東京インターネット株式会社会長・高橋徹氏の講演要旨

  秋田県立大曲高等学校90周年記念講演から(98・9・12)

  「明日を生きる−21世紀を生きる人々に」

  1.40年前のこと

  1985年、本校は創立50周年を迎えました。私はそのとき、3年生で生徒会の副会長をしていたと記憶してます。40年前の大曲は、米の集散地、お米が取れてそれを集めて送り出す所でした。大曲の町は、仙北地方の米どころの中心として発達してきた商業都市なのでしょう。交通から見ると雄物川の水路が重要であった時代、鉄道が中心になった時代、それぞれに大曲の町は適応してきました。その傍ら、奥羽山脈、田沢湖高原、姫神山などに囲まれた盆地に集まってくる物資があります。交通の発達によってもたらされる情報の流通と、その土地が持っている後背地の大きさから来る物資の豊さとを兼ね備えた所に、大曲の町が存在すると言えるでしょう。

  この町を思うと懐かしさがこみ上げてくるとともに、外国や国内をあちこち歩いた目から見ると重層的に大曲の町が歴史性を持って見えてきます。北日本に固有な民俗を日本海文化圏としてとらえたり、日本海対岸の朝鮮半島、沿海州との関係から考えてキルギス、ヤクートの古代から北方アジア狩猟民とまたぎとの関係を考えてみるとか、蝦夷(えみし)の歴史から見るとか、畳重なったさまざまな見方が出来るでしょう。たとえば「古四王神社」がなぜ重要文化財として大曲にあるのか、また「金沢の柵」や「払田の柵」、「後三年」のような地理上の言葉が持つ歴史上の意味を問う、とか、前九年、後三年の役に出てくる姓名と現在の我々の姓を比較してみるといった見方で大曲、仙北地方を掘り起こすと、限りない興味が沸いてきます。とくに、日本の縄文時代の文化に関する多くの事実が新しく発見され、東北地方の古代研究が全く様相を変えてきました。そういう中で、この大曲地方を見直すことの面白さというものがあります。

  さて、今日は大曲の町の歴史を話すつもりできたのではありません。私は40年前に本校に在学し、30年ぶり今日やって参りました。私が現在生きている世界をどう見るかと言うことを、今ここにいる若い諸君にどう伝えるかが、今日の課題だと思います。

  ここにおられる福原校長先生は、小学校の同級生で、1959年に東北大学に入学したときも一緒でした。その40年前の時代と現在は遙かに時間を隔てています。何が変わったのか、といいますと、それは私が変わったのである。また、福原先生も100年1日のごとき顔をしていますが、大いに変わっている。その変化を個人の歴史に即して言うとなりますと、どんなに時間を費やしても足りません。そうではなく、若い諸君に伝えるべき、時代の変化を語るとなると、少し言葉の抽象の仕方、そのレベルとフェーズを変えてみないといけない。

  私自身のことをその前に少しお話ししましょう。私は、インターネットとともにあります。インターネットは、世界中のコンピューター・ネットワークが相互に接続されて一つの大きなネットワークになっているものを指します。電話が世界中につながることを私たちは知っていますが、電話は音声だけです。インターネットは、マルチメディアネットワーク、音声、画像、文字、映像などをやりとりできる仕組みです。電子メールのやりとりが出来るのですが、1日に200通から400通の電子メールを受け取り、それに返事を書いたり議論したりするのですが、そのための資料をインターネット上で得る、原稿をワープロで書いてインターネット上で送る、自分の意見を自分のホームページ上に掲載する、そんなことで、毎日を過ごしています。

  70%が英文のやりとりです。1日に200通の郵便を受け取ったり、電話が来たりすると、それだけで手一杯になり、他のことは出来ません。しかし、電子メールなら、ためて置いていつ読んでもいいし、返事を書かないといけないものは少ない。ダイレクトメールのような広告も多くなってきましたが、要らないものは断れば良い。

  この便利さは、これまでにない生活のスピードを要求します。インターネットの1年は“ドッグ・イヤー”だと言われる、つまり、7年分に相当すると言います。このスピードは、疲労を蓄積する上でも同じように働きますから、夢中で仕事を続けて、ある日バタンと倒れてお終い、となりかねません。その意味では、新しい野蛮な社会を作っているような感じがあります。

