5月29日の土曜日。ロスのベテランズ・パーク(戦争で亡くなった戦士の暮園)にボーイスカウト・ガールスカウトなどの青少年が2千人。大人が2万人集って、戦没者を慰霊するセレモニーが行われた。8歳になる娘のジャネットのスカウト隊も出席したが、ジャネットはおじいちゃんの墓参りで欠席した。この日は、4年前ソウルからロスに移住しようとロスに到着して5日後、肺ガンで亡くなった義父の命日だったからだ。
義父は、当時の南北朝鮮戦争前、南に比べて産業の発展がめざましかった北朝鮮の首都ピョンヤンで、ホテル業界の組合の会長やすずの鉱山を所有し幅広く事業をしていた。一般の男性よりは背が高く、スポーツマンで男前、そして洋風好み義父は、女性にもてた。「ワタシャ苦労したよ」と義母が教えてくれた。4人の子どもと家族で旅行中に戦争が勃発。着の身着のままで、家族で南へと逃げた。その時7歳だった主人は、今でもみんなで渡った川の水の冷たさを覚えていると言う。それから、50年。家族が北にもどる事はなかった。
家族でプサンまで南下。河原にたくさんのみかんの箱でつくった臨時の住居。2歳半になる主人の妹は寒さのため病気になり、そこで死んだ。親戚もプサンにいたが、みな貧しく、誰も子連れの家族に同居をさせてくれる余裕はなかった。「毛布もなかったから、お父さんが上着を代わりにかけてくれた」と義妹は言った。あのみかん箱から、裸一貫。子どものために働きに働いた義父は、アメリカとの貿易事業が成功。亡くした娘と似た末娘が6年後に生まれ、子ども4人。ソウルの大学を出し、4人ともアメリカの大学院に入れた。あの貧しい当時の韓国経済からして、家族の1人でも海外に留学させるのは大変なのに、私生活を切りつめ切りつめ、4人とも大学院を卒業させアメリカ市民にさせたのである。
長男をアメリカに送ってより33年間。それぞれ帰省する子どもの顔を見ることはあっても、自分の子どもを4人そろえて目の前にする事がなかった義父母の願いが叶った。94年の10月、ロスの次男(私の主人)が新築した家を一目みたいと、85歳と80歳の高齢をおして、ロスを1ヶ月訪問。その時4人の子どもと、孫が全員アメリカ全土から集まったのだ。義父の顔が喜びで輝いた。本当に心底嬉しそうだった。
子ども4人全員アメリカに送ってから、ソウルで夫婦2人だけの生活を何十年も送り、韓国に眠るつもりだった義父に心境の変化が起きた。85年間も生きた韓国を離れ、アメリカに移住するというのだ。きっかけは、家族一同会して子どもと孫に囲まれて幸せを満喫した事と、私が数年来、義父母に送り続けた手紙だった。2人とも日本語は全部読めるし、書けるし、話せる。「同居して孫の顔を見ながら、楽しく余生を暮らしてほしい」という内容のものである。もちろん文化の違う、ましてや私の亡き祖父母の年の義父母と同居するのは、先の苦労がはっきり、どっしり見えすぎる。
しかし誰かが言い出し始めないと、まにあわない。たった2人だけでさみしく暮らし、益々年老いて死んでゆくなんてかわいそうだ。その思いが自分の心の底から吹き出してどうしようもなかったのだ。義父のアメリカ移住は本気だった。95年3月には住居に買い手がついた。そして、一切合切準備も整った4月上旬。義父が入院検査。肺ガンだったのである。それも末期だった。家はもう売ってない。2人小さい子どもをかかえた次男の嫁の負担を考えると、ロス行きか入院のまま最後を迎えるかつらい決断だと主人が言ってくれた。
「お義父さんをロスに連れてきて。せっかくここまで準備して楽しみにしてきたんだから」、そう嫁が言っているからと主人に説得させた。こちらはもう苦労は財産と覚悟を決めていた。金浦空港の要職にある主人の知り合いの手配で VIP室に入り、特別ルートで飛行機に搭乗。95年5月24日にロス空港到着。体の衰弱が激しかったが、義父の意識はしっかりしていた。空港からまっすぐ自宅に向かった。看護ができるように、必要な機具などがそろえてある部屋に、義父をおんぶして特別ベットに寝かせた。アメリカではガン患者もかなり末期になるまでほとんど自宅看護である。
義父を一目とまた全米から集まった家族たちが一緒に食事をとった。気力でベットから出て、みんなとテーブルについて食事したいという義父は強かった。朝、昼、夜と食べてくれた。合計5日間。家族たちと過ごした。そして29日、メモリアルデーの当日に義父は、家族に見守られ85歳の生涯を閉じた。アメリカをこよなく愛した義父が逝った日は、街中に星条旗がはためいていた。亡くなる前夜28日に、「嫁にありがとうと伝えてくれ」と義父が主人に頼んだ事を、私は後で聞かされ大泣きした。「これでよかったんだ。ロスに来れて本当に良かった」と家族も言ってくれた。
義父の葬儀には、金曜日の平日にもかかわらず150人もの友人・知人がかけつけてくれた。誰も義父の顔さえ知らない人たちだ。主人の会社の副社長がサンフランシスコから、秘書やら、私の近隣の人たちなど国連なみの人種参列者。この人たちの友情を、私は一生忘れない。終生忘れない。
「語ることすらできない悲しみがある。ひとこと話し始めるや、慟哭する以外にないゆえに、胸の奥に埋め、埋めて、歯を食いしばって、沈黙してきた。沈黙のあまり悲しみは石になった。」、今日、日本から届いた新聞の、最近韓国を訪問された方の紀行文の一文である。度重なる戦争の地獄を生き抜いてきた、不屈の国民性をうたっていた。「北に残してきた母や甥たちの夢を見る。死ぬ前に何としても北に行きたい」と義父は、南北統一を切望していた。
自分のすぐ身の回りのでき事のみでなく、広く世界に目を向けたい。人の世のたくさんの苦しみを知り、同苦できる心豊かな自分に成長してゆきたいものだ。義父の葬儀の時、義父のそれまでの人生に精一杯の拍手を送ってくれたアメリカ人たち。たくさんの温かい励ましをくれた中国や台湾の友。一人ひとりとの心の交流が、世の中を明るく照らしてゆくのだ。そう決めて颯爽と人の輪を広げている人が着実に増えている。
「おじいちゃんが、空から私の事みつめてくれてるよ。私、感じるの。」娘が4年前、葬儀が終わった後、車の中でつぶやいた。最後を迎え救急車で自宅から担架で病院に運ばれようとする義父に、当時5歳になろうとしていたジャネットをとっさに抱っこして義父に見せた。幼い孫娘を、義父は深い眼差しでじーっと見つめた。そのおじいちゃんの目を、ジャネットは覚えてると言う。思いにはものすごい力がある。
アメリカは29日からメモリアルデーで3連休。家の玄関の前に今年も星条旗がたなびいている。義父のあの33年ぶりにみんなで集まった時の喜びに輝いた顔がはっきり見える。義母は元気に、毎日教会の英会話教室通い。今年84歳になろうとしているが、英語の習得に余念がない。りっぱな義父母をもてたこと、自分の人生に感謝したい。