こちら編集室「正岡子規」(6月4日)

  明治の俳人・正岡子規に触れてみたい−。そう思って六郷町の県道花巻−大曲線の黒森山峠に車を走らせた。きっかけは県南日々の「読者の広場」で六郷町出身の短大生・優鶴香さんとのやり取りだった。正岡子規の句碑が六郷町の「町民の森」にあることは知っていたが、子規がどんなルートで六郷の地を踏んだのか、なぜあの黒森山峠を超えることになったのか。何も知識もないまま知ったかぶりで書いてしまったような後悔が残ったからだ。

  優鶴香さんの「読者の広場」への書き込みはこうだった。『「町民の森」に正岡子規の句碑があったなんて知りませんでした。今度行ったら見てみます。でも、あの子規がそこに立ったのかと思うと・・・何とも言えません。すごいことだなと思うばかりです』。
  子規のことを知りたい。そう思った。

  訪ねた町民の森は大曲市からちょうど20キロの距離にある。県道「花巻−大曲線」とはなっているが、舗装されているのは六郷町側だけで句碑のある展望台から先は未開通だ。ともかく正岡子規の句碑を見たい。上りの道は結構、きつい。車のエンジンはうなり声をあげる。標高約800メートルと地図にはある。つづら折りの道を登り切った所に句碑はあり、その上に仙北郡を一望に見渡せる「展望台」があった。

  「蜻蛉(とんぼう)を相手にのぼる峠かな  子規」

  子規は明治26年(1893年)7月から1カ月がかりで芭蕉の「奥の細道」を慕って東北へと旅立った。酒田から象潟に入り、さらに秋田へ向かい、秋田から大曲、六郷町をたどり、岩手県湯田へと向かう。子規がなぜ、この険しい峠道を超えて岩手県に入ろうとしたのか。子規が新聞「日本」に連載した「はてしらずの記」や「くだもの」によると、「六郷を通り過ぎた時に、道の左傍に平和街道へ出る近道が出来たといふ事が棒杭に書いてあった。近道が出来たならば横手へ廻る必要もないから、此の近道を行って見ようと思ふて、左へ這入って行ったところが、昔からの街道で無いのだから昼飯を食ふ處(ところ)も無いのには閉口した」(くだもの)とあるように今で言う道案内の看板にだまされてしまったのが原因のようだ。

  ともあれ子規が間違って峠道を超えたことから「蜻蛉を相手にのぼる峠かな」の俳句は生まれたから六郷町にとっては不幸中の幸いということになるだろう。同町では「町制100周年」を記念し、子規の90回目の命日に当たる平成3年(1991年)9月19日にその句碑を建立させた。  さて、その子規である。秋田から大曲までは人力車に乗っての旅となり、大曲に宿泊した。「はてしらずの記」では

「(8月)15日秋田を発す。御所野のほとり縄手(畷=なわてと読み、あぜ道)松高うして満地の清陰涼風洗うが如し。鳥海山復(腹)南の方正面に屹峙(きつじ=そびえ立つ)す。戸島より人力を駆る。
    草花や人力走る秋田道
    女郎花(おみなえし)枝の出るこそわりなけれ
    道ばたに誰がくねらせて女郎花
月夕のほのかに神宮寺山の頂きに見ゆる頃玉川に架けたる数町の長橋を渡りて大曲に宿る」

  とある。秋田市御所野で見た松の木や鳥海山の眺めを記し、人力車に乗りながらも、道端の草花に目をやり俳句を詠む。月並みな俳句を排斥し、明治歌壇の革新を図ろうとした子規の面目躍如といったところだろうか。着いた大曲でも子規は

