蜩(ひぐらし)は昨日も鳴いていた。カナカナカナ−と。人の声にも個性があるように、蜩にも個性があるのだろうか。夕方、犬を連れての散歩時に蜩の鳴き声に耳を傾けた。カナカナカナ。濁りのない澄みきった鳴き声はどこで聞いても同じだった。だが、帰り際の杉の木から聞こえてきた蜩の声は鳴き終えるころ、カナカナカナガナ〜とゆっくりと声を落とし、鳴き止む直前に声を濁らせた。人で言えばだみ声であろうか。悲しんでいるような声の濁りだった。暑い盛りの鳴き声の合唱が終わり、夜の闇に溶け込む虚しさへの恐れか、それとも悲しさか。カナカナカナガナ〜。蜩はかすかに声を濁らせ、鳴き声をスーッと落とした。そしてピタリと声は止んだ。空はむらさき色に染まり、やがてあかね色となって赤い太陽は山の向こうへ沈んだ。
今は野球場と多目的広場のある「川港親水公園」に変わったが、自宅から200メートルほど歩くと子どものころに良く遊んだ杉林の一角が、昔のまま残っている。まだ入学前だったろうか。セミの声を聞きながら朝の林の中を冒険していたら、チューリップの葉によく似た草が生い茂っているのを見つけた。「チューリップだ!」と思い込んで、その根を堀り、家に持って帰った。きっと母は大喜びしてくれるに違いないと心も弾み、急いでその根を家に持って帰ったのだ。あの可憐で華やかなチューリップの花が、球根から咲き出すものだということはまだ知らなかった。
とにかく大きな発見に違いないとすごく興奮したことだけは覚えている。しかも、チューリップの花が咲く季節はとっくに終っただけに、夏に咲くとても珍しく貴重なチューリップの花だとさえ思った。母にその葉っぱを根っこのまま差し出したら「なーにこれ。こんな雑草は家に植えるものじゃないんだよ」と言われ、とてもがっかりしたことを覚えている。兄が「マサオ。お前もバカだなぁ」とテーブルに座って笑い転げていた。がっかりしながら朝食をとった。
おかしなものであの日のことは断片的だが、未だに記憶のポケットの中に残っている。杉の木がとても太かったこと、その根本に本当にチューリップの花の葉とよく似た草が生えていたのだ。生活に余裕などなかった我が家に花壇なんてあるはずがない。だから、林の中で見つけた花なら、お金を出さなくても自宅の庭に植えることが出来ると喜んだ。しかも、チューリップ!なのである。 きっと母は喜んでくれるに違いないと思い込んだ。どこをどんなふうに歩いて帰ったかさえもあの日のことだけは鮮明に覚えている。「もしかしたら夏に咲くチューリップの花」として珍しがられ、我が家は幸せになるかもしれないと想像したことも。しかも、その花を見つけたのは自分であり、幸せを運んできたのが自分になるんだと思ってウキウキしたことも。
しかし、家に持ち運んだ宝の花は単なる