こちら編集室「不思議の国・ニッポン」(98・5・26)
秋田県南日々新聞という自分だけのメディアを持って以来、本を読む機会がめっきり減ってしまった。土、日曜日でさえ取材や雑用に追われ、家にいることがなくなったからである。ましてや平日は取材と原稿を書いているといつの間にか一日が終わってしまう。何もない時は市役所記者室のソファに横になって本を読んで過ごしたあのころの「暇」な毎日が懐かしいほどだ。
そんなわけで図書館から借りた本は期限内に返すことがなく、半月や一カ月はざらになってしまうという不良読者となってしまった。図書館職員の好意に甘えているわけではない。心から申し訳ないと思っている。いまも手元には阿部牧郎の小説「勇断の外相・重光葵(まもる)」があり、これも既に借りて来てから半月は過ぎている。なのに半分も読み進めていない。重光葵。外交官であり、第二次大戦中の東条内閣などで外相を務めた人物である。日本がその戦争に破れ、アメリカの戦艦「ミズリー号」上での降伏文書への調印使節として送られたことででつとに有名だ。
この重光が若いころにアメリカオレゴン州・ポートランド領事として派遣される。大正7年、1918年である。その重光を悩ませたのはアメリカ人による日本人への差別であった。当時の日本人移民は差別というより、蔑視に近い待遇を受けていたらしい。嫌われた原因はいろいろあるようだが、安い賃金でも黙々と働く日本人労働者の勤勉さが災いして、アメリカ人労働者が職場から追い出されてしまった被害者意識の高まりも一因のようだ。そしてまた、写真だけの見合いで結婚を決め、船で大量にアメリカへ渡って来る日本人花嫁の不思議さ。男と女の結ばれ方は恋愛があってこそと思うのが当たり前のアメリカ人にとってはそれこそ不思議というか、むしろ不気味で野蛮な人種に映ったようだ。
そのうえ重光領事就任披露パーティには州知事をはじめ、市長、上院議員、下院議員、商工会議所のメンバーなどいわばアメリカの名士を多数、招待すると同時に現地に住んでいる日本人にも、そうした場に慣れてもらおうと招待したにもかかわらず、来たのはいわば男性、つまり一家の大黒柱だけが顔を出し、夫人あるいは令嬢同伴はごくわずか。パーティの席へは夫人か令嬢同伴が当たり前のアメリカ人の習慣からみても、その堅苦しい日本人の考え方というか男性中心社会の行動がアメリカ人の誤解を生んだらしい。パーティとは紳士淑女が礼装して、踊り、会話を楽しむ社交の場であるのだが、日本人だけはそうした社交の場に入ることもできず、一つの黒い集団として様子を眺める。アメリカの人たちにはそれさえも不気味な存在だったかもしれない。
英語指導助手として山形県に派遣され、山形の女性と結婚したタレントのダニエル・カールさんの講演を聞いたことがある。「日本の人、自分の奥さんを『うちの愚妻です』と紹介しますね。あれ良くない。私の愚かな妻ですなんてアメリカで奥さんを紹介したら、家庭騒動のもとです」と日本人の謙遜の美を茶化した。しかも、ある家庭を訪ねたら父親が「こいつがうちのトンジですよ」と息子のことを紹介した。その場ではトンジという言葉の意味も分からなかったから、何のことかと胸に秘めたまま家に帰り、辞書を引いた。その漢字を見たダニエルさんは飛び上がるほど驚いたという。豚の児と書いているからである。自分の子を父親が他人に「こいつがわが家の出来の悪い子で」と紹介する。その余りにもへりくだったあいさつにはさすがに閉口したらしい。
アメリカに住んでいる岩間さんから、以前、考えさせるメールを頂いたことがある。「うちの息子が日本に帰って同世代の親類やその友だちと会話をしていてもつまらないといつも言っている」と。その息子さんはカリフォルニア大学の4年生だが、日本の学生は徹底的な議論を嫌い、話がシリアス(まじめな、大事な)になってくると直ぐに「そんな固いことを言うな」とばかりに話題をそらしてしまうからだと言うことらしい。
戦後、日本人への差別は解消し、日本は今、アメリカの最友好国となっている。だが、日本人の議論嫌いというか、意見を持たない私たちの調和型の社会は変わっていないのは戦前も戦後も同じようだ。それだけに日本での大きな事故や事件、とくに経済事件などを外国人が目にすると未だに「不思議の国・ニッポン」と映るらしい。
ともあれ、日本人が海外で差別されるという話しは聞くことがなくなった。それだけ海外で活躍する日本人が多くなったせいもあるだろう。いまではこの田舎都市・大曲市でも多くの外国人を見かける。英語指導助手としてのアメリカ人やイギリス人が住むようになったからだ。その人たちと接してみると、とても気さくな感じを受ける。何年か前にキリスト教の伝導で大曲市に一定の期間で住み着いたアメリカの青年と親しくなり、わが家に招待したことがある。「ハーイ」「やあ」。もちろん、相手が日本語を話せるから交流できたのだが、その礼儀正しさと将来の職業をしっかりと頭に描いている自立の念の強さには驚いたものだった。一人は「大学を卒業したら獣医を目指します」と言い、もう一人は「弁護士です」とハッキリ目的意識を持って勉強していたからである。
両親を誇り高く語り、いかにも洗練された教育を受けた好印象を二人は与えてくれた。一人で酌をする自分の姿を二人の青年の青い目は悲しそうに見つめ、「お酒。ほどほどにしなければ」と諭されてしまった。
ドイツの人、アメリカの人。中国の人。ベトナムの人。イギリスの人。フィリピンの人。それほど多くの外国の人と交流を深めたわけではないが、それぞれに明るく個性があって気持ち良く接することができた。最後にこうした外国の人から受けた忠告で忘れられないというかいや、われわれ日本人もぜひ心がけたいのは車のライトである。「日本に来て驚いたのは真っ暗になっても車のライトも点けないで走っている人が本当に多い。事故防止のためにもライトは早めに点灯すべきなのに」。ドイツのアウトバーンを走ったときだった。雨の日は日中でも車はライトを点灯して走っていた。対向車に目立たせるためだという。