柳千賀子さんの「シンガポール体験記(30)総集編」(98・5・14)
今回のシンガポール体験記がパート30で最終回です。始めた頃は、何回まで続くだろうかとワクワクしたものですが、なんともあっけない、ずいぶん短い体験記になってしまいました。 1年8ヶ月のシンガポール生活の総集編として、今まで書ききれなかった、すべての体験を一挙公開。題して「シンガポールは私を変えちゃった?!」とは言え最初は、苦しんだ体験から・・・
<食中毒> シンガポールにきて2週間目の日曜日、私は死にそうになりました。お昼チョット前から、だんだん気持ち悪くなってきて、吐き気をもようして、 汚い話ですが、ひどい下痢にもなり、トイレから出てこれない状態。フラフラして歩行も困難。元気が取り柄の私は、生まれて初めてのような とんでもないことになってしまったんです。
夫が「病院に行った方がいいんじゃないの?」というけど、私は「言葉も分からないし、寝ていれば治るよ。」と意地をはったものの、寝ていても良くならないし、 熱も出てきてしまい、意地を張ってる場合ではなくなり、渋々病院に行くことにしたんです。入院を覚悟で着替えなどをバックにつめて。
日曜日だったので、日本語の通じるクリニックはお休み。仕方がないので、シンガポール支社長のお宅に電話をしたら、これまたお留守。 日本人の知り合いは他にはいないし、 後の手段、ローカルスタッフのお宅に電話をしたら、幸いなことにSさんは 家に居てくれて、タクシーで病院に連れていってくれました。
診察してくれたのは、女医さんでした。 なにしろ、夫もあまり英語が話せるわけではなく、医療のことなんてチンプンカンプン。バックをもち片手には辞書をもち、Sさんと一緒に 私に付き添ってくれて、女医さんが、Sさんに話して、Sさんがわかりやすい英語で夫に話して、夫は私に日本語で話すといった、リレー式会話。「日本語は話せないのよ、ごめんね。」と言ってくれたことが、弱りきっている 私を和ませてくれました。 お腹を触って、「イタイ?」と日本語で聞くので、私は思わず英語か中国語かと思い応えられないでいると、また聞くので、唯一話せる日本語は 「イタイ?」なんだとわかり、「イタイ」とこたえました。とりあいず、イタイということが通じたのでホッと一安心。
いろいろ質問されて、前日の夜に食べた、マレー料理の貝を食べたことによる食中毒らしいと診断されました。 そういえば、シンガポールに来た日に支社長から「こちらで貝を食べる時は、注意した方がいいけど、しばらくは食べない方がいい」と言われたことを思い出しても後のまつり。それにしても、その貝が入っていた料理を私がオーダーしたのですが、 食べてみたらあまり美味しくなかったので、貝を3粒ぐらいしか私は食べなかった はず。あとは夫が全部たいらげていたのに、夫は全然平気。なぜ私だけ? 夫は3年近くローカル食を出張で来た時などに食べているから、免疫があったらしい。
「脱水症状を起こしているから、点滴をします。」と言われた時は、夫もそのいっている意味が分からず、Sさんが分かりやすい英語で、辞書を使いながら説明してくれたので、なるほど。 私にとっては、生まれて初めての点滴でした。食中毒もたぶん生まれてはじめて。 1週間ぐらいで完治しましたが、それから貝を食べれなくなったのはそのせいです。
<二日酔い>