  この生活は、情報化時代の変化に応じて始まりました。その変化は、今や社会の隅々にまで及んでいます。新幹線や飛行機の情報と切符の入手、さまざまな商品の売買、書籍の販売、銀行預金の預けおろし、テレビより詳しいリアルタイムの天気予報、株式の売買等がインターネットで出来るようになりました。まして、今後は、テレビ・ラジオはもちろん、電話も、ファックスも、家庭のパソコン上から出来る、つまりインターネットの上で行われるサービスになってきます。そういうサービスが複合して提供される情報化社会が、21世紀を特徴づけるものだと考えられています。  2.パラダイム・シフトを考える力

  私たちは大学に入って、教養課程から授業を受けました。高校生では聞くことのできなかったような哲学の講義があったりしますが、今から見ると当時の東北大学では、カント、ヘーゲルが中心で、これは“ドイツ観念論”と呼ばれる哲学のグループなのですが、それが主流だった。ところが現在、ドイツ観念論あるいはカント、ヘーゲルを専門にする哲学者は少ない。なぜかというと、ドイツ観念論的な考え方では、現在の世界をとらえるのに相応しくないと考える人が多くなった。とくに構造主義以降では、世界の解釈の仕方が、実際に存在する事物の構造を解き明かすのに文化人類学の方法を導入したりする。

  これは学問上の変化と言うよりも、現実の社会、政治経済だけでなく文化的な面を含めた、私たちが実際に感じている社会の変化を、学問の方が後から追いかけて解釈しているようなものです。私たちが習った哲学がドイツ観念論であったとすると、それが解釈する世界と現実の世界との間に大きな隔たりが生まれているわけで、そぐわなくなってくる。時代の変化はこういう経験をしばしば味わせてくれます。

  ある時代にはその時代固有の支配的なものの見方、考え方があります。それを“パラダイム”という言葉で呼びます。スペルで言うと“PARADIGM”で、文法上の用語だったりしますが、言葉の使い方の模範という意味です。パラダイムが変化することを“パラダイム・シフト”と行ってます。私たちはいま、20世紀の終わりにいるわけですが、ここわずか10年間の変化は、極めて急速です。この変化を解釈するのに十分な哲学、あるいは社会思想、何でもいいけれどもうまく解き明かしてくれるものが見当たらないまま、パラダイム・シフトが続いている、というふうに私は考えてます。

  大学を出てから、大学で学んだことが役に立つか?と考えると、考えるための方法を学んだことしか残りません。 どの学問を通しても、考えることの力を学のでしょう。受験勉強でも、おそらく効率の良い点数の取り方を身につけると、成績が伸びるでしょうが、しかし、効率の良い点数の取り方は、努力の結果に生じるものであり、誰かがヒントをくれたとしてもそのヒントを活かせるだけの考え方を持つことが自分の力なのです。

  考える力があれば、このパラダイム・システムを自分で解きながら、進むことができます。私は40歳にして、文科系から理科系の世界に飛び込んで、コンピューターの基礎を勉強する時間を持ちました。そのとき、自分が生きてきた経験が新しい世界ではあまり意味がないことに気づかされます。それは結構辛いことでもあります。知っている世界に安住していると、言葉を交わさなくとも、分かることが多いと思います。しかし、社会の変化がもたらす多くのストレスは、もっと多くの言葉を交わさないと相互に理解できない、世代間の断絶や、家庭内暴力を生み出したりします。それらに立ち向かって解き明かそうとするためにも、パラダイム・シフトを考える力を持って言葉をつむぎ出すことが、大切な能力になります。

  先ほどちょっと言いました縄文文化の見直しということも、実は弥生文化=先進的=稲作=大和朝廷、というパラダイムが崩れてきたことを示している、パラダイム・シフトの一例であると言えます。

