「豆腐をバカにするような者は国を滅ぼす」と怒鳴り散らしたのは戊辰戦争で名を馳せた軍事指導者で、日本陸軍の創立者でもある大村益次郎だった(司馬遼太郎『花神』より)。豆腐がたまらなく好きで、晩酌に豆腐は欠かさなかったという。大村を囲んだ維新の志士たちが、毎日のように豆腐を食卓に出されるのにうんざりして「また豆腐ですかい」と毒づいたことに腹を立て、「国を滅ぼす」と論じ立てたらしい。とにかく豆腐好きだったと司馬遼太郎は書く。
そういう自分もまた豆腐が大好きである。特に冬は湯豆腐がいい。「今夜は何にする?」。献立に行き詰まった妻が頭を悩ますと決まって、「湯豆腐!」と即断する。豆腐があればビール、酒を手に黙々と飲めるのである。
何年か前の正月、京都を旅することになったときも、大阪の親類に注文したのは京都の湯豆腐を食べたいということだけであった。南禅寺近くの料亭に案内され、湯豆腐に舌鼓を打ち、ビールを飲みながらささやかな幸せを味わった。京都の豆腐はうまいと思った。その味をかみしめ南禅寺を歩き、「哲学の道」を歩き、先斗町を歩き、京都の正月を楽しんだ。華やかな和服姿のお嬢さんたちが行き来する平安神宮の参道を歩き、冬の京都の風情を楽しんだ。
大村益次郎が豆腐のことで目くじらをたてたのは、体の大きい異国の人間を相手にしなければならないこれからはとにかく栄養のバランスに気をつけ、体力をつけなければいけないという意味からだった。豆腐は畑から採れるタンパク質とも言われている。夕べも豆腐を相手の晩酌だった。ビール一本を空け、さて酒をと思って台所に立ったら酒が切れている。妻は入浴中であり、居間には四つ足の娘が温風ヒーターの風を受けて気持良さそうに眠っている。柴犬である。なら酒を買いに行って来ようと一升瓶を手にしたが、眠っているとはいえ油断のならない娘である。つまみ食いの名人と言えるほど、食べ物への執着心は強い。
テーブルの上には湯豆腐のナベの他に食べかけの焼き魚や漬物などもある。油断禁物と眠っている娘を抱え起こして、首輪に紐を付け、側の藤いすに結びつけた。いくら娘が体を伸ばしてもテーブルの上までは舌が届かない距離を取ったつもりである。そして一升瓶を手に近くの酒屋さんに駆けつけた。いそいそと酒を燗(かん)し、テーブルに着いた。ふと目にすると皿の上にあった焼き魚がきれいに消えている。娘は何事もなかったように温風ヒーターの前で静かに眠っている。
「おかしい?。いつから俺はこんなにきれいに魚を食べれるようになったのかな。皮まで食べるなんて・・」。酒をちょびちょび口に運びながら考えた。「自分で食べたんだ」と心底、思っていた。入浴中の妻の分の魚はそのまま残っているからである。
おかしいと思いながらも娘の紐を外した。その途端、娘はもっそりと立ち上がってテーブルの下のじゅうたんをクンクンと鼻をならしてなめ始める。「ああ。やられた!」。気付いた時はすでに遅しである。それにしてもどうやって?。紐とテーブルとの距離を測った。届かない。いや届いたとしてもテーブルの上までは口は伸びないはずだ。と思いながらも娘には得意の長い舌があった。それだ。その舌の妙技とゴムのように伸びるしなやかな体を活かして娘はテーブルの上の魚を口にしてしまったのだ。なのにこいつは知らんふりを決め込んでいる。憎いやつだ。 「アキ!」。思わず大声で叫んでしまった。
それにしても犬というものは食べ物となると貪欲なほど智恵を働かす。魚の側には漬物をいれた皿もある。魚に舌が届くくらいなら漬物にだって舌は届くはずだ。しかも、大好きな大根の漬物である。それまで平らげたとしたら盗み食いがばれるとでも思ったのだろうか。食いかけの魚だけに口を付け、ごまかそうとしたようだ。そう思うと無性におかしくなって一人で大声を出して笑ってしまった。風呂から上がってきた妻も事のてん末を聞いて、「アキは偉い!」と褒めては大笑いである。
娘は叱られないと知ったのかきょとんとした顔をして、ヒーターの風を受けながらこちらをにらみ、しきりに尾を振っている。二人きりの寂しい生活に何かと楽しい刺激を持ち込んだ娘。魚の一匹ぐらい食い逃げされても仕方があるまい。あきらめて豆腐をつまんだ。柔らかなとろけるような豆腐がのどを落ちていく。
豆腐をつまみながら、幕末の風雲に生きた男たちを想い浮かべた。大村益次郎。坂本龍馬。西郷隆盛。勝海舟。新撰組の近藤勇。越後の河井継之助。いろんな英雄を幕末は生んだ。その英雄たちに司馬遼太郎は小説という舞台を与え、現代によみがえらせた。もう記憶は薄れたが司馬遼太郎は坂本の口を借りてこう語らせた。「アメリカでは大統領というものがいて、娘っ子の生活までどうしたらいいか考えているとか。幕府を倒して、そんな国をつくりたいんだ」。坂本の理想とした国づくりは残念ながら志半ばに凶刃に倒れてしまった。政治が本来、目指すべきものはまさにその通りだったと思うのだが・・。