こちら編集室「山道を歩いて」(9月11日)

  早朝、山道を歩いてふと思った。人間の悲しみってなんだろうと。裸で生まれ裸で死んでいくのが人間だという。世界のクロサワと言われた黒澤明監督が6日、88歳で亡くなった。「羅生門」や「生きる」、「七人の侍」、「天国と地獄」など映画界に鮮烈な印象を残してクロサワはこの世から姿を消した。新聞はどこも一面のトップを飾って監督の死を大きく報道した。自分も映画を通じて随分、黒澤監督の作品にはお世話になった。印象に残っているのは「七人の侍」の雨の中の闘いであり、人間愛に満ちた「赤ひげ」などである。監督の訃報を耳にしたとき、一抹の寂しさが胸を走った。

  世界は違うが昨年、イギリスのダイアナ妃が亡くなったと耳にしたとき思ったのは「世界の美」がもう見られないのかという寂しさだった。黒沢監督の死とはまた違った寂しさだった。ダイアナ妃は私たち男の耽美主義を喜ばせたからだ。青く大きな瞳。天使のようなほほえみ。すらりとした長い足。すべてが美しかった。その美がもう見られない。そう思うだけで寂しかった。

  黒澤監督、ダイアナ妃の死で思ったのは「寂しさ」である。しかし、肉親の死は「寂しさ」を通り越した悲しみである。悲嘆である。だが・・・。
 
  確かパスカルだったと思う。妻子を失って悲嘆の底にある男が、自分の賭けた馬がスタートしたというだけのことで、数分間、その男は有頂天になっている様子を辛らつに描き、「人間の悲しみは一見、深いように見えるがその実、底の浅いものである」と皮肉な結論を下したのは。しかし、人間の悲しみってそんなに浅はかなものだろうか。父の死、母の死。これまで2度の肉親の死を体験した自分は悲しみは海のように深かったと記憶している。悲しみと同時に思い詰めたのは自分を死から守っていた親の力を、親の壁をこれで失ったという事だった。

  親は生きている限り、子どもを死の影から守ろうとする。だから親が元気なうちは、子どもは死が自分とは無縁のものだと思って安心する。父の死、そして母の死。母の葬儀の日、ふと思ったのは自分を死の影から守ってくれた親の力がこれで失ったということだった。

  早朝、山道を歩いていてふと思った。小説の世界に描かれた女なのに「透子」という女になぜか現実の女のように心燃やし、深い同情と哀れみを抱いたのを。悲しくなるほど好きになったのを。透子。井上靖の小説「城砦」の主人公である。広島の原爆で傷つき、生きることに希望を失う。透子は海を見ながら死のうと思った。ちょうど映画を見ていて、映画と一体となってしまい、死のうとする女に心の中で「死んではいけない」と叫ぶように、「城砦」を読み進めながら「透子。死んではいけない」と活字を夢中で追ったのを。

  桂という男が追って来る。自分はいつの間にか桂という人間になりきって、透子を活字で追っていた。

  「良かった。会えて!。会えなかったら大変だった」
 
  桂は少し怖い顔をして言った。透子は顔に両手を当てて肩を震わせていた。髪が背後に飛んでいる。

  「人間、死ぬ権利はない。生まれて来た以上、生きなくてはならない」

  桂は言った。

  「だれでもでしょうか」

  透子は口を動かした。初めて低い声が口から出た。

  「そう。だれでも」

  「でも、わたくし、休みたいんです」

  この小説で心打たれたセリフがある。生涯忘れられない名セリフだった。

   「愛が信じられないなら、愛なしで生きてごらん。世の中が信じられないなら、世の中を信じないで生きてごらん。人間が信じられなかったら、人間を信じないで生きてごらん。生きるということは恐らく、そうしたこととは別ですよ。この石のように生きてごらん。僕は政治家でも、哲学者でもないから、こんなことしか言えない」

  早朝、山道を歩いていてふと思い出した。この透子と桂の言葉のやりとりを。桂の言葉にほれぼれとし、透子の悲しみに心傷めた。小説の世界なのに自分が助けることが出来なかったことに言いようのない切なさと嫉妬心さえ抱いた。不思議なほどこの小説に身を焦がした。鮮明なほど桂の言葉が頭にしみ込んだ。「愛が信じられないなら、愛なしで生きてごらん。世の中が信じられないなら、世の中を信じないで生きてごらん」。透子の生きることの悲しみに身をやつした。

  インターネットを語ってくれと大曲商工会議所から講演依頼を受けてしばらく悩んだ。簡単に引き受けてしまった自分の迂闊さ、蒙昧さに頭を痛めた。追い詰められるように山道を歩いた。逃げるように山道を歩いた。インターネット新聞をやっていながら、インターネットに関しては何にも知らないという無知さに気付いても後の祭だった。講演前日の夜、知人らと飲んだ。

  知人の一人曰く。「伊藤さんの文章には女の人を引きつけるものがありますね。表紙の写真。あの写真に付ける文章。あれなかなかいいですよ」。酒が回った悪友は曰く。「まったくおれの世界とは縁がない文を書いていやがる」。翌朝。その悪友と午前3時まで付き合わされたという知人は「伊藤さん。飲んで騒いだ結果、伊藤さんは女たらしということでした」とニタニタしながら追い詰めた。さらに講演会の会場まで来て、助言者の振りをして「伊藤さんのインターネット新聞がこれほどアクセス数を誇るのは、伊藤さんが女たらしだからです」とまでのたまわった。会場から爆笑が沸いた。ひどい。