  また、戦後社会の構造が変わったとか、明治以来の日本の社会構造がいま変化を迎えていると指摘されています。日本の歴史最大のパラダイム・シフトは大化の改新、応仁の乱であるといわれますが、現在、3つ目のパラダイム・シフトを迎えていると考えられます。20世紀の終わりとともに大きな歴史の転換点を迎えているわけです。

  3.情報化社会ということ

  パラダイムの変化の中で、最も特筆すべきことは、情報化社会の進展でしょう。40年前にこれほどコンピューターが社会の隅々まで及ぶ力を持つに至るとは、誰しもが考えられませんでした。私は大学を出てすぐ出版の世界に身を置き、編集者としていつも新しい世の中の動きに接してきましたが、例えば1960年代にソビエトロシアがいずれ崩壊するという認識を、当時の私たちは当然のこととして議論していましたが、そのことを通常の考えとして述べると、世間の人に笑われました。しかし、それから25年経って実際にソビエトロシアは崩壊したわけです。そういう認識が時代に先駆けてあったとしても、そのことをパラダイム・シフトとは言いません。時代の変わり方をうまくつかんで、変化の方向を示すことが必要なのです。

  その60年代に、米国のダニエル・ベルという人が、“脱工業社会”ということを唱えました。人間社会の依拠する産業が、農業から工業になり、20世紀には高度工業化社会が大量生産、大量消費社会を生み出し、それが高品質少量多品種生産に移行して行くと言われていたのですが、その後期工業社会からも脱出する方向に行くのであると、ダニエル・ベルは示唆していたのです。その行く手にあるのが情報化社会である、と。

  私は、その意味を十分理解することなく、編集者の世界の延長であるニューメディアに取り組みました。ニューメディアという言葉は、コンピューターが生活の各場面に影響を及ぼしてきた中で通信や表現の手段として新しいものを提供する可能性が生まれ、それらが一群の新しい表現手段、通信手段として社会の情報基盤になっていくものを指すと考えられました。

  ニューメディアに携わるようになったのは80年代の初めに、ダニエル・ベルの本を読み返し、“脱工業社会”の意味を考えました。ベルが示していたのは、工業化社会が行き詰まる、それを切り開くのは、コンピューターを駆使した情報化社会なのだということです。そこに今日のパラダイム・シフトの一因が見えます。ベルが言った“Post  IndustrialSociety”トイウ言葉は、“脱工業化社会”と翻訳されましたが、後期工業化社会とも訳されます。皆さんは近代絵画の流れの中で印象派“Impressionism”というのをご存じですね。ゴッホやゴーギャンが後期印象派に属しますが、これを“PostaImpressionism”といいます。そういう意味で、Postというのが後期工業化社会を指すのです。

  なるほど、コンピューターも工業製品であるから、コンピューターを駆使する情報化社会は、後期工業社会である、という言い方もできるでしょうが、しかし、時代の変化を明確にする意味で、情報化社会というべきです。高度に発達した工業化社会が、自ら行き着いたところが情報化社会なのです。そして、結論を先に言いますと、私が今日本の代表の一人になっているインターネットの世界は、高度情報化社会を作り上げる中心の技術であり、大きな社会的影響力を次第に持ってきました。コンピューターが高性能になり、ネットワークが高速になり、マルチメディア・コンテンツがインターネット上を飛ぶようになってきたのです。

  インターネットは今や日本でも1000万人以上のユーザー数となりました。まもなく全国民の10人に一人がインターネットにアクセスできるようになります。また、文部省の施策によると、2003年までに中学校、高等学校のすべてに、さらに小学校にも2005年までにインターネットが使えるようになります。大学でインターネットアクセスが出来ないと、学生が集まらないと言われますし、就職情報、求人情報は、インターネットを通して得られるようになっています。あなた方、若い人々は、否応なくこの情報化社会に組み込まれていきます。そのこと自体に善し悪しはありません。変化のいくつかを挙げると、次のようなことがあります。

  1)農業あ鉱工業が、情報産業よりも活力がない。しかし、情報化が第一次産業(農業、漁業、林業)にも、第二次産業(工業)にも及ぶことによってそれらの高度集約化が進み、無駄を省いた効率的な産業の経営が可能になってくる。

