こちら編集室「同級会」(98・6・19)
 

  「同級会をやろうよ」。この春から地元在住者の間で何度も話題になっていた。そしてようやく13日夜、宮城県仙台市の秋保温泉で会を開くことができた。場所を仙台市近郊の温泉にしたのは中学卒業以来、滅多に会ってない東京近郊に在住する同級生も集まりやすいだろうとの配慮からだった。地元からは27人が貸し切りのバスに乗って出かけた。途中の車中の賑わいはまるで小学校時代に逆戻りしたような錯覚さえ覚えた。

  ビールが振り回られ、行く途中から一杯機嫌の旅となった。仕事のこともインターネット新聞のことも何も考えず、ただひたすら小学校に入学し、中学を卒業するまでの思い出を埃(ほこり)のかぶった心の中の引き出しからつまみ出そうと試みた。だが、思い出すのは自分が学んだ教室と登下校時の道路、真冬の寒さだけなどであった。途切れ途切れに先生たちの顔も目に浮かんだ。
 
  あのころ、つきあいのうまい子供ではなかった。むしろいつも一人で登校し、一人で下校する自分だった。下校時の楽しみは畦道に伸びている青草をむしり採って、手のひらの慰めにすることだった。そして空を眺め、白い雲の行方を追うことだった。「将来、どんな職業に就きたいと思いますか」。小学校時代の確か作文の時ではなかったろうか。先生からそんな課題が出された。弁護士とか警察官とか医者とか、政治家とか宇宙飛行士とかいろんな職業があったかもしれないが、どうしても現実的なことしか頭に浮かばず「会社員」と書いてしまった。
 
  行商をして汗を流す父の姿を見ているせいかもしれない。何となく背広を着て仕事している人間に憧れた。回答を受け取った女の先生がその内容を見て、チラリと蔑視するかのような、冷たい流し目をこちらに見せたのをなぜか覚えている。「子供らしさがない」とでも思ったのだろうか。多分、宇宙飛行士とか電車の運転手とか奇抜な回答でも書いたら、喜んだのかもしれないが…。しかし、なぜかおべっかを使うのは当時から苦手だった。一人で下校する時も「伊藤君はいつも帰りは一人ね」とその先生から自転車で追い越される際に注意され、何かとてつもないほど悪いことをしたようで気持ちがふさがった。口下手。照れ屋。あの当時の自分はそうだった。今も口下手で人前で話をしてほしいと言われると閉口してしまう。照れ屋も変わらない。宴会などであいさつを求められても上がってしまい、何を言ったらいいのか頭の回転が効かない。
 
  そうした自分が同級生たちに恐れられているいわゆる「がき大将」と体育館で真っ正面から衝突したことがある。拳を振り回し、勝負に挑んだのだった。原因は密かにひいきにしていた女の子へのいじめを見てしまい、我慢ならないとばかりにけんかを売り込んだ。殴られても殴られても相手に向かっていった。殴られる痛さより、とにかく負けてはいけない戦いだとばかりに夢中に歯向かった。騒ぎが職員室にも伝わったらしく、教頭先生が青い顔をして仲裁に駆けつけた。そのあとはどうなったのだろうか。記憶にない。
 
  ただいつも一人でポツンとしていることが多い自分が、今で言う「キレる」と何をしだすか分からないという怖さが逆に同級生の間に浸透してしまったのかもしれない。みんなの観る目が普段とは違ってしまった。一方、その喧嘩相手となった“がき大将”は一目をおくようになって、親しげに声をかけるようになった。しかし、最後まで仲良くはなれなかったような気がする。その後、中学校、そして高校まで同じ学校に通ったが卒業後は一度も会っていない。
 
  小・中学校時代がつまらなかったわけではない。夏は川遊びをし、冬は雪合戦をした。ただ団体活動に溶け込める性格でなかったからか、いつも一人で過ごすことが多かった。それでもみんな齢を重ね30数年前のいろんな恨み言は忘れ、和気あいあいと過ごせる仲となった。42歳の厄年以来の同級会となった。県外からは7人が参加した。仙台駅で合流し、同じバスに乗ってもらい宿に向かった。県外から参加した女性の中には何としても思い出せない人もいた。
 
  宿に入って同級生名簿に目を通しても名前と顔が一致しなかった。それでもお互い心が通じ、何もかもが許せるような気分になるから同級生とは不思議なものだ。2次会は5人部屋に34人全員がすし詰めとなっての騒ぎとなった。
 
  やはりここでも34人の中の一人として溶け込むことは苦手で、早めに自分の部屋に引きこもった。布団をかぶって酔った頭で思考を巡らした。91人の同級生のうち集まれたのは34人。亡くなったのは3人という。小学校時代に書いたように就けた職業はサラリーマンだった。お金持ちにはなれなかったが、まあ幸せの部類だと思った。何としても同級会に参加できたから。