風が強い。ヒューヒューと風が街角を巻いている。その風に逆らって自転車を踏んでみたが、風圧に追い返され、たちまちのうちに息が切れる。市役所と駅前までのわずか2キロの距離なのに戻ってみたら動悸が激しく、足の付け根が重苦しい。こんなにも体力が弱っているのか。我が身ながら悲しいほどだ。
一方通行の多い大曲市内。取材の足には自転車が便利だと昨年夏に自転車を購入した。冬から春にかけて自転車は購入先の自転車屋に預かっていたが、温かくなったのを待って、再び自転車を外に出した。そして市役所から会社へ、あるいは近くの取材先へは自転車で走っている。どこへでも所構わず止められる自転車は便利なものだ。それに何よりも面白いのは車とは違って街の変化が手に取るように分かる。新しい店の発見もあれば、車では入ったこともない小路を見つけて冒険気分で走ったりすることもある。人と人との出会いもある。木々の緑の深まりを見ながら、季節の移ろいの早さに気付くこともある。
「新聞社に入ってみないか」。もう30年も前だ。高校を卒業して秋田市内の会社に勤務したのは良かったが、仕事と職場の人間関係になじめず悩んだ。悩みながらも我慢し続けたが、2年目の春になって体に異常を感じた。疲れと自炊による栄養不足もたまっていたらしい。外を歩いているうちにブルブルッと異常な寒けを感じた。立っていられないほどの寒けに思わず地べたに座り込んだ。鉄骨の組立現場でだった。地べたに座り込んでしまった自分の姿を見つけた職場の先輩は鉄骨を組んだ上から「何をやってんだ。バカヤロウ!」と怒鳴ったが、どうにもならなかった。異常なほどの寒さに顔はどんどんどす黒く変わっていったらしい。意識朦朧とした中で農家の座敷に担ぎ込まれて布団に寝かされたまでは覚えている。そして気付いたら秋田市内の病院のベッドの上だった。鼻から酸素を送り込むビニール管が付けられていた。
それから1週間ほど、入院し、背骨から脊髄液を採られるなどの検査を受けた。医師がベッドの上で激しい痙攣を繰り返す自分の姿を見つめては首を傾げ、実家から駆けつけた両親に「精神的な面と栄養衰弱などが重なっての胃けいれんかもしれないね」と診察結果を報告しているのをおぼろげな意識で耳にした。ベッドの上では痙攣が落ち着くとただひたすら泣いた。職場で受けた今で言う“いじめ”から解放された安心感と悔しさでただひたすら泣いた。
入社した鉄骨会社であの当時、高卒での採用は自分だけだった。「学歴よりも“腕”がモノを言う世界なんだ」とただ頭ごなしに怒鳴られた。親子ほど離れた年代だったのにただ、怒鳴るだけだった。その上、与えられた仕事は大型のハンマーを握って、朝から晩まで鋳物を割る単純な仕事ばかりだった。秋田市内の中学を卒業して同時に入社した子たちは、親方と称する人の側で鉄骨の組立や溶接作業など、それこそ専門職を身につけようと懸命に指導を受けていた。
その単純な労働が半年続いたと思ったら、今度は旋盤だった。数ミリ単位で金属を削る作業。不器用な自分にはこれがとても苦痛だった。教える先輩たちから返ってくる言葉はただ、「バカヤロウ!」の声の嵐だった。そして「お前、高校を出たんだろう。何をやってんだ」。親方と称する工場長が口にするのはそうした“罵詈雑言”ばかりだった。あるいは無視だった。昼時になってもだれも声をかけてはくれなかった。一人で暗い鉄骨の作業場でパンを黙々と口にかき込んで、始業開始のベルを待った。「なぜ、こんな会社に入ったんだろう」。反省と後悔の毎日だった。
ベッドに寝ていても職場での体験を思い出すと額に汗が浮かび、激しい震えが襲ってきた。腹部を中心に体は弓のようにしなり痙攣した。看護婦が駆けつけ、注射を打つとその痙攣も治まった。その病状が治まるのを待って、両親の求めで横手市の病院に転院した。環境が変わったせいか、再び激しい痙攣が体を襲った。ベッドの上で激しい息づかいでブルブルと震えている自分の姿を見た同じ病室の患者さんたちは「こんな若さなのにこれでは持たないな」とそれこそ死の病に侵されているものと心底、心配したらしい。高校を卒業して初めて体験した人間の“嵐”。その嵐につまずいて半年の病院生活となってしまった。
