こちら編集室「悲しき玩具」(98・2・9)
まぶしいほどの朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。カーテンを開け、外を眺めると裏の雪の原っぱは朝の光を受けて、まるで銀色の宝石を散りばめたように輝いていた。雪国ならではのすがすがしい朝だった。外に出てみた。ピーンと張り詰めた冷たい空気だが、太陽の温もりが手のひらにも、そして体全体にも伝わってきた。「おはようございます」。行き交う人々が交わす朝のあいさつも幾分、明るく感じた。連日、降り続けた大雪からやっと解放された喜びがその声にはこもっていた。
雪の原っぱは堅くなっていないだろうか。沈み込まないように慎重に足を踏み入れた。雪原は板のように両足を支えた。自由にどこへでも歩けるほど堅くなっていた。少しジャンプしてみた。雪原は59キロの体重を弾力的に支えた。「よし。歩ける」。真っ白な雪原を私はかんじきも、スキー無しでも自由に歩けた。2月に入ると雪は朝の厳しい冷え込みで固まるようになる。人の体を支えられるほどの固さをもつようになる。その雪の原っぱを歩くのが私は好きだ。まるで雲の上を歩くような自由な気分を味わえるからだ。
サクッ、サクッ。足元の雪は凍って粗目(ざらめ)のようにざらざらしているが、まるで泣き砂の上を歩いているような音をたてる。時にはキュッキュッと引き締まった音もたてる。雪の下は田んぼなのだが、とにかくどこをどう歩いても足が抜かることはない。広い、限りなく広い真っ白な広場を自由に歩ける楽しさ、解放感は何とも言えない。もちろん、その雪の上を歩けるのは朝の厳しい冷え込みで雪が引き締まっている限られた時間だけだが、歩いているとどこへでも行けそうな気分になる。だって、回りに障害物がなにもないからだ。一面の真っ白な雪原が今は私のものだ。
ウキウキしながら歩いた。歩きながら考えた。石川啄木は自分の歌集を「悲しき玩具」と名付けた。なぜなんだろう。考えたこともなかった「悲しき玩具」という題名についこだわってしまった。悲しき玩具とは、彼が作る歌は自らを慰めはしたが、生活を支える歌にはならなかったことを嘆いたのだろうか。ふとそう思った。
途中にてふと気が変り つとめ先を休みて 今日も河岸(かし)をさまよへり(悲しき玩具よ り)
啄木の歌には生活感と生活者の悲しみがにじみ出ていて好きだった。その落魄の香りと抒情感が好きだった。この歌もそうだ。自分も何度か会社というものに挫折した。理由も無く会社を休みたくなって、ぶらぶらと当てもなく車を走らせ一日をつぶしたこともある。サラリーマンの悲哀がこの歌にあるるようで共感した。
そして啄木の歌に憧れ、その悲しみに憧れ、その歌を記憶にとどめ、啄木の故郷の村を訪ねたこともあった。渋民村。もう遠い記憶のかなたに消えてしまったが、啄木が代用教員として実際に教鞭をとった旧渋民小学校を訪れ、その暗い教室のたたずまいの中に啄木の面影を少しでも見つけようと手探りで古い校舎を歩いたこともあった。
校舎から目と鼻の先にある鶴塚の歌碑にも足を運んだ。
やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
歌碑を見つめ、北上川の岸辺にも立った。とうとうと流れる北上川を見つめ、啄木の悲しみを想った。啄木の作る歌のリズム感に酔いしれた。啄木の悲しみを見つめる自分の心にもあの当時、悲しみがあった。小さな地方紙の記者という仕事に行き詰まりを感じ、何をしても虚しかった。自分の行く末が不安でならなかった。他人の仕事がうらやましくてならなかった。時間をもてあそび、 日がな一日をどうやり過ごすかと苦しんだ。ただ、本だけがあのころの慰めだった。
しかし、小説の中に自分の悲しみを映す行為の虚しさにやがて気づいた。ようやく30代に差しかかろうとしていたころだった。そうしたころ、ブラリと飛び込んだ書店で一冊の写真集を目にした。沢田教一の写真集「戦場」(毎日新聞社編集)だった。UPI通信のカメラマンとしてベトナムに渡り、「安全への逃避」で1966年にピュリツアー賞を獲得したものの、70年、カンボジ ア戦線で死去した沢田カメラマンの偉業を記念して出版された写真集だった。
食い入るように私はその写真集に何度も目を通した。弾丸が飛び交う戦場の中で、沢田カメラマンは常に兵士の前線に立ってカメラを構えていた。ベトナム軍の襲撃の恐怖に引きつるアメリカ兵の顔のアップ。負傷して絶叫する兵士の顔もあった。沢田はその恐怖を乗り越えて、いつも冷静な目で戦場を見つめていたのだ。そのはてしもない巨大な勇気は、会社員、いや小さな地方紙の記者として生きていることへの虚しさに苦しんでいた自分をも励ました。
変な例えだが、今の中学生がナイフを懐にすることで安心感を抱くように、当時の自分は沢田教一の写真集を見つめることで勇気を得たように思える。それが切っ掛けだった。啄木の落魄に共鳴するのは止そうと思ったのは。心の中の「悲しき玩具」は捨てようと。しかし、おかしなことにいま自分が一人で発行している「秋田県南日々新聞」も時には「悲しき玩具」に思えてならなくなる。そうした時、読者からメールや読者の広場で励まされ、そしてテレビに紹介され、「日経MAC」の取材を受けた。悲しき玩具にしてはならないと雪の原っぱを歩きながら思った。