英会話で知り合い友達になった、ひろみさんとみづほちゃんと3人で、みづほちゃんお薦めのインドネシア料理を食べに行きました。 3人ともお酒が大好きだから、最初にビールを一人2杯ずつ飲んでから、赤ワインを1本のんで、さらに白ワインも1本あけてしまったわけです。 3人ともいい気分になっちゃって、ひろみさんが、「カラオケに行きたい!」 といいだし、日本語の歌も入っているカラオケボックスに行きました。そこで、さらにビールを浴びるように飲んでしまったらしい。 1時間程は、歌って踊って大騒ぎして、その後私がダウン。グーグー寝てしまって、起きたら店の男の子に日本語で何やら語りだしたらしい。 男の子は困り果てた顔をしていたらしいけど、帰る時にタクシーまで送ってくれたらしい。「らしい」というのは、全然私は覚えていないからなのです。 朝、気が付いたら、みづほちゃん宅のベットの上でした。みづほちゃんと私は同じところに住んでいて、歩いてすぐのところに我が家があったのに 帰れなくて、お世話になってしまいました。 夫は出張でいなかったのですが、みづほちゃんの御主人は、夜中の2時に起こされ、6時には出勤したそうです。トホホ・・・恥ずかしい限り。
頭は痛いし気持ち悪いし、最悪状態で、その日は友達とハイティーにいく予定でしたがキャンセル。しばらくお酒はやめようと思った、シンガポールでの最初の二日酔いでした。
バスケットの新年会で、飲まされイヤ飲んでしまって、男性二人に付き添われ車を止めて、ゲーゲー。それを3回やってしまったらしい。私の道案内はいいかげんで、かなり遠回りをして家に連れていってくれたんです。 翌日、お決まりのように二日酔いで起きれなくって、バスケは休みました。 前日の新年会に参加していて、休んだのは私ともう一人の人だけだったみたい。それからは、ゲロのちかちゃんと言われ、飲み会の度にチクチク攻撃される はめになり、その後の飲み会はかなり控えめに飲みました。
そういえば、シンガポールに来る前に母に何度も言われたんです。「あんたは男並みに飲むから、外国は日本と違っていい人ばかりとは限らないから、控えめに飲むように。」と。
私の周りの友達は、みんないい人ばかりだから、母が心配するようなことは、残念ながらではなく、幸いにして体験せずに、済みました。
このほかにも、飲んだときの話はいろいろありますが、飲んだくれの暴露はこの辺にしておきましょう。でも、お酒が縁で、飲み友達が出来たので、 お酒が飲める人間でよかったとおもっているんです。
それから、もう一つ苦しかったこと。 Yさんのローカルの友達のお宅にお昼にお邪魔して、ポピアというローカルフードを食べたんです。ポピアとは、クレープのような生地に特製ソースを 塗り、レタスをしいて、ニンジンとモヤシとひき肉を炒め煮したものをのせ、 ソーセージをのせて、ニンニクのすりおろしをタップリのせて(順不同) それらを巻き込んで食べるものなのです。 全てがお手製で、とても美味しくって、おでんに入れるちくわぐらいの長さで、幅は2本ぐらいあわせたような太さのポピア4本も食べてしまいました。これがまた、ビールとの相性が絶妙。
夕食はお腹がいっぱいで何も食べれない状態。それからだんだん気持ち悪くなり、むねやけをしたんです。体中がニンニクに犯されているような、横になっても 立っていても、座っていても、とにかく苦しい。 ニンニクの食べ過ぎは胸焼けをすることを体験しました。
<驚いたテニス大会>
昨年11月に日本人の奥様だけが参加出来るSJIテニストーナメントが有りました。いくら、テニスが上手でも未婚の女性は参加出来ないそうです。 一緒にテニスのレッスンを受けている、こずえちゃんとアッコちゃんが出場することになりました。「結構すごいらしい」と噂を聞いたので、二人の応援はもちろん 、 何がスゴイのかを見てみたくて、興味しんしん、ワクワクしながら、私もマネージ ャーとして着いて行きました。 朝8時過ぎに会場に行ってみると。まぁースゴイ。ここに来ている人たちはみんな日 本人?。 バーゲンに来ていたとき以上の大勢の日本人の奥様方。シンガポールには、テニスのクラブやサークルがたくさんあって、ほとんどの人た ちがどこかのクラブやサークルに所属しているとのこと。所属チームごとにおそろいのテニスウェアを着ていたり、ペアでおそろいのウェアを着ていたり、 プロのテニスプレイヤーさながらのスタイル。さらに驚いたのは、みんな手足が真っ黒に日焼けしていたこと。こずえちゃんやあっこちゃんも日焼けしているけど、彼女たちは色白に見えてしまうほど。
