〈古代のヒーローの’凱旋’〉
○…東北の人々はその昔都人から「蝦夷(えみし)」と呼ばれ、さげすみの対象になってきた。しかし八世紀後半、北方の支配を強化しようとする中央政府の圧力に、東北人は決起しアテルイ(阿弖流為)、モレ(母礼)らを先頭に果敢に戦いを挑み、桓武天皇から派遣された征夷大将軍・坂上田村麻呂率いる政府軍は大いに苦しめられる。しかし戦いは圧倒的兵力を誇る政府軍の勝利に終わり、アテルイは捕えられて都に連行される。田村麻呂はアテルイらの勇猛さに感服し公卿たちに助命を嘆願するが、結局斬首刑に処せられてしまう。以来アテルイは残忍な悪路王」として、長らく不当な評価を受けることになった。アテルイ処刑後、中央政府は胆沢城を築き長らく北東北支配の拠点とする。
○…ときは流れ十一世紀、再び東北の人々は中央と対峙することになる。伊沢(今の胆沢)など奥六郡を治めた安倍氏が勢力を伸張させ、府は再び軍を派遣しこれを抑えようとしたが、安倍頼良(のち頼時)によって撃退される。「前九年の役」の始まりである。中央から派遣された源頼義は大軍を引き連れて安倍軍とあいまみえ、頼時の長男貞任と藤原経清を討って再び六郡を平定した。役の途中で頼時は戦死を遂げ
る。生き延びた経清の長男・清衡が後に平泉藤原文化の礎となる・・とここまでは盛岡在住の作家・高橋克彦のベストセラー「炎(ほむら)立つ」の受け売りであるから、NHKの大河ドラマを見た方は記憶に新しいことだろう。
○…頼時は鳥海柵(現・岩手県金ヶ崎町)で果てたと伝えられているが、その遺骨がどこに埋葬されたのかは定かでなかった。その後どういったいきさつか、青森県五所川原市のある神社に奉納されているという話が伝わり、衣川の歴史愛好グループ「青史会」では分骨を受けて、衣川村九輪堂の慰霊塔に埋葬したのが今から6年前の1992年のことであった。頼時が中央と激しく戦った地へのおよそ900年ぶりの凱旋≠ナあったはずだが・・・
○…しかしこの「遺骨」が、実はクジラの化石だったことがこのほど判明した。安倍氏の末裔に当たる人が顕彰碑の整備をする際遺骨を掘り出し、本当に人の骨なのか岩手医科大学に鑑定を依頼、「クジラの骨かも知れない」と今度は岩手県立博物館に回された結果だった。詳しい鑑定結果を地元紙がこう伝えている。「『クジラの耳周骨の化石』と判明。長径58ミリ、短径44ミリ、重さ80グラムで平衡感覚や音を伝える神経が通っている部分でナガスクジラ科のもの」(8月1日付「胆南新報」)
○…しかしこの「一件」ちょっとした波紋を呼び起こしている。千葉政史「青史会」会長は、「なぜ掘り返して鑑定する必要があったのだろうか。本物でなかったのは残念だが、安倍一族は心の拠り所であり本物か偽物かの問題ではない」(同)と、必ずしも快く思っていない様子だ。というのも今回の「事件」の発端になった顕彰碑建立の話は、千葉会長にとっては初耳だったのだ。しかも掘り返して骨をさらすなどということは事前に連絡がなかったという。青史会にとってみれば、自分たちが苦労して分骨を受けて、しかも慰霊塔まで立てて供養してきた「ヒーロー」安倍一族の’聖地’が、知らぬ間に荒らされたという気持ちが強いのだろう。ただ表だって抗議しない、あるいはできないのは、掘り起こした当人が安倍氏の末裔だからである。また今となっては分骨先の神社の責任を問う訳にもいかない。ここに千葉会長のやり場のない怒り、無念さ、複雑な思いが看てとれる。
○…もちろん今回の「鑑定結果」にがっかりした人も少なくないだろう。でも衣川の人々の間では、今でも安倍氏の勇猛な戦いぶりが語り讃えられている。それだけでも頼時にとっては嬉しいことに違いない。
追記:最近、当の神社側の言い分があるテレビ番組で紹介されたが、「神社としては土を持ち帰ることは許可したが、骨までとはいわなかった」と食い違いを見せている。
酒井隼男記者のプロフィール=1958年岩手県生まれ.39歳。大学卒業後生協職員や家業の手伝いを経て、1996年から岩手の前沢町、衣川村を発行エリアとする「胆南新報」の記者。かたわら学習塾を主宰。
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