  2)世界がコンピューターネットワークの発達によって情報を共有できる頻度が高まり、同時制が強められる。国家の壁を超えてグローバルな情報の交流が生じている。
 
 3)ピラミッド型の組織に変化が起こり、ネットワーク型組織が増えている。一元的管理体制ではなく、分散環境でネットワークを駆使する秩序感覚が増えてくる。

  4)いかなる組織も孤立して存在することは出来ない、相互依存の関係であることが強められてくる。決定的な支配と従属の関係が薄れていき、自律的な組織の緩やかな連合が増加する。

  こんなことが指摘されています。あなたがたは、これらの指摘された事態をもっと掘り下げたり増幅したり、あなた方自身の体験の中で修正したりしていくことができるわけです。そのとき、考える力があなた方自身の言葉を通じて現れてくるでしょう。

  4.国際化社会の中で

  私は今、インターネットの国際機関の役員をいくつか兼ねています。40歳を過ぎてから私は国際的な仕事の場面に携わるようになり、45歳でインターネット研究を始めました。ですから、私が国際会議で苦しむのは、まず十分な語学力がないということです。専門用語は、インターネットに関する限り心配はありません。しかし、日常会話の中で、たとえば朝食時に世界の情勢に関する自分の意見がさらりと言えたりすることが重要なのです。国際会議では、さまざまの協定文書案や声明文書案を検討することが良くありますが、斜めに読んで即座に問題点を指摘し修正動議を出すといった日本語の世界でも高度な知識を必要とすることを、外国語を駆使して出来て当たり前だと受け取られている、そういう場面に出ていくことの辛さがあります。

  そのとき、自分が間違ったり、へまをしたことによる、あるいは差別的な扱いをされたという屈辱がバネになります。例えば、いろいろ恥ずかしいことを経験してきました。聞き違えて、とんちんかんなことをしゃべったり、ルールを知らないままにゲームに参加するようなことが何度となくありました。顔から火を噴くような思いを何度も重ねると、間違いも次第に減ってきます。外国のホテルで朝食を摂ることが、イヤになってくることもしばしばあります。このように、恥を恥じとして経験することなしには、人間は成長しないものです。言語の障壁、ラングエジ・バリアは、確実に存在します。だからといって尻込みしていたのでは、負け犬になってしまいます。

  ある時にあ会議の議長役を仰せつかったり、報告者になったり、基調講演を下手な英語で無理して引き受けたりするから、胃潰瘍が持病になってしまいました。だが、その反面、欧米の人たちの中には、自分たちが漢字を書けなかったり、日本人、中国人、韓国人の区別が出来なかったりすることに、劣等感を持つ人が少なくないことにも気がつきました。アメリカの高学歴の人ほど、下手な英語に関して寛容である。どうしてかというと、彼らの大学の教授連中は、東ヨーロッパ、インド、中国、日本、韓国等の非英語圏出身者が多いため、さまざまの英語を聞いて判らないと、卒業に必要な単位がもらえない。そんな話も聞きました。

  また、私は今年の2月にアジア太平洋ネットワーク情報センター(APNIXC)の執行評議会議長に選ばれたとき、54という最高得票だったのですが、日本からの票数は全部集めても20票しかなく、他の国々の代表が私に投票してくれたのです。お前は日本代表ではないぞ、俺たちの代表だぞ、というプレッシャーがかけられます。後でその理由を尋ねたら、

  1)高橋は英語がうまくないから難しい言い回しが出来ない。だから英語の下手な人間にも言っていることがわかりやすい。しかし、インターネット全体の問題点を把握している。

  2)アジア太平洋地域のインターネットの発展に日本の利益代表としてではなく、中立的な立場で何年にもわたって尽力してきた実績をみんなが知っている。その意味で信頼されている。

  3)頭が白くて、いかにも長老風である。
  といいます。3番目はいかにも長老を尊ぶアジア的な感じがありますが、私はそんな歳ではない。しかし、そうか、私が下手な英語を、単語を並べて語ることにも意味があるのだな、と納得したことがあります。