どこにも所属していない私たちのことは、「そんなに白いんじゃ、たいしたことはない」みたいな目つきで見られ、バレバレ。 クラブなどに所属している奥様たちは、週に3日か4日、1日2時間ぐらいレッスンを 受けて、その外にも個人的に練習をして 、テニストーナメントで優勝することを目標にしているらしい。遊びでお気楽テニスをやっている私たちとは大違い。日焼けをするわけだ。 それにしても、手足、首は真っ黒なのに、顔だけは真っ白。お肌の事は気にかけているらしいけど、なんともブキミ。
開会式やルール説明などもあり、その後出場者の写真撮影。ただ応援に行った私も、ちゃっかり写っちゃったりして・・・・
いよいよ試合開始。 グレードがあって、グレードA・B・Cと別れていて、グレードBは参加者が多いため、前日に試合を終了させていました。その日はAとCの試合でした。 彼女達二人は、初めての参加なので、グレードCに出場しました。 いっくら上手な人でも、グレードCから勝ち進んでいかないとヒンシュクをかうらしい。 抽選で対戦相手が決まり、掲示板が張り出された時は、あちらこちらから、「あら、どこどこの何とかさんチームとなんて、どうしようか」「あそこのチームだったら大丈夫」「ここのチームの対戦は面白そうね。」と聞こえてきた。 クラブ同士で練習試合をしたり、コンドミニアム同士で練習試合をしているらしく、顔見知りが多いらしい。
彼女達の試合は37番目だったので、まだ時間があるから、グレードAの試合を観戦することにしました。通路を挟んで、両脇に5面ぐらいずつコートがあり、その中の2コートはグレードAに出場のチームが試合をしました。アマチュアといえども、プロ顔負けのすさまじいバトル。「うまい」という一言で はかたずけられない、すごいプレイをするんです。それも私たちよりかなり年上の奥様方。脚や腕はキュット引き締まっている。「○○クラブの会長さんなんだって」という話し声。 「カッコイイ!!」と黄色い声援も飛び交っている。「ヒヤ〜、こりゃすごいなぁ」と感心させられっぱなし。あこがれのまなざしで観戦していると、何やらマイクを使って、こずえちゃんとアッコちゃんの名前が呼ば れていた。 掲示板を見たら、試合をする時間になっていたのです。慌てて二人は、準備をしてテニスコートに走っていったら、アッコちゃんは麦茶の入った水筒だけを持って、ラケットを忘れちゃって、対戦相手の方から「ラケットは?」と言われ、またまた慌てて戻ってラケットを持っていき、こずえちゃんは、新しいボールを出すために、缶を開けたら、その缶の蓋で、指を切ってしまって、血だらけ。相手の方からカットバンを頂いて、試合開始時間をだいぶ遅らせてしまったんです。 私とアッコちゃんのお友達のみきさんは、呆れて言葉が出ない。
相手チームは、彼女たちより10歳ぐらい年上の奥様だったので、「これは、絶対勝てる。」と確信していたのに・・・・・場慣れしていなかったことや、最初のすったもんだが影響してなのか、いいところまでいったのに、惜しくも1回戦で敗退。 諦めきれない悔しさが残りました。
ちょっと参加してみた私たちでさえ悔しい思いをしたので、このトーナメントにかけて特訓を受けてきたチームが敗退した時は、それはそれはすごかった。もう泣いちゃってるし。「参加したことに意義がある」とか「楽しんでテニスをする」とはかけはなれた 状態。 クラブのレッスンコーチも試合を見に来ていて、アドバイスをしたりしている光景 も見ました。話では、他のクラブに所属している上手なプレイヤーを、自分たちのクラブにスカウトをしたりもするらしく、気合の入れ方が半端ではないのが、うなずける。
