中秋の名月は5日夜だった。奥羽山脈から上り始めた月は大きな皿のように輝いていた。月を見ながら犬と共に近くの堤防を歩いた。子供のころ「中秋の名月」の役目は堤防に行ってススキを刈り取ってくることだった。夜にお月さまにささげるのはブドウや梨、菓子、そしてお酒だった。子供だったからさすがに酒には好奇心は抱かなかったが、お月さまを見送った後におみやげ品として残る果物やお菓子を楽しみにしたものだった。
兄がいて一緒に風呂へ入った。名月の日はいつも風呂には蓬(よもぎ)の束が入れられ、青草のなんとも言えぬ香気が漂った。その蓬の束で体をこすると丈夫になるんだと母は言った。3つ上の兄はその蓬の束で背中を流しながら、「丈夫になろう。丈夫になろう」と呪文のように唱えた。背中にこそばゆいような軽い痛みが走ったが、むしろ気持ちよかった。風呂に入りながらも、満月が上って来るのを楽しみにし、菓子を頭に描いた。
暗くなるのを待って外に出た。今と変わらぬ大きな月が東山から上り始めた。絵本にうさぎの絵が描かれていたせいか、月にはうさぎがいるんだと信じていた。かすかに見える月の模様を眺めながら、絵本と同じようなうさぎの姿を頭に描いて満足した。なぜ月にうさぎが住んでいるのか不思議に思うこともなかった。ただ、絵本に描かれているのをそのまま信じていたのだ。しかし、いつまで眺めても動かぬうさぎに「あきることはないのだろうか」とも思い、あれは絵本と同じで月に描かれたうさぎの絵ではないのかとも想像した。
東山から出て、生まれたばかりの月は絵皿のように巨大だが、天空に上ると月は次第に小さくなって、青白く輝いた。その月を眺め、ロウソクに火を灯し、両手を合わせて祈った。何を当時、祈ったのか。いまは記憶にない。あるのは蓬で磨かれた背中のかすかな痛みと菓子を手にした喜びだけである。
5日夜、犬を連れて堤防を歩いた。月はさん然と輝き、辺りを青白く照らしていた。杉林が黒々としたシルエットを作っていた。杉林は子供のころの遊び場だった。そして母と一緒に風呂の火種となる杉の葉を拾い集めに良く行った場所でもあった。
杉林を兄やその仲間と歩き、枝にぶら下げたロープにつかまって飛んでいくターザンの遊びにも興じた。冒険の場でもあった。隠れ家を造ろうと兄たちと一緒に枝をかき集め、数人が入れるバラック小屋を建てたこともあった。屋根は杉の葉で覆った。
兄たちの真似をしてナイフを手に、杉の皮をマッチ箱ほどの大きさに切り抜き、水分を含んだ木の身に自分の名前を刻み、そして再び杉の皮をかぶせた。たわいない遊びだったが、名前を刻まれたその杉の木は自分の分身のように思えた。数日後、再びその杉の木に会いに行き、杉の皮をはがし、名前があるのを確認して満足したものだった。
杉林でだれかがへびを見つけた。怖いもの見たさに恐る恐る駆けつけ、その冷たい目、グロテスクな動作に青くなって逃げた。がき大将的な存在だった兄の仲間は「ヘビなんて怖くない。あんなもの尾っぽをつかんで叩きつけたらそれまでよ」と威張った。別の仲間は「へびはたたるから怖いよ」と恐れた。とにかくへびに出会わないことを祈った。しばらく、杉林から足が遠のいた。
秋。杉の葉が落ちるころ、母に連れられてその杉林に再び入った。杉の葉拾いである。兄も一緒だった。近所のおばさんたちも一緒だった。杉の葉をかき集め、山盛りに積んだ。まだ小さかった自分はその仕事にあきて、以前に名前を刻んだ杉の木を訪ねた。その杉の木は他の木の仲間たちと同様に黙って自分を迎えた。「お前はいいなー」。確かそう呼びかけた。黙ってすっくと立っているだけの杉の木がとてもうらやましく見えた。杉の葉を拾い集めるという単純な作業がとても嫌だったからだ。しかし、何も答えない杉の木に見放されたような寂しさを感じ、再び母たちのいる所へ戻った。
母も兄もそして近所のおばさんたちも黙々と杉の葉をかき集めていた。兄が「遊んでばかりいないで手伝えよ」と怒った。ソッと振り向いた母の笑顔がまぶしかった。まだ小さいながらも母はもうおばあさんだと思った。当然である。自分が生まれたとき母は40代半ばだった。だから、当時は50代だったろう。かき集めた杉の葉を縄で縛り、母は背中に背負った。見ていて自分もどうしても杉の葉を背負わなければいけないと思った。泣くような声で「俺も背負いたい」と叫んだ。母はまだ残っていた杉の葉の山から小さな束を作って自分の背中に背負わせてくれた。兄が背負ったと同じように。
小さかったころ。生活は貧しかったが、幸せな思い出が詰まっていた。月はさん然と辺りを照らしていた。小さかったころの遊び場だった杉林は月の光を受けて、真っ黒な姿となって静かにたたずんでいた。あの名前を刻んだ杉の木を探した。林の外れの所に木は立っていたはずである。見分けは付けられなかったが、いずれも立派な大木に育っていた。名前が刻まれた木もその群れの中にあるのだろう。
中秋の名月を眺め、夜の堤防を歩いた。小さかったころ兄がいたから良かった。兄弟というものはいいものだ。思い出を残してくれる。娘(犬)が帰ろうとせがんだ。くびすを返して家に向かった。酒とビールが待っている。もう一度、月を眺めた。満月の美に酔いしれた。悲しいほど美しい月を眺めた。ベートーベンの「月光」ソナタ。いつの間にか悲しみの曲が頭の中に流れていた。