こちら編集室「書くと言うこと」(98・12・5)

  原稿用紙に向かって数行、何かを書き始めるが「これもだめ。あれもだめ」と書いては千切って原稿用紙をポイッと投げる。いつの間にか作家の後ろは紙くずの山となる。文章を書けない無名作家を揶揄(やゆ)する漫画で良く見る光景だ。秋田県南日々新聞を発行している自分も、「こちら編集室」に取りかかる時はそんな文章を書けない作家の心境に陥る。パソコンに向かっても何を書くべきか、心は白紙の状態でオロオロする。キーボードを叩いて、目の前の白い画面を文字で埋めてはいくがもう何度も書き直した。書き損じては投げ捨てられた原稿用紙の山を背にした思いだ。

  いつだったろうか。朝日新聞のコラム「天声人語」で、「大先輩たちがこの机に向かって毎日書きつづってきた『天声人語』。先輩から後輩へと受け継がれてきた『天声人語』の伝統を汚してはならないと机に向かっただけで息詰まるような苦しみにもがく。机の下の足掛けがボロボロに擦り減っている。何を書くべきか。擦り刻まれた足掛けを見て、先輩たちが味わったモノを書くための苦しみが伝わってくる」と書いてあったのをかすかだが記憶している。

  人に読まれる文章を書くということは難しい。普通の記事を書くのとは別な意味で苦しい。前回の「遣らずの雨」。思いつくまま昔の思い出に触れたが、読者はどう思われただろうか。書くべきではなかったのではないか。随分、悩み、不安に陥った。太宰治は「おれは親や兄弟を売り物にして小説を書き、それでメシを食っているから親類家族に恨まれる」と悩んだ。物書きはテーマに悩むと何を書き始めるのか苦しみもがき、時にはとんでもないものを世に出してしまう。困ったもんだと自戒した。自戒しながらも角館町の取材先で出会った男性読者から「読ませてもらいました。いいですねー。自分だけ味わうのはもったいなくて、コピーを事務の女の子に渡したら『素敵な文章を書く人ですね』と言ってましたよ」とおほめの言葉をいただいた。それにまた浮き上がってしまい、有頂天となる。ただ者でないほど単純なのだ。困ったもんだ。

  いま自分は図書館に来て、「こち編」に向かっている。記者室に工事が入ったためだ。図書館に入ってブラブラと本の背表紙を見て歩くのが好きだ。随分、小説や随筆にはお世話になった。そして今日、ブラブラと歩いて目に止まったのが作家・加賀乙彦の「キリスト教への道」である。加賀乙彦は精神科医で、現役の時に世に発表した「宣告」がことに有名だ。実際の死刑囚をモデルにその刑の執行までをわずか2日間の刑務所の時間に凝縮させて描いた衝撃的な作品だった。しかも前編・後編の2部作という大作だった。

  「キリスト教への道」はその加賀さんがクリスチャンになったのを記念して1988年に東京カテドラル聖マリア大聖堂で行った講演の内容を全録したものだ。小説「宣告」は敬虔なクリスチャンを主人公としたものだが、加賀さんは当時、ビクビクしながらその小説を書いていたという。なぜビクビクしていたのかと言うと、主人公がカトリック信者であることから、加賀さんもその心の真理をつかむためには聖書を読まなければ分からないと懸命にそちらの方も勉強した。ところが実際の信仰者ではなかったため、カトリック信者からは主人公の心のありようのミスをいつかは見破られるのではないかと不安を抱きながら書き進めたのだという。案の定、本物のクリスチャンで作家の遠藤周作さん(故人)からは「君はカトリックの無免許運転をやってやがる」と言われたとエピソードを披露している。

  つまり聖書を読んだり、「宣告」を書いたり、キリスト教についていろいろなこと書いたり、読んだりしているが洗礼を受けてないから「本物じゃない」と指摘されそうで、ビクビクしていたというから面白い。

  その加賀さんが洗礼を受けるのを嫌った理由もまた分かる。加賀さんは確か、戦時中に陸軍幼年学校に入学したはずだ。その加賀さんが言う。「私は洗礼を受けると不自由になると思っていた」と。つまり、加賀さんは軍隊という組織を経験し、組織というものに縛られるのが大嫌いになってしまった。洗礼を受けることもカトリックという組織に組み入れられてしまうのではないかという恐れがあったという。しかし、加賀さんは言う。「洗礼を受けた瞬間、身体全体がファーッと軽くなって、明るくなって、輝くような感じ、それがありました。そして私は組織に所属するのではなくて、組織から自由になった気がした」と。

  これを読んでいて「ああ。宗教。この不思議さ」と思った。しかし、組織に一度も組み込まれた経験のない自分はやはり、聖書には興味はあるもののその熱心な信者にはなれないだろう。なぜか縛られるような気がするからだ。間違っても聖者にはなれないからだ。間違いを起こしてばかりの人生だから。いつもフワフワしているからだ。美しい人を見るとボーッとしてしまうように。また拙いモノを書くために過ごした一日となってしまった。