酒井隼男さんの「コラム(12)若者のモラル」(98・10・26)

〈若者のモラルに物申す〉
  「アジ化ナトリウム混入事件のあった三重大(津市)で、事件発生の夜、一部学生によるテレビ中継での『大はしゃぎ』が論議を呼んでいる。生物資源学部のインターネットのホームページでは『三重大の恥』と他の在校生やOBが嘆き、一般視聴者からも非難の手紙が届いた。22日には矢谷隆一学長名で『自覚と品位を持って』と呼び掛けるチラシが学生に配られた。」(10月22日付河北朝刊)

  「女子高生をモテルに連れ込んでみだらな行為をし…起訴された…岩手医大4年の男子学生の学内処分をめぐり、一部学生が小野繁学長に処分を軽減するよう求める上申書を出していたことが21日わかった。…小野学長は厳重な処分をすべきだと判断し、上申書をすぐに廃棄したという。」(同日付河北夕刊)

 何か薄ら寒くなるような記事が同じ日に載り、若者のモラルがいったいどうなっているのか大変気になった。もちろんこういった常識はずれの行為をするのは少数に過ぎないと思われるものの、新聞の投書欄で同様の指摘をするものもしばしば見られるところから、広範囲に若者の「モラル崩壊現象」が生じていると判断してもよいであろう。

 96年に神戸連続児童殺傷事件で少年Aが逮捕された須磨警察署前で、アナウンサーの後ろでVサインしたり、アナウンサーを押したり、笑いながら友人に携帯電話をしている若者の醜態が全国に流れた。おどけてみせる当人にとっては、「オレはテレビに出ているんだぞ」という単純に目立ちたい気持ちだったのだろう。だが事件が事件だっただけに、あまりにも心無さ過ぎる若者に非難が集中したものだ。そして同じ光景が三重大の事件でも見られる。どういうシチュエーションで、どういう行動をとるべきか、判断力が未熟ゆえに起こされる行動とみるべきであろう。

  少しは分別があってもよさそうな大学生の無節操な行動。だがこの「分別があってもよさそうな」という大人側の思いこみは、この際捨てた方がよいかも知れない。つまりあるシチュエーションで「していいこと、してはいけないこと」を学ぶ機会が、彼らには与えられていない場合が多いからだ。モラルを学ぶ場所である家庭での触れあいの機会が減少している反面、ゲームや塾で孤立して生活している時間が増えている。戸外で友だちとつるんで遊ぶ機会もなくなり、「ボス的」存在の子供も姿を消した。かといって学校では、そこまで教えてくれる時間もないし、教師も実務に追われ子供のモラル形成まで時間が回らない。地域社会の中でいたずらしたら注意してれる恐いおじさん、おばさんも見当たらなくなった。こんな状況だから「大学生になったのだから」「成人式を迎えたのだから」分別ある行動をするだろうといった昔ながらの考え、思いこみは通用しない。

 そして岩手医大の上申書の一件は、「はしゃぐ若者」とやや性格を異にしているが、「分別がない」という意味では同一線上で論じられるであろう。新聞記事によれば、同じ運動部に属する仲間が出したと報じられており、いわば「仲間を救う」という意味合いがあったのであろう。無実の者・不当に弾圧された者を救うという正義感からではない。医者の卵という本来高い倫理感と正義感が要求される者が破廉恥行為を行ったわけであるから、それを穏便にすましてほしいという行動がそういった基準に合致するのかどうか、「上申書」を出した学生たちに自省してみることを強く求めたい。

 「今の若者は、何を考えているのか分からない」という意味の言葉がエジプトの象形文字に刻まれているという。このように世代間のギャップは人類が誕生してからのものだったに違いない。戦後の日本だけを見ても「カミナリ族」「太陽族」「全共闘」「ヒッピー」「暴走族」「三無世代」といった一団が世間の大人の眉をひそめさせた。しかし、そう呼ばれた彼らはいつの間にか「普通の大人」に脱皮し今度は自分が「今の若い者は・・・」と批判する立場に変わる。ただ普通の大人になっていく時期が今の時代、遅れ気味になっているのは事実であろう。いつまでたっても親離れできない「アダルトチュルドレン」、結婚してもすぐ母親に電話してアドバイスを請う「マザコン夫」、そしてシチュエーションをわきまえずモラルを欠いた行動をとる若者。少子化社会が「幼稚化社会」に変質していくとすると、やっぱり「日本は異質な国」という風評がますます高まっていってしまう。

  酒井隼男=筆者のプロフィール 1958年岩手県生まれ.39歳。大学卒業後生協職員や家業の手伝いを経て、1996年から岩手の前沢町、衣川村を発行エリアとする「胆南新報」の記者。現在はフリーライター。
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