目標を持って、テニスをすることは良いことだと思うけど、なにもそこまでしなくても・・・と思ってしまったんです。次はウインブルドンとかプロになるとかじゃ ないんだか。家事をしっかりやって、子育てもして、毎日テニスに打ち込む奥様方はエライ。 でも、私はお気楽テニスの方が、楽しいとおもう。上達は見込めませんが・・・・
<陶芸教室で・・・> 約1年陶芸教室に通いました。出来た作品は、灰皿にしかならないような不細工なカップからアロマポット、壷、花瓶、お皿、カップ、などなど50点ほどの作品が出来ました。 どれ一つとっても、完璧な出来栄えの物はありませんが、自分で作ったものは、や っぱり愛着があります。 不器用だから、何度か挫折しそうになったけど、ユキちゃんに励まされ、なんとか 1年続けられました。教えてくれた先生もとても気さくな優しい先生でした。
ミスターRは、日本人の奥様を対象に教室を開いてくれているので、日本語も少し話せます。 「アツイ(厚い)」とか「ウスイ」とか、「キレイネ」とか「ダメネ」とか「ムズ カシイ」「カンタン」などなど。 私は、ミスターRを「センセイ」と日本語で呼んでいました。先生は「ハイ」と返事してくれたり、作業しながら、「日本語ではどういうの?」と日本語を覚えたいらしく、聞いてくるので、教えてあげたりしてたんです。 いつだったか、先生がガスコンロでお湯を沸かしたんです。そのポットを「アツイ !アツイ!」 といいながら運んでいたんです。私たちに聞こえる声で言ったのに、私たちはごく当たり前のように聞いてしまって、なんの反応もしませんでした。あとから、 先生のジョークに気が付いて、大笑いしました。先生は「今ごろわかったのか」と苦笑い。
12月27日去年最後のレッスンの日。帰ろうとしたら、「チョトマテ、チョトマテ」 と言うので、どうしたのかと思ったら、 メモを見ながら「アゲマヂデ、オメデドウゴザイ、マシタ。」と言って、おじぎをしたんです。 日本語でのお正月の挨拶を誰かに教えてもらったらしく、私たちに挨拶してくれた のですが、 そこで、私はせっかく言ってくれた先生に水をさしたんです。 「それは、来年、年が明けたら言うんだよ。今は『良いお年をお迎え下さい』って言うの」と。英語では話せないくせに人の揚げ足をとる私。先生はなんだか良く分からない表情で笑っていました。 「でも、よく出来たよ。」と言ったら嬉しそうだった。 今年最初のレッスンの日、挨拶をしてくれるのかと思ったら、すっかり忘れている様子。 私が挨拶をしたら、先生も思い出して、二人でペコペコとおじぎをしながら新年の挨拶を交わしました。
<懐かしの英会話スクール> 初めて英会話教室に行った日、クラスメイトは12人程いました。火曜日と木曜日、本当に初歩的なところから英会話を勉強したんです。1年通い続けた時は、何人か辞めてしまった人がいたりしたけど、クラスは健在でした。 12月いっぱいで私は、引越しの準備で忙しくなることを理由に辞めました。木曜日のクラスが人数が少なくなったため、他のクラスと統合しました。それもつ かの間、2月3月にはいり、帰国者が多くなり、私が通っていたクラスはもう閉講してしまいました。 断っておきますが、スクールは今だにちゃんと開講しています。 みんな気さくな人ばかりで、わきあいあいとしたムードがあり、楽しかったです。 クリスマスパーティをしたり、送別会をしたり、納涼カラオケをしたり、なかなかみんなノリもよかった。
