大曲市川目の小西倉治さんの100歳を祝う「百歳長寿祝金」贈呈の取材を終えてつくづく考えた。人間の一生って何だろうと。小西さんは元高校教諭だった68歳になる長男夫婦、そしてやはり教師の道に就いたお孫さん夫婦、ひ孫2人の6人家族に囲まれて幸せに暮らしている。
長男の勝巳さんは父の倉治さんをそのまま若くしたと言っていいほど良く似ている。倉治さんの話をしている最中も視線は常に父親に走っていた。倉治さんは仏壇を背に正座しているのだが、それでも転倒はしないか、あるいは立ち上がろうとしないかと常にその動作を気遣い、けがを恐れている風だった。68歳の勝巳さんをこのように表現するのははばかれるのだが、温かい息子さん夫婦と優しいお孫さん夫婦に恵まれたからこそ満100歳というおめでたい日を迎えたのだろう。
倉治さんの生まれた明治31年(1898年)という時代はどんな時代だったろう。日清戦争は明治27年から28年にかけて、そして日露戦争は37年から38年にかけて行われた。倉治さんはその中間に生まれ、日露戦争が始まったころには6歳になっているはずだ。今で言えば小学1年生になっていたのである。倉治さんはどんな子供だったのか、どんな学校生活を送ったかは知るよしもないが、とにかく日本という国家は長い鎖国から目覚めてまだ30年足らず。近代国家へと歩み始めた時代だった。
想像だが、日露戦争の勝利は、倉治さんたち子供たちに大きな喜びとして伝わったことは間違いあるまい。古い話だが自分の生まれ育った家にはその日露戦争の様子を描いた子ども向けの画集があり、小さいながらも心踊らせ目を通した記憶がかすかにある。背嚢(はいのう)を背負った兵士が右手に銃を高く掲げ、今にも倒れんとしている姿。その兵士に視線を向けながらも、敵陣へ向かおうとしている戦友たちの大きく見開いた目と口。あちこちから砲弾の煙がたなびくその戦場画はおそらく203高地を描いたものだろうと今では思う。
倉治さんはこの日露戦争を子供時代に見送り、大正を迎え、青春のど真ん中を走る。宮大工になったのが18歳という。大正に入って間もなくの大正3年(1914年)には第一次世界大戦が始まる。倉治さんに兵役の体験はあっただろうか。耳の遠さもあって、じっくりと話は聞けなかったがとにかく明治生まれの人間は4年間続いた第一次世界大戦を味わい、さらに昭和に入ってからは第二次世界大戦という悲惨な時代を迎えることになる。計算してみるとこの第二次世界大戦のころは倉治さんは40代に入っている。そして終戦の昭和20年は48歳で迎えたことになる。
生まれてから半世紀の間、倉治さんは常に戦争という谷間の中で人生を送ったことになる。市役所から事前に配布された倉治さんの職歴には旧大曲小学校の祭殿も造ったというから、多分、天皇皇后両陛下の写真を収めるための御真影安置所を倉治さんは手がけたのだろう。戦後生まれの記者には語る資格はないが、国のため死ぬことを名誉とした軍人が大いに威張り、若者は戦場に散り、国内では都市という都市が空襲にやられ、どん底の苦しみを味わう動乱の時代を倉治さんは生き抜いた。
それから再び半世紀。倉治さんは100歳という誕生日を迎えた。かくしゃくとした歩き格好。深いしわが刻まれたものの福々しい笑顔。大工で鍛えた太い指。その指に刻まれた深いしわ。かすれた声。どこにも100年という長い年月を生き抜いた年輪が刻まれていた。それでなお「若い者には負けられない」という気迫を見せると勝巳さんは言う。その一途な頑固さ。そしていまだに新聞の隅々まで目を通し、世の動きを知ろうとする知識欲の深さ。県知事、内閣総理大臣からのお祝い状に頭を下げ、「ありがてんしナ」と心からお礼を述べる律儀さ。生きることは楽しいことだとでも言いたいような恵比須顔のすばらしさ。倉治さんの取材を通して人生とは、生きることとは何だろうなとふと考えた。
このような幸福そうな家庭、お年寄を見るのはいい。だが、記者として出会った多くの思い出は人の死と悲しみが多かったような気がする。交通事故で妻や子を失い慟哭する夫。高校生だった娘が農薬をかけられて殺されるという悲惨な事件。障害を負った子の将来を悲観し、あるいは家庭不和に疲れて湖や川に飛び込んだ母子心中事件。元気に家を出たはずの夫が作業現場から変わり果てた姿で帰り、突然の死を例えようもない悲しみで迎える妻の姿など。幸せより、人の悲しみと不幸との出会いが多かった。そうした悲しい事件や事故を目にする都度、残された家族はこれからどう生きるのだろうかと心痛めた。家族の絆、家族の愛、幸せというものはなんて脆(もろ)いものかと思った。
禍福は紙一重とも言い、あざなえる縄のごとしとも言われる。それにしても事件や事故で命を失われるのでは救われない。命は取り返しがつかないし、悲惨だ。孔子は人の死を川の流れの如くと例え、「逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎(お)かず」と嘆いた。ああ。死は仕方ない。仕方はないが、出来れば多くの人が、家庭が、小西さん一家のように明るく豊で、幸せであってほしい。気持ちが暗くなった。沈んでいく。ええっい。こうなったら家に帰ってうまいビールを飲もう。ビールを飲み、県南日々と交流のあった美女たちを思い浮かべよう。例え女たらしと言われようが。
「鳥になりたい」。そんな人たちの姿を取材しようと太田町の大台スキー場のパラグライダー大会の取材に行ったが、天候不順で帰ってきた。予定を変えて、こちら編集室に向かった。土曜日。空を飛びたいと集まった多くの人たちの表情は、例え飛べなくても幸せを絵に書いたような顔だった。うらやましいほど。