こちら編集室「悲しみの墓標」(98・4・6)                     

 真新しい金箔(きんぱく)の仏壇の中に納められた親子3人の遺影は悲しそうにじっと正面を見据えていた。「私たち、死にたくはなかった。だって残されたお父さん、おばあちゃん、これからどうやって生きて行くのよ。お父さんはご飯だって炊いたことがない人よ」と長女・瑞恵さんの目はそう訴えているような気がした。関晋作さん(47歳)は8月13日夜、交通事故で妻の敏子さん、瑞恵さん、長男の剛明君の3人を一挙に失った。幸せだった5人家族は崩壊した。「新聞は妻が一時停止を怠ったと報じたが、相手がもう少しスピードを抑えていたら死ななくもよかったはずだ。3人は若者のスピードに殺されてしまったようなもんだ」と声を詰まらせた。関さんを訪れた日、秋の冷たい雨が降ったり止んだりしていた。                      

 これは「月刊AKITA」1993年11月号に掲載するため記者が書いた原稿の前文である。 関さんは平鹿郡平鹿町醍醐の人である。一瞬にして幸せだった5人家族が交通事故で崩壊し、残されたのは82歳になる祖母のトクノさんと関さんの二人だけ。当時、関さんの妻・敏子さんは42歳、長女の瑞恵さんは19歳、秋田市の聖霊女子短大2年生だった。長男・剛明君は17歳で高校2年生だった。                                     

 事故は93年8月13日午後10時ごろに同町の国道107号交差点で起きた。自分の勤務する新聞社の管轄外だったが、余りにも悲惨な事故に耳を疑い、2カ月後の10月、花束を手に関さん宅を訪ねた。関さんは涙ながらに悔しさを語り、記者も関さんの肩をたたいて涙をこらえてメモを取った忘れられない取材となった。                            

 仏壇に飾られた長女・瑞恵さんの美しい瞳がとても印象的だった。高校生の剛明君のあどけない目がとても悲しかった。二人を大事に大事に育ててきた敏子さんの少しはにかんだ笑顔が寂しかった。放心状態で仏壇を見つめるトクノさんの小さな体が哀れでならなかった。         

 関さんは記者に事故当時の事を語り終えた後、突然、仏壇に向かって叫んだ。何度も何度もハンカチで目を拭いながら。「タケ坊、俺はオメどこ放す気はなかった。オメはネクタイ締めて働きたいと言ってだけね。なして助からなかったんだ。瑞恵、来年の卒業式には母さんと一緒に俺も短大さ行くと約束していだっけね。なして死んだ。母さん。俺はみんな、おめさ任せて生きてきた。ご飯も、家計も、子供たちもみんな、おめさ任せてきた。俺が生きるより、おめだちが生きてくれれば良かったのに」。                                   

 交通事故。新聞記者となって一番、多く体験してきたのはこの交通事故の取材だった。2日。協和町で発生した若い男女4人の即死事故。今回は現場を踏むことは無かったが、取材を通じていつも感じるのは本当にちょっとした油断というか、不注意と自信過剰が大きな事故につながるという事である。もう大分前になるが、運転免許を取って間もない女の子二人が、雨の日、秋田市へ遊びに行く途中でスリップして大型車に正面衝突。二人とも即死した事故現場で見た車のタイヤに驚いたことがある。溝がまるっきりないツルンツルンの坊主タイヤだったからである。警察官も「これだよ。この状態では」とあきれたようにタイヤを指さしていた。               

 協和町の事故も雪道を普通タイヤで、普通の感覚で走るという心の無防備さが4人の死を招く結果となった。この事故をめぐっては、ケンニチの「読者の広場」でも話題になった。あの雪道を、しかも早朝に走るということ事態が危険ゾーンを通り越していた上、スピードも60キロ位というから、これは事故を起こさないというのが不思議なくらいである。              

 協和町で大きな事故が起きたようだとの情報が入ったとき、取材に走るべきかどうかで迷った。こちらもタイヤを夏タイヤに交換していたからである。迷った末、事故現場に走るのは止めた。取材に向かうこちら側までもが事故を引き起こしかねないと考えたからである。慣れたとは言え、雪道の怖さは何度も経験している。ましてやスパイクタイヤからスタットレスタイヤに代わってからはからだ全体から血の気が引いていくような怖い経験もした。現場行きはあきらめ、警察へと向かった。入ってきた情報は病院には運んだが4人とも助かるのは無理だろうとのことだった。そして 間もなく4人の死亡報告が入った。                            

 なぜか今回は悲しみが沸くというより、むしろ憤りが勝った。「なぜなんだ。なぜ、あんな雪道を夏タイヤで走ったんだ」。無残な状態で大曲署へ運ばれた事故車のすさまじいばかりの壊れ方を見て、心の中で何度も叫んだ。同情よりも悲しみよりも、むしろ怒りが先走った。そして、記事を書き終えてからの虚しさは例えようがなかった。体中から力が抜けていくようで、私はケンニチの親しい読者に悲鳴のようなメールを書き込んで気を紛らわした。               

 それからやっと気も落ち着き、あの若者たちの死の瞬間の怖さはいくばくだったろうかと想像した。死に向かって車が若者たちの意志とは関係なく大型車へと突っ込んでいく。車内に起きた4人のパニックと恐怖の叫びが聞こえて来るようだった。目をつぶった。目を閉じて、空を見上げ、4人の短き命の終焉を悲しんだ。                              

 協和町の事故現場にはまた新しい墓標が立ったと言う。関さんの場合も、1年後に事故現場に観音像を建てて妻と二人の子の安らかな眠りを祈った。その時の取材でも関さんは「今だって眠れない日々が続いてます。妻と娘、息子を失った悲しさと怒りは1年経った今だってやり場はないんだ。いやされはしません」とうっすらと涙を浮かべて語ったことがある。あれからもう5年の歳 月が過ぎた。事故原因は関さんの妻が一時停止を怠ったのも一因だったが、もう一方の当事者となった若者(当時21歳)の「スピードの出し過ぎ」という責任も指摘され、刑を受けたと関さんから聞かされたのはそれからしばらくしてからだった。「少しは気持ちが晴れましたか」と尋ねたが、関さんから返ってきた言葉は「いや。3人は戻らない」と短いものだった。3人の死に見舞 う保険金は下りたものの、「金なんていくら有ったって、夢がないよ」。関さんの最期の言葉が寂しく響いた。                                      

 今日から春の交通安全運動が始まった。もう私たちは道路にこれ以上の墓標が増えることが無いよう祈りたい。そんな時代を何とか迎えたい。関さんの悲しみを無にしないためにも。そして今度の協和町の事故でも4人の家族が泣いたと思う。その悲しみを無にしないためにも。