私はマレーシアに引越し、後の半分以上は、日本に帰国してしまいました。 みんな、新住所を教えあって、「日本のどこかで、クラス会をしたいね」と先の楽しみを残して、別れてしまいました。シンガポールにきて、心細い思いをして、全然英語が出来なかった人たちが、初歩的なところから勉強して、なかなか話せない 悔しさや、話せるようになった嬉しさを、共感したことは、一人一人の胸の中に忘れられない思い出として残っていることを信じています。 何年後かにクラス会を絶対やるつもりです。たぶん幹事は私になるんでしょうけど 。
<嬉し恥ずかし私はパフィ?IN バスケット> バスケットボールのシンガポールチームに昨年の5月から加わりました。友達のアヤちゃんから誘われて、ちょうど日本に一次帰国する直前に 誘われたので、日本でそれも横手のサティで赤のコンバースのバスケットシューズ (安かったし、「かわいいかも」と思い。なにしろ見た目からはいる方なので)を購入し、シンガポールに戻ってきてから、アヤちゃんとその御主人と一緒に日本人小学校の 体育館に行ったんです。ビッシッと赤のバッシュをきめたものの、格好はTシャツにスパッツ姿。周りにそんな格好の人は誰もいない。「こんなにバスケをする日本人の人がいるんだぁ〜」と感心していると、新入部員として挨拶をすることになり、 「あの〜中学の時はバスケをやっていました。10何年ぶりにやれることになりました。え〜と。がんばります。」などという挨拶をしてしまいました。10何年、正確に言うと15年ぶり。中学の時は、飛べていたジャンプがほんの 1センチほど。中学の時にシュートして、入っていたはずのロングシュートは届かず。15年ぶりの衰えをヒシヒシと感じて、一言「ダメかも・・・・」 でも、「せっかくバッシュを買ったんだし、続けてみようと」心細く、決意したような。 2周続けて行って、そのあと自転車でケガをして、3週間ぶりに復帰すると、自転車でコケタことは、アヤちゃんの御主人を通してみんな知っていて、 「大丈夫?」と声をかけてくれました。それがみんなと仲良くなるきっかけでした。久しぶりに復帰したら、私はなんと「パフィ」と呼ばれていました。その頃スパイラルパーマをかけてスゴイヘアースタイルだったんです。 バスケの時はちゃんと束ねていたのに。(背が低いので、束ねなかったら3頭身ぐらいになってしまう、私を知らないくせに・・・・) 部員名簿の私の欄には、柳千賀子(主婦Pufy?)と書かれていました。 いい歳してハズカシイ〜。 ゲームをしている時も、「パフィーが走ってる!」と相手チームが叫んだりするから、たくさんの男性の方たちは、「名前は知らないけど、あいつは パフィーだ」ということだけは、知っていたようです。
女子が少ない時は、男子に混ざってゲームをするんですが、私にはほとんどボールが回ってこない。ただコートを走って終わってしまった ときも、何回もあります。やっとボールをパスされ、さぁパスかシュートか迷ったりすると、デフェンスが容赦無く襲ってくるので(それも男性)、 恐くなって、ボールそっちのけで逃げたこと数回。 「逃げるなぁー!」と怒鳴られても逃げちゃう。それぐらいみんな真剣にバスケットをしているんです。
シンガポールにある唯一の日本人の高校(幕張高校)の女子バスケのチームと何度か練習試合をしました。私たちの女子チームは平均年齢26、7。「10歳ぐらい歳をとっているけど、 テクニックでは負けないわよ」とはいえ、私は15年ぶり。他のメンバーは、 高校、大学、社会人で活躍した人ばかり。私は頭数をそろえるための補助選手。私を含めメンバーが5人の時は、私もフル出場。脚がもつれちゃって、 ただ走っていただけなのに、ズデェ〜ンと派手に何回転んだことか。 女子のメンバーは8人程でしたが、みんな仲が良く、すごく楽しかった。私が引っ越す直前に、女子だけで、背番号に名前を入れたTシャツを作ったんです。これは私の宝物の一つです。参加して月日が浅い私なのに 、送別会を開いてくれて、寄せ書きのバスケットボールまで頂きました。 余談ですが、引越しの時に、引越し業者が夫に「これは、いいね」と言ったんです。夫は背が高い方なので夫の物だと思ったらしい。 私がすかざず、「それは私の!!」と自慢気に言ったら、「オー!」と驚くから、 私はニヤケタわけです。
