幼少時代を過ごしたらしいが、戦後生まれの自分は両親の経営していた店も凋落(ちょうらく)の一方で、貧しさのどん底をなめていた。新聞紙を商品を入れる紙袋として使うため、毎晩、遅くまではさみで切っては折り続ける父や母の姿を見ながら、子供心にも貧しさを実感していた。しかし、父や母の飾り気のない、実直で不器用とも言えるほどの愛情はいつも感じられた。

 風邪で寝込むと気違いのように騒いで医者を呼び、頭を冷やしてくれた母。仕事を投げて何度も何度も枕元に来ては「なんとだ。なんとだ」と具合を聞き、サイダーを手に「飲め!飲め!」とのどを冷やすことに真剣になった母。

 寝込んでしまった自分を心配して、行商に行くのもあきらめ、そばでおろおろしながら様子を見ていた父。その父に背負われて、当時、「機械場」と呼ばれた、川からくみ上げた水を田んぼへ流す、真っ黒で大きなずうたいのポンプを見に行ったのは夕方だったと記憶している。背負われたのは初めてだっただけに、恥ずかしいようなそれでいてなんとも言えない至福感がかすかだが記憶に残っている。そして赤い夕日の美しさも。父とは母とはありがたいものだとこのごろ思う。

 いつだったか。人間の感情とはどのように育成されるのかを研究するため、生まれたばかりの猿から母親を奪って育てたという実験の話を聞いたことがある。研究とはいえ、人間の織りなすことの残酷さを思ったが、母を失った小猿は成長するにしたがって、猿社会に溶け込むことができず、かなり凶暴で手に負えない性格になってしまったとか。実社会での猿同士のケンカは良くある。しかし、ケンカとなってもある一線で治まってしまい、また元の仲間になってしまう。しかし、母の甘さを知らずに育った猿のケンカは、相手が死ぬまで手を抜くことがなかったというのだ。

 人間社会も同じようなことかもしれない。いや。親のない子はだめだと決めつける気はない。ただ、愛情を知らずに育った子供は人を愛することも知らないのではないかと懸念するのである。

 貧しいが、幸いにして自分は愚直で、不器用なまでの親の愛情を得た。自宅裏の川で魚を釣りたいと言えば釣り竿を用意し、餌の与え方まで手ほどきをした父。そして、釣りのおもしろさに没頭し、暗くなったのも忘れて川にいると「まさおー。まさおー」としわがれた声で心配しながら、迎えに来た母。

 高校時代。初めて女の子と会うことを話したら、父はニコニコしながら「あの村の娘はお金持ちの子が多いからな。お前が恥をかいてはいけないし」と財布の中から、数千円もの大金を渡してくれたこともあった。あの当時、自分にとって数千円という金は大金だった。バス亭まで黙って着いてきたのは母であった。顔見知りのおばさんを見つけては「息子がデートするんだと」と自慢げに吹聴した母の無恥さには顔を赤らめたが、自分の無学の悲しさを何とか息子だけには味わいさせたくないとしたその愛情が身に沁みているだけに黙ってしまった。

 貧乏子だくさんの中で、50歳近くになって生んでしまい、早くにして両親を失ってしまう自分の将来を案じて、精一杯の愛情を自分に注いだのだろう。しかし、親の愛情の濃さは分かっていても、物心が付くに従って沸いてくる寂しさはどうしようもなかった。あまりにも年代が離れ過ぎているため、親子としての会話はなく、自分が親を見つめる目はいつも哀しく年老いた夫婦を哀れみの目で見ているだけだった。

 頼りにしていた兄夫婦には捨てられ、最後は口癖のように「正雄。お前しかいないからな」と頼りきるようになった父と母は時々、涙顔を見せるようになった。高校を卒業したらお金を家に入れてくれとの願いが痛いほどその目から伝わってきた。黙ってその願いを聞き入れながらも、甘えられて育った自分には、しかし、社会に出て働ける自信はなかなか生まれなかった。成り行きに身を任せ、秋田市の会社に就職したが、人間関係にもまた、一人で生活するということにも不慣れな毎日が続き、さらには満足な食生活も過ごすことがなかったせいか、半年後には風邪で路上に倒れるようにして病院に担ぎ込まれ、それから1年近い入院生活となってしまった。

 心配のあまり、顔面蒼白の状態で病院に駆けつけた両親はベッドの中の自分に蚊が鳴くような声でいたわった。だが、初めて味わった社会生活での挫折感と敗北感に自分は、「おれなんか。おれなんか。こんな社会では生きて行けない」とやつあたり気味で大声を挙げて泣いてしまった。オロオロする父と母は哀れなほど困惑していた。「よしよし。大曲へ帰ろう」。その声だけが頭に入った。

 病気は精神的な疲労と栄養失調が重なったところへ襲った風邪による、胃けいれんとのことだった。両親は病状が落ち着くのを待って横手市の平鹿組合総合病院に転院手続きをして、そこで精神的に落ち着くまで1年近く暮らした。

 それから父はまた老体に鞭打って自転車での行商に打ち込んだ。それこそ、雨の日も風の日も外を走り回る「櫛風沐雨」の毎日だった。

 胃けいれんという病状は落ち着いたが、社会に出ることへの不安と恐れがあって、わざと具合が悪くなることを祈った。医師は「もう体の方は心配はないのですが」と父や母に告げていたが、「精神的に自立できるまで、もう少し様子を見てあげたら」とベッドをそのまま確保してくれた。ここでも自分はわがままを言い、入院費がより掛かり増しになる「個室」での暮らしを望んだ。それも黙って承諾してくれたのは父だった。あの当時、社会がただ怖かった。大人たちが怖かった。

 そしていま自分はいる。小さな新聞社の記者としての自分がいる。両親同様、貧しい生活しかできないが、人並みに暮らし、人の悲しみを悲しみとして見つめられる自分がいる。良くここま自立できたものとの感慨がある。それも自分を頼りながらも、いや息子に頼れるまでは石にかじりついてでも働こうとした父や母がいたからかもしれない。父も母ももすでに墓石の人となってしまったが…。