  国際化社会が進展していきます。その中で、日本人は次第に嫌われるような傾向があります。何故かというと、自分の利害しか念頭にないようなものの言い方、考え方が多すぎるのです。誠意を持って外国との関係を調整し、自分の利益を後回しにする、という思想態度は、新渡戸稲造の“武士道”や岡倉天心の“茶の本”のような、近代日本の古典的名著に描かれた日本人の姿でした。今はそれが薄れています。アジアの経済が冷え込んでいるのに対し、責任を持って日本が担うといえる人がいない状態です。国際社会に通用するためには、国際社会のルールにあう生き方をするだけでなく、国際社会に貢献していることが必要で、そこで評価が定まります。英語なんか下手でもいい、とはとても言えませんが、主体的な自分が出て来ないと、英語屋さん、語学屋さんという扱いを受けるようになってしまいます。“グローバルスタンダード”と言うことがよくいわれます。国際標準と言う意味ですね。日本人は、ともすれば“ローカルルール”を自国の利害として主張し、“グローバルスタンダード”に従わない、つまり、国際社会のルールに則した行き方を採ろうとしない。それがいつも“ジャパンバッシング”の種になっています。国際社会に対して、これではうまくない。センスを磨き、駆け引きもできるが、あくまで公正な視点を持って臨むような日本人が増えるといいですね。

  私の英語は、高校、大学の時の知識と、40歳過ぎてから外国相手の取引の現場で覚えたものに過ぎません。しかし、そんな私でも国際会議の日本代表の役割を担ったりするのは、語学が立派に出来るからというのではなく、私が分担している、果たしている役割によるものだと考えます。そういう役割を担える人間が集まって国際関係の網目を織りなしている、と言えるでしょう。

  現在のところ、支配的言語が英語であることは、世界中どこに行っても変わりません。ほとんどの国際会議で英語が公式言語(Official  Language)の一つに指定されてます。それに対応できるだけの基礎を、若いうちに身につけておくことは極めて大切だと、心の底から思います。また2050年になると、支配的言語は中国語に移る、と言う研究もあります。インターネットを通して、国際化はすぐにローカルな場面にもやってきます。これに対応できることは必須だと考えてます。

  私は、秋田弁のなまりを気にして、東京ことばに対する劣等感にさいなまれた秋田人の歴史を知っています。今ではテレビの影響でだれもが東京ことばを話せるようになりましたが、それと同じことが日本語と英語との関係で生じているのでしょうか。独自の言葉には独自の文化があり、歴史があります。私は、日本語のもつ意味内容が、すっかり英語に置き換えることはできません。その意味では、日本語、われわれの言語を豊に使うことが、英語の表現の豊かさを学ぶ道にもなるでしょう。

  5.君たちの明日に望むこと

  まず、グローバルな視野を持ち、ローカルに生きることを目指していただきたい。  まず、自分の考えを少なくとも2カ国語で、述べることができる。さらにインターネットを通していつでもどこでも、必要な議論に参加し、自分を切磋琢磨するような人が、21世紀の人材として期待されるでしょう。昔から言うところの基礎教養である“読み書きそろばん”のことを今風に言えば、コンピューター・リテラシーといいます。もちろん、コンピューター・リテラシーは不可欠です。

  しかし、どんなに情報化が進んだとしても、コンピューターは道具に過ぎません。道具を使いこなすのは人間です。主体である人間が、自分の意志にあわせて道具を選び管理して、役立てるようんにすることが肝心です。道具に振り回されない個人の主体性が必要なわけです。個人の主体はコンピューターに親しむだけでは生まれてきません。人間の社会が古くから持っている自然性、天と地の間にあって、動物、植物の生きとし生けるものの命との交感が、人間の基本に存在します。そういう感性を育むことなしに大量生産大量消費を生み出す機械文明に溺れ込むことから、現在の様々な問題が生じてきました。