私が引越しするからと、一眼レフのカメラで、私のプレイを撮ってくれていた人もいるんです。中学の時、私だけを追いかけて写真を撮ってくれた人なんて、まずいなかったから、本当に感謝感激でした。
バスケットボール・シンガポールチームの素晴らしいところは、みんな仲間意識がすごく強いことです。 今年に入ってから、帰国者が続出でしたが、一人一人送別会を開き、帰国する日は 、空港までみんなが見送りに行くんです。出発ロビーのある部分は大勢の人だか りになり、ひとりひとりが、寂しさも有るけれど、「何時までもバスケの仲間だよ」と言った思いを胸に、盛大に見送るんです。 本当に感動する場面に何度か居合わせたことがあります。
ちなみに、私の場合。シンガポールとマレーシアは近いので、ちょくちょくバスケをしに行こうかと思っているし、みんなも「どうせ近いうちに、会えるだろう」と思っているらしく、盛大な見送りはされていません。まぁ私が、マレーシアに来る時に、 飛行機の時間を決めていなくって、適当に来てしまって、みんなに知らせなかったからなんですけど・・・・・
髪をバッサリ切ったにも関わらず、元パフィと呼ばれている私は、小さいながらも自分の存在感に気づき、半端じゃない宴会の盛り上がりを知り、男女問わずの 結束力の強い仲間の一員になれたことに、本当に感謝感謝なんです。
<夫は・・・・> 私は1年8ヶ月シンガポールで生活しましたが、夫はトータルで6ヶ月ぐらいしかシンガポールにいませんでした。 マレーシア、フィリピン、日本、インドネシアへの出張が多かったのです。 シンガポールの事務所に通勤するより、空港に行った回数が多いかも。 マレーシアから帰ってきてその日に日本に出張とか、帰ってきて次の日、 出張とかよくありました。 昨年、バイクのレースを見に行った時は、夫のタフさに驚きました。 「土曜日の予選も見たいね」という話をしていて、木曜日にはフィリピンから 戻ってきて、金曜日の夜マレーシアに行く予定だったんです。 しかし、仕事にはまり、シンガポールに戻ってきたのは土曜日の夜の9時半でした。 レースを見に行くことを諦めようとしたのですが、二人とも楽しみにしていたので 、 私は、夫と空港で待ち合わせをして、マレーシア航空の空席待ちをして、やっと乗れたのが、11時半。マレーシアの事務所が借りている家に着いたのが、 午前1時でした。 夫はシンガポールの家には戻らず、そのままマレーシアに行ったわけです。 翌日レース観戦をして、夜帰ろうとして空港に行ってみると、空席待ちの人数が 200人。最終便の12時5分にもし、のれなかったら・・・・・・ 明日からは日本に出張なのに・・・・それもJALの朝便。 8時から4時間待ちで、やっと最終便に乗れ、シンガポールに帰りました。 着いたのが、1時半。それから、日本への出張の準備をして、寝たのが3時。 6時には起きて、日本に出張にいきました。夫は、寝不足と疲れで、飛行機の中ではバクスイ状態だったらしい。日本についても、意識がもうろうとしながら、新宿まで行き、新宿から高速バスで 長野に行ったそうです。いくつものハードスケジュールをこなして いますが、あの時は強烈だったらしい。でも、長野の新鮮な空気を吸ったら元気になったらしいので、長野に行けて良かったのかも。イヤ行くべきだったのかも。 まるまる1ヶ月一緒に過ごしたことはありませんでした。1週間一緒にいたこともなかったかも。だから、私としては、たまぁーにニワカ主婦をやればよかったから、楽でしたけど・・・・ そんなわけで、夫はシンガポールで、ハイティーは行ったことはないし、 飲茶も1度きり。有名なレストランもほとんど行っていない。シンガポールのことも、よく解かっていない。 それに、親しい遊び友達もつくれませんでした。よくマレーシアに出張に行っていたので、いつも行っているお客さん(日本人)と親しくなり、 マレーシアではよくつるんで、飲み歩いていたみたいです。
