夕焼けが美しい季節になってきた。仕事を終え、妻を職場に迎えに行って家に帰る途中、雄物川の堤防を隔てたはるか向こうの西山を眺めると、真っ赤に燃えた大きな太陽がゆっくりと沈もうとしているのをこのごろ良く見かける。「明日も天気が良さそうね」。妻は夕日を見ては口癖のように言う。「そうだ。明日も晴れそうだ」。こちらも相槌を打ち、真紅の太陽を眺める。夕焼けの空は悲しいほど美しく、詩情的な光景だ。カラスが青紫に染まった空に群れをつくって舞い、甲高い寂しい声を上げて騒ぐ。
夕焼けを見ながら帰る日は幸せな気分になる。夕焼けを見ながら帰る日はまた寂しさも募る。そして夕焼けを見ながら帰る日は幼いころを思い出させ、郷愁も高まる。夕焼けは父親の背中の温かさ、母の手の温もり、食卓に並んだキャベツ炒めやサンマ、うどん、温かいご飯の味を思い出させる。そして一人で小学校からとぼとぼと歩いて帰った日々を思い出させる。
いつも一人だった。どうしてだったろう。特別に無口な子ではなかったはずだが、仲の良い友ができなかった。一人で田んぼしかない道をとぼとぼと帰った。空を見上げ、白い雲を友に帰った。道沿いの雑草を口にくわえ、その甘い香りを楽しみながら帰った。砂利道だった。白い埃をわざと蹴立てて帰った。靴がほこりで真っ白になるのさえ楽しかった。ゴム製で単靴と呼ばれた代物だった。空に浮かんでいた大きなコッペパンのような形をした雲はいつの間にか千切れ、魚のような形になったり、お皿のようになったり、踏み台のような形になったりしていた。
一人でも孤独だとか寂しいだとか、そんな生意気なことは考えなかった。家に帰るとマンガ雑誌があり、その中に自分の描いたスターがいっぱい待っていたからだ。「鉄腕アトム」、「赤胴鈴之助」やウーン、思い出そうとしても今は浮かばない。とにかく鉄腕アトムからは優しさと強さ、そして人間が人間を差別することのいけなさを教えられた。土間から板の間に上がり、母からほこりだらけとなった靴の汚れを注意されながらも、まっしぐらに奥の座敷に飛び込んではマンガ雑誌を手にした。そこには学校の束縛から解放された自由があり、夢があり、友があった。マンガを読みふけり、夕食を待った。
母の作る料理を「これうまい」と褒めることはタブーだった。すでに初老に入ろうとしていた母は、そのころ洋風の料理なんてほとんど知らなかった。それでもどこで覚えてきたのかキャベツを油で炒めた料理を食卓に出したことがある。初めてだった。醤油をかけてつまんだ。食べたことのなかった野菜炒めのおいしさに思わず「うまい!」と声を出して喜んだら、以来、毎晩、毎晩、その料理が続いたからだ。母は子どもの喜ぶ顔を見たかったのだろう。毎日でも、毎晩でも。
カレーライスもそうだった。初めて口にした時、やはり「うまい」と叫んでしまった。以来、毎晩、毎晩とカレーが続いた。母とはそうしたものだろう。子どもに喜んでもらいたい。子どもの喜ぶ姿を見ていたい。悲しいほど子どもを思うものである。
父というものもそうであろう。背中に自分を背負い、夕日を見に近くの川へ行った日が未だに忘れられない。おもはゆい思いで背中におぶられ、川へ向かった。幸せであり、恥ずかしくもあったが、父の背中の温もりは今も覚えている。家庭とは温かいものだった。貧しいが喜びと幸せがあった。
職場からの帰り、夕日を眺めるといつも幼いころの日々をなぜか思い出す。とぼとぼと一人であるいた学校からの帰り道。後ろから自転車で追い抜いていった担任の女先生の「正雄君はいつも一人で帰るのね」と何気なく注意された言葉が未だに耳から離れない。あの当時、先生というものは子どもにとっては最高権力者にしか見えなかった。先生とは優しいものではなく怖くて、偉大で、別世界に生きているような存在だった。それだけに「いつも一人で帰るのね」というさりげない注意は何かとてつもない悪いことをしてしまったようで心はふさいだ。
「もう学校へは行けない」。そう思った。先生からの注意が足をすくませてしまった。翌朝、母から「学校へ遅れるよ」と何度、叫ばれても布団から出る気持ちにはなれなかった。いつも一人で帰る自分は教室の仲間からも疎んじられ、担任の先生からも見捨てられているんだとも思った。学校は自分が行く世界ではないとさえ思った。何度、起こされても布団からは出れなかった。心配した母は体温計を持ち込んで、体温を測った。「何でもないねー」。首を傾げては父に様子を報告していた。「マア。どうした?」。父も不安そうな顔で畳の部屋をのぞいた。寝返りをうって、父の視線から逃れた。額に手を添える父の大きな手が感じられた。「熱はないども。休ませてみればなんとだ」。父は母にそう言っては自転車に乗って仕事に出かけた。
いつの間にかまた眠ってしまった。しかし、目覚めると「正雄君はいつも一人で帰るのね」という先生の言葉がキリのように胸を突き刺した。「学校なんて。学校なんて」。そうつぶやいては、泣いた。何日、学校を休んだのかは記憶にない。ただ、学校とは恐怖の塊のようにさえ思えた。ようやく学校へ出かけてみたら、漢字の筆順の勉強が終わっていて、とうとうその基本が未だに身に付いてない。新聞記者になって市役所や警察などでメモを取っている時、「おい。筆順がおかしいぜ」と何度か笑われた。小さな時の休校が、その後の人生にしこりのような後遺症を残してしまった。
今も思う。孤独で友だちを作れなかった子だとしても、先生はやはり“投げる”ような言葉の注意ではなく、なぜもっと別な言葉で話しかけてくれなかったろうかと。自転車で追い抜き、その瞬間に「正雄君はいつも一人で帰るのね」。刺のような言葉がその背中から流れた。そんな注意をするくらいなら、なぜ自転車から降りて一緒に歩き、友だちがつくれないのはなぜか、いやそんなことより何も喋らなくてもいいから「一緒に歩いていい」とでも言ってくれなかったろうか。母のように。あの当時の子どもたちは先生という存在は別世界であり、巨大な存在でもあっただけに、その垣根を取り払い、もっと身近な人であってもらいたかった。