  世界中どこに行っても、日本ほど恵まれた風土はありません。その中でも、とくにこの秋田県大曲市に勉強できると言うことは、さらに大きな自然に恵まれた環境にあることを意味します。私はこの大曲で、多くの人々の慈愛に育まれました。そのことに感謝の念なしには過ごすことができません。君たちが主役となる21世紀には、人間が地球上に繁殖するカビのように自然環境を壊し続ける存在であること止めて、自然との豊かな感性の交流を持つ、共生の社会、共に生きる社会を築いて欲しいと願います。そのために、コンピューターを駆使して情報化を推進し、インターネットであらゆる情報をやりとりできる仕組みを人類の共通の財産にしようとして、私は努力してきました。

  20世紀には、放任された経済社会による弱肉強食を育て、野蛮な戦争と悲惨な事件を次々に引き起しました。日本人も、日本国家も、その主要な場面の責任を担っています。21世紀には、それを超えることを人類は学ばなければならない。学ぶための議論もたくさんあります。インターネット上に人類の知恵が蓄積されています。

  社会の変化、すなわち“パラダイム・シフト”を自分の言葉でとらえる、考える力が、あなた方の未来を築く原点です。考える力が発揮されるとき、人間一人ひとりが、孤独な場に立たされるでしょう。若者の意見をすぐ受け入れるほど、世の中は甘くはありませんし、社会は公平でなく、不正に満ちているからです。それらの社会的矛盾に目を見開き、それらに対するあらがいを通じてこそ、人々と共に生きる希望が見えてくるし、共生の道が開かれます。そのとき、孤独と苦悩を糧として、自分の精神の成長を見つめていくプロセスがあると思います。あるいは手厳しい批判に負けて挫折することもあります。若い人でも、歳老いた人でも、このプロセスを経過することなしに人生を過ごすわけには生きません。

  そのとき心から語り合える友人、知人が大きな力になります。故郷は都会で傷ついた人々の心をいやす場所であり、子どもの時からの自分を見つめる場所でもあります。かつて、離村向都というパターンだけが、ムラを離れ、田舎を離れて都会に出て就職することだけが、繰り返されてきましたが、今は様子が違います。Uターン、Jターンという言葉があるように、都会で学校を出てから就職し、その後、郷里に帰ることが増えています。故郷を豊にすることが、人生の目標であって何の不思議もありません。家族のきずなつながりを大切にする、友人知人を大切にすることを、改めて皆さんに申し上げたい。

  言葉があって、“同化作用”に対立する言葉ですが、異なる地域の、異なる民族の考え方、感じ方に触れることを通して、自分の中にそれまでの無垢なものとは違った何か新しいものが生まれてくることがあるからです。若い人には旅をさせよ、と古くから言われるのは、十分な意味があります。そうした活動の経験を活かして、あなた自身の豊かな人生を築くこと、そして成果を社会に還元していくことを期待します。

  高橋徹氏略歴=1941年1月、栃木県宇都宮市生まれ。1945年、秋田県仙北郡大曲町に疎開、1947年、大曲小学校に入学。1959年、大曲高等学校卒業、東北大学文学部入部。
1964年、東北大学文学部哲学学科美学美術史専攻卒業。出版社勤務、編集・評論活動を経て1982年、生活構造研究所嘱託として画像データ通信(ビデオテックス)の普及啓蒙に従事。

1986年ディジタルコンピューターに転じ、UNIX  Workstationとルータの導入による高速ネットワークの市場開拓を担当。
1987年からインターネットに関する調査研究。1989年から村井純氏とともにInterop視察研修企画を5年間続ける。日本最初のWIDEインターネットの構築に貢献した。1991年の第1回からインターネットの国際会議INETに参加。

1993年にZiff−DavisJapanに転じてNestWorld+Interop94Tokyoの開催を組織する。同年12月、日本インターネット協会(IAJ)の設立とともに事務局長、97年12月から会長(現職)。

1994年12月、東京インターネット(株)の設立に関わり、代表取締役。1996年9月、同社会長に就任(現職)。社団法人日本ネットワークインフォメーションセンター(JPNIC)理事、アジアパシフイックインターネット協会(APIA)理事。アジアパシフイックネットワークインフォメーションセンター(APNIC)執行評議会議長。日本インターネットエクスチェンジ(株)取締役。政府関係各委員会委員など歴任。
著書に「陶淵明ノート」、「インターネット」など。