ある中国人留学生との思い出
「ミスター半導体」の異名をとる西澤潤一氏(現岩手県立大学長)の出身である電気通信研究所や、KS鋼を発明した本多光太郎を生み出した金属材料研究所など世界に通用する研究を行っている東北大学片平キャンパスの北端に、「北門食堂」という生協が運営する食堂がある。ここに昼食をとりに来た人は、何か国際会議にでも参加したような感覚を覚えるのに違いない。席に居並ぶ学生、院生の肌の色、言葉がじつにバラエティに富んでいる。中東系の顔立ちをした一団が、何やら大きな声でしゃべりながら食事し、日本人と思われた一団もよく言葉を聞い
てみると韓国語だったりする。時折サリーを着たインド系の女性も目にすることができるし、本を小脇に抱えて入ってくる黒人留学生も、日本の寒さがこたえるのかやけに厚着になっている。あるものは器用に箸を使い、箸に慣れないものはナイフとフォークで定食を食べている。そんな一コマが違和感なく北門食堂の食事風景にとけ込んでいる。
東北大学に在籍する留学生はおよそ800人、うち中国から学びに来ている留学生が300人、続いて韓国150人、台湾33人などとなっている。これを見ても急速に経済が発展している中国の数字が際立っている。思えば、聖徳太子が国を治めていた昔、遣随使として小野妹子が派遣された時代から1000年以上に渡って日本は中国からさまざまなものを学んできた。しかし20世紀に入って科学技術の進化が国の命運を分ける時代になると、日本はいち早く欧米から科学技術を取り入れて近代化し、逆に立ち遅れた中国は列強の進出を受け半ば植民地化される苦汁を味わう。その時仙台の医学専門学校(今の東北大学医学部)に医学を志して学んでいたある中国人留学生が、祖国の独立を唱えて文学の道を歩み始めた。それが魯迅である。
折から国賓として来日していた江沢民国家主席が、11月28,29日と仙台を訪れた。その文豪魯迅の足跡を尋ね、中国人留学生と懇談するためだ。街中いたるところ警備にあたる機動隊員が配置され緊張感が漂う中で、パレード予定地のメインストリートは日の丸と五星紅旗が何キロにも渡って貼り出され、歓迎ムードはある程度準備されたかのようにみえた。ここで私は1989年の、ある中国人留学生にまつわるエピソードを記憶の書庫から引っ張り出すことになる。
その年6月、中国の民主化を求める学生、市民が天安門広場に集まり気勢を上げていた。当時総書記だった趙紫陽は学生に和解を訴えるため、自ら天安門に赴き事態は解決に向かうかと思われた。しかし政府強硬派が実権を掌握、中国人民軍の戦車隊を突入させ、多数の人々
が流血する大惨事になった。いわゆる「天安門事件」である。その事件が起きて間もなく、たまたま顔見知りだった留学生S君が北門食堂でさびしそうな顔をしながら食事をしていたのに出会った。もちろん祖国で起きた事件がショックだったのは疑いない。
「大変な事件だったね。友達は大丈夫だったの」と慰めの言葉をかけるのが精一杯だった。彼は周囲に聞こえないような低い声で、中国人留学生の間で救援活動が行われていることを私に知らせ、カンパを訴えた。その頃救援活動を監視する中国からの要員が日本に派遣されているという情報があったから、周囲をはばかったのである。断ろうはずもなく、彼の祖国でいまだに踏みとどまっている友人たちへの連帯の気持ちとしてささやかながらポケットマネーを拠出した。
事件のあと、中国の政治的民主化は挫折し、少なくない民主化指導者は亡命を余儀なくされた。その後、国外からの救援活動も、送金口座が当局によって差し止められるという圧力もありこれまた挫折を余儀なくされる。彼は鉱物学を専攻し、将来は学んだ技術を祖国の発展のために生かすつもりでいた。しかし今回の事件が転換点になったのだろうか、横浜にある日本企業に就職を決め、翌年、仙台を離れた。
いまだに天安門事件の正確な犠牲者数は報告されていないし、全貌も明らかにされていない。また中国当局の公式見解は「反革命暴乱の鎮圧」のままである。すなわちあの事件はいまだ1989年6月のままになっている。1980年に韓国光州で起きたいわゆる光州事件は、1996年に当時の指導者だった全斗煥(チョンドファン)と廬泰愚(ノテウ)両元大統領に死刑判決が下って(のち恩赦)、歴史的評価が下った。
中国が、日本の侵略に対する反省を迫ることは正当であると認めよう。だが一方で私は「天安門事件」の歴史的再評価を迫りたい。そして多くの若者を失望の淵に追いやったことに反省を求めたい。私はあの時見たS君の悲しげな顔を思うとき、どうしてもこの中国最高指導者の来日を心から歓迎する気になれなかった。
酒井隼男=筆者のプロフィール 1958年岩手県生まれ.39歳。大学卒業後生協職員や家業の手伝いを経て、1996年から岩手の前沢町、衣川村を発行エリアとする「胆南新報」の記者。現在はフリーライター。
ご意見、感想は mailto:Akihiro.Sakai@ma6.seikyou.ne.jp
まで