こちら編集室「褒めると言うこと」(4月23日)

  手が器用で裁縫が得意だった母は良く丹前や着物を縫っていた。母が作る丹前は綿が崩れないと評判で、晩年は近所の洋品店が冬に東京やその周辺に出稼ぎに行く人たちが持っていく丹前の仕立の注文を受けていた。父も川魚捕り用の網を自分で縫っていたからどちらかと言うと器用な方だったろう。なのに自分はどちらにも似ることがなく手先はまったく不器用だ。未だにひもさえろくに結べない。ご飯を食べる箸(はし)さえ、正しい握り方ができない。金づちを握ったら打つのは釘ではなく手を打ってしまう。

  いつだったろうか。そんな自分に母が「マァはどうしたんだろうね。親に似たらもっと手先が器用になるはずなのに」とぼやいたことがある。手先の不器用さを心配したせいか、子どものころ父も母もせめて文字さえりっぱに書けるようになってもらいたいと習字塾へ行くよう、しきりに勧めた。文字下手は今だって自慢したいほどだ。恥ずかしいほどだから。それが分かっていたからどんなに勧められても塾へは行かなかった。

  筆を持つ手がないくらいだから、絵筆だって同じで、絵を描いてもろくなものにならない。ウサギを描いたつもりが、ネコなのかブタなのか判然としないものになってしまう。だから学校での図工の時間も苦手だった。なのに中学に入ってから乱暴な口調で生徒たち皆に恐れられていた先生から絵の事で妙に褒められたことがある。この先生、生徒に回答を求めては、それが間違っていると決まって「無礼者!。せっしゃはそのような事を教えた覚えはない。そこへなおれ!」とサムライ気取りで生徒を叱った。

  確か目の前に置かれたナスビを水彩画で描け−と言うのが課題だったと思う。白い画用紙に向かって自分はとにかくナスの形を正確に描こうと筆を運んだ。だが、悲しいことにどんなに正確に描こうとしてもナスビの形とは次第にかけ離れた姿となってキュウリのようになってしまった。絵の具を塗ってナス色を出そうとしたが、これもうまくいかない。どんな色になったのか今は記憶にないが、とにかく他の生徒とは違った色のナスが画用紙の中に描かれてしまった。

  例の無礼物先生が寄ってきた。ジーッと自分の絵を見つめていた先生は突然、自分の絵を取り上げ、「皆。見てみろ。絵とはこのように自分の眼で見て捉えた姿を絵の中に主張してこそ本物になるんだ」と大声で喋り始めた。「マサオはナスをそのまま描いたのではなく、ナスのゆがみや微妙な線を自分ではこう判断したとこの絵の中で強調した。偉いもんだ」。自分が考えているのとはまるで違う判断を下され、あわてたが無礼物先生は大まじめで褒めた。褒められるということは悪い気持ちではない。褒められたおかげで絵を観る眼がその場で育まれた。なるほどピカソやシャガールと言った有名な画家たちが描くあの不思議な光景は、画家の心がその絵の中に強調されて生まれたのかと。

  手の不器用さがとんでもない方向で褒められることになった。だが、いくら褒められても、自分の絵の拙さは自分が一番、良く知っている。お調子者ならその先生のお褒め言葉に乗って、絵描きを目指したろうが、ネコを描いたつもりがネズミになってしまうようでは、いくらなんでも画家への道は無理だ。

  しかし、乱暴な口調の先生から褒められたと言うことはある意味で大きな自信も生まれた。絵の方ではなく、勉強すればどうにかなるんだという自信だ。以来、嫌いだった無礼者先生が教える理科の授業も好きになり、熱心に耳を傾けた。その先生。宇宙についてこうも語った。「我々、人間はだな。人工衛星を打ち上げたと言ったって、この宇宙の世界ではこんなに近い月にさえ足を踏み入れたことがない。自分の家の便所にさえ行けないのと同じことだ」と宇宙の広さをトイレに例えた。教室は笑いの渦となり、それでいて宇宙の巨大さを実感した。

  自分は良く褒め上手だと人に言われる。そう言われるようになったのは随分、自分も成長してからだが、とにかく人は褒めることにしている。ある日、学校へ行けないいわゆる不登校の子どもたちが通っている大曲市の「さわやか教室(現在はフレッシュ広場)」に取材に出かけた。子どもたちに刺激を与えてはいけないと教室の様子を写す前にしばらく黙って勉強を眺めていたが、中学生の男の子が一人、チラリチラリとこちらへとても冷たい視線を投げかけるのが目に入った。せっせとノートに向かっているのだが、肩に下げたカメラを気にしているのか、数分もするとまた警戒心でこちらをチラリとにらむ。

  さりげなく寄ってそのノートを覗いたらその子は英単語を懸命にノートに写していた。とてもきれいな文字が目に付いた。「文字がきれいだねー。とてもきれいだ。こんなにきれいな文字を書けるなんて」とこれはお世辞ではなく心底、そう思って褒めた。生徒はかすかな笑顔を浮かべ、小さな声で「ありがとう」と言ってくれた。「英語が好きなんだ」。「ウン」。「英語は大切だよ。外国の人と自由に話せるということは楽しいことだからね」。「ウン」。「文字がきれいだし、高校に入ったらきっと女の子にもてるかもしれないナ」。生徒はまたかすかな笑顔を見せた。文字と高校とは関係ないが、その生徒の表情から、中学校へは行けないが何とか「高校」を目指しているという夢が読み取れた。わずかな時間だったが生徒と心の交流を通じることができて嬉しかった。

  教室を出てから先生が驚いたように「あの子、良く喋ったね。見知らぬ人にはほとんど心を閉ざしているのに」と感心しながら言った。「褒めたんですよ。とても文字がきれいだったから」とこちらは答えた。以前にもこの「こちら編集室」で書いたが酒を飲むに行っても自分は相手の女性を良く褒める。どこか良い所を見つけては、その美点を褒める。褒めることによってムードも和む。

  しかし、辛いときもある。アマチュアの絵画展や写真展でだ。絵が好きで、プロの画家たちの絵を観てしまったせいか、また写真も仕事の延長で勉強をしたせいか眼は一応、高いと思っている。特に油絵の評価は「自分だったらこの絵を自分の家のどこへ飾ろうか」とそんな気持ちで観る。高いお金を出して買う絵だ。だからアマチュア画家の個展でもそんな眼で観てしまうため、褒めたくてもどこをどう褒めたらいいのか言葉に困ってしまう。「どうでしょうか」と個展を開いた作家が側に寄ってきたらもう閉口だ。「ああ。すばらしいですね」。どこがすばらしいのかサッパリ分からないのだが、そう言って素早く逃げる。ともかく、「浮気は現場で働く検察官の活力源だ」とのたもうたどこかの検事さんではないが、人は褒められることによって活力が生まれる。そう思っている。