    夕月や車のりこむ大曲り

  の一句を残している。

  さてその大曲から友人でもある夏目漱石に子規は手紙を出している。それがまた、面白い。

「拝啓  寄宿舎の夏期休暇果たして如何(いかん)  愚生  財政困難のため、眞成(なりゆきにまかせて?)の行脚と出掛候(でかけそうろうの)處(ところ)炎天熱地の間にむし殺されんづ勢にて大(おおい)に辟易し、此の頃は別仕立の人車(人力車)追ひ通しに御座候(そうろう)  風流は足のいたきもの紳士は尻のいたきものに御座候
    秋高う象潟晴れて鶴一羽
    喘ぎ喘ぎ撫し子(なでしこ)の上に倒れけり
4、5日の内に帰京可致候(いたすべくそうろう)=羽後国仙北郡大曲駅旅館より
東京本郷区帝国大学寄宿舎・夏目金之助宛」

  とある。秋田から人力車に乗って大曲に向かったが炎天下の暑さに蒸し殺されそうだったと悲鳴をあげ、さらには「旅の風流とは足の痛きもの。紳士は尻の痛きもの」と嘆いたのだ。人力車で秋田から大曲までの50キロを乗ったままでは足だって、また尻だって痛くなったことだろう。「紳士とは尻の痛きもの」が面白い。

  そして大曲から六郷町へと足を向け、近道を通って岩手県湯田温泉を目指すが・・・。

「16日六郷より岩手への新道を辿る。あやしき伏家にようよう午餉(ひるげ)したためて山を登ること一里余  樵夫(きこり)歌  馬の嘶き(いななき)  遙かの麓になりて巓(いただき)に達す。神宮寺大曲を中にして一望の平野眼の下にあり。

    蜻蛉を相手にのぼる峠かな

山腹に沿うて行くに四方山高くして一軒の藁屋だに見えず。処々に数百の牛のむれをちらして2人3人の牛飼を見るは夕日も傾くにいづくに帰るらんと覚束なし」

  「山腹に沿って岩手に入ったが、四方は山ばかり。その上、一軒の藁屋(家)さえも見えない。夕方が近づいて牛飼いたちも家に帰ろうとしているが、その姿さえも覚束なく見える」。心もとない気分で岩手県側へと入る。

  子規に関する資料がないかと、黒森山を下山して元六郷町役場助役の阿部莞爾さん(72)を訪ねた。阿部さんは整理箱から正岡子規に関する資料を次々と出しては要所要所をコピーして下さった。「六郷町を出てあやしき伏家とあるのは多分、六郷東根の一軒家のことだろう」と話す。そこでようやく昼飯を口にし、いよいよ峠道である。山林の立木を伐り倒す樵(きこり)たちの歌声や木を運ぶ馬のいななきを聞きながら、ようやく着いた山頂。はるか麓に見える神宮寺嶽や夕べ泊まった大曲の町を眺めながら子規は例の一句を詠んだ。

  阿部さんは「子規の俳句に登場するトンボはオニヤンマという大きなトンボで、そのため“とんぼう”と読んだものでしょう」と説明する。トンボが峠道を超えようとする子規の周辺を飛び回ったのだろう。その光景が目に浮かんできそうな静かな黒森山峠だった。その峠からの仙北郡の眺望はこの日も変わらず、初夏の光に輝いていた。子規は1902年(明治35年)わずか35歳でこの世を去っている。子規が東北の旅に立ったのは26歳の時だった。しかし、帰京してすぐに病床に就いてしまう。子規の作品「病状六尺」を記したい。

『病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚しい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、其れさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るゝ様な事が無いでもない』。

  金曜日。こちら編集室に向かおうと午後1時から、ワープロにかじりついた。正岡子規を書いてみたいと思ったが、凡人のなせる技。漢和辞典を調べてはあっちを消し、こちらを削っているうちに時間ばかりが過ぎていった。それにしても子規である。もっと理解したいと子規全集に目を通そうとしたが、古い漢字、難しい言い回しに戸惑うばかりで、自分の世界ではないとあきらめてしまった。この程度で許してもらいたい。そして書きながら思ったのだが、これほどの人が秋田を歩いているのだから、なぜ秋田に「正岡子規の道」と題した観光ルートは生まれなかったのだろう。文学の道でも良かったのにと蛇足ながら思う。