しかし、ブラブラしているわけには行かない。病院での生活は天国のような快適さだったが、何とか社会復帰をしなければ貧しい両親を困らせることになる。そうして悩んでいる時に大曲市内の新聞社で社員を募集しているとの話が舞い込んだ。面接を受けた。経営者は「新聞の方より、印刷の方をやってもらえないか」と言い出した。印刷と聞いて、すぐ断った。入院中に決心したのは、今度、仕事を選ぶなら絶対に屋根の下での仕事には就かないと言うことだった。青空を見て、仕事をしたい。あの陰湿な鉄骨の屋根の下で仕事をするのは真っ平だ。そう決心していた。それなら例え、土工仕事だっていいと思った。入社を断って帰ろうとしたら「ちょっと待ってくれないか」と経営者は言い出した。「なら、当分、新聞記者の見習いをしてみないか」。
編集長が別室から呼び出され、あれこれと尋ねた。「作文は得意ですか」。「さあ、自信はありませんが、国語は好きな方でした」。ただそれだけで「なら、明日から新聞の方を手伝ってもらいます」と簡単に入社が決まった。よほど人材に困っていたらしい。なるほど翌日から通勤を始めて分かったのだが、一人の記者が入院していて人手不足に陥っていたのだ。それから右も左も分からないまま、とにかく市役所や警察へと引きづり回され、「今度、うちの新聞の記者見習いとして働いてもらうことになった伊藤君です」と紹介された。
そして交通事故と事件記事の書き方を徹底して仕込まれ、「一般記事の書き方は新聞を良く読んで、自分で勉強しなさい」と自習を言い渡された。角館町、協和町に通信員が居て、時たま顔を出しては「オイ。ガンバレよ」と励まされた。鉄工所で味わった人間関係とは大違いの世界だった。記者室では秋田魁新報社、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、産経新聞社、それに河北新報社とNHKの記者がいつもたむろして、ジャラジャラとマージャンに打ち興じていた。鉄工所で味わったいじめと肉体労働とはまるで違う世界に毎日が嬉しい戸惑いとなった。
この人たちでさえ、当時の取材の足は自転車だったりバイクだったりで、事件取材の時だけはタクシーの使用だった。滅多に事件なんて起きるわけではない。時たま起きるのは親子心中と言った悲劇だった。なぜあのころはそうした自殺事件が多かったのだろう。今もそうだが、自分の新聞は日刊紙ではなかった。だから事件が起きても「タクシーを使ってまで取材に走る必要はない」と会社に言われ、随分、悔しい思いをした。仕方なく貧しい給料を割いて自腹でタクシーを呼んで現場を踏んだ。時には警察のジープに同乗を頼んで現場に走った。とにかく事件現場を目にしようと思った。日刊紙の記者から「一人前の記者になるために何より大事なのは現場を踏むということだ」と記者室では良く言い聞かされていたからだ。
小さな新聞社では記者養成の余裕もないため、もっぱら編集長は「日刊紙の記者と付き合い、取材の仕方、原稿の書き方を“盗み習え”」と下駄を預けた形だった。会社に顔を出した後は警察へ回り、市役所の記者室へと足を運んだ。マージャンを見ながら、彼らの無駄口に耳を傾け、「伊藤君。商工観光課で今、面白い企画を練ってるよ。行ってごらん」。そんな指導を受けては庁内の各課に顔を出し、取材のネタを手に入れた。そのうちマージャンに誘われ、遊びも覚えた。そうなると記者たちも一人前の仲間として扱った。
いつの間にか呼び名も「伊藤君から伊藤チャン」となった。記者室には日刊紙の記者以外にも一人で新聞を発行している人も顔を出しては、遊びに加わった。マージャンをしながら安くても給料をもらえるということに戸惑った。しかし、文章表現の勉強にはなった。「○○ちゃん。あのスキー場の『ゲレンデはお花畑のような華やかさ』。あれは良かったね」。時には相手を牽制し、時には記事を褒める。競争という中にもお互い人間関係を大事にしようとする大人社会で自分は温かく揉まれた。
やがて記者たちにも車が普及し出し、取材はその車に乗っての共同取材となった。日刊紙の記者たちは数年して入れ代わったが、顔ぶれは代わっても記者仲間で一番若かった自分はいつも可愛がられた。中には「伊藤ちゃん。地方しか回れないが、うちの新聞に紹介しようか。君なら本社に推薦するよ」と言ってくれた人もいた。有り難かった。夢心地で自転車を踏んだ。だが、以前にも書いたように両親はその報告を喜ばず、悲しい表情を浮かべるだけだった。既に70歳を過ぎていただけに老夫婦だけの暮らしに不安を感じていたろう。仕方なかった。
こうして二十歳の時に入社して、小さな新聞社の記者なった身は大海を知らぬまま、50代を迎えた。風の抵抗を受けながら、街を走った。体力の衰えを感じながら。自転車は遠い昔を思い出させた。自転車の季節となった。