友達や、その御主人たちも心配してくれました。「柳さんほど仕事をしている人は、いまだ見たことがない。体はだいじょうぶなの?」と。 友達の御主人達は、休日はゴルフに行ったり、一週間ほど休みをとって、 旅行に行ったりして、リフレッシュしているようですが、夫は、シンガポールに赴任してきて、1回だけ4日間の休みをとりましたが、土・日は休みだと言うのに、 出張の移動日だったりで、1ヶ月休みなく仕事をしていたこともあります。 夜寝ていると、ギリギリとすごい歯ぎしりをしたり、 目の周りがどす黒くなり、 かなり疲れが溜まっているようで、気の毒になることもありました。 「人生のなかで、こんなに仕事が出来るのは今のうちだけだよ」と気合を入れて あげることしか出来なかった私です。 「俺が一番欲しいのは、休み」と口癖のように言っていますが、ゆっくり休める日の実現は何時になるのでしょうか。 「マレーシアに赴任したら、少しは楽になるだろう。」と自分に言い聞かせて 頑張っています。
<シンガポールで楽しく過ごせた理由> シンガポールには、知り合いもいないし、英語も話せないし、夫は出張がちだし、専業主婦は初めてだし、何をして過ごしたらいいのか、戸惑ったものでした 。 友達は日本にたくさんいるから、あまり友達づくりにも積極的ではなく、一匹狼で行動するつもりでした。 最初の頃は、夫が出張にいく際に、VISAカードの申請に手間取ってしまい、 いつも現金を持って行っていたので、私自身も自由にお金を使えなかったので、ほとんど家に閉じこもっていたんです。
少しずつ、生活に慣れてきた頃、パソコン教室に通ったり、英会話教室に行ったり 、友達の友達を紹介されたり、バス停で「日本人の方ですよね」と声をかけてくれた こずえちゃんや、こうこちゃんと知り合い、インターネットを通してちえちゃんと 知り合ったり、自分では全然予期しないたくさんの友達に出会いました。 たった1度しか会ったことがない人も含めると、私は約200人近い方々との出会いが有りました。人間関係での揉め事や、不愉快な思いもせずに過ごせました 。
感謝の気持ちをこめて、「箸置き」を2個ずつペアでプレゼントしようと思い、 130個作ったんです(陶芸教室で)。余ったら、日本の友達にプレゼントしようと思ったのですが、 1個も残りませんでした。和紙でラッピングしてプレゼントしたのですが、金額にして80円程度の物でしたが、みんな喜んでくれました。変わりに友達から、何十倍もする高い贈り物を頂いた時は、「あんな物で申し訳な い」と恐縮しちゃったこともあります。
やっぱり人間は(特に私)、一匹狼では生きていけないことを実感しました。 もし、一匹狼で過ごしていたとしたら、体験記も書くことは出来なかったでしょうし、しっぽをまいて、日本に戻っていたことでしょう。 一生シンガポールの良さを知ることなく、終わってしまっていたかも。 シンガポールでは、ほとんど一人暮らしのような生活をしていた私ですが、本当にたくさんの友達に支えて頂きました。 人々との出会いを通して、私の人生観もかなり広がったような気がします。
この場をお借りして、皆さんに感謝の気持ちをこめて「ありがとう!!」
シンガポールに来てから作ったアルバム(増やせるアルバム)は、8冊になりました。お互いの両親に見せながら、シンガポールでの生活を話してあげたいと 思っています。とはいえ、私の遊びまくった写真がほとんどなのが、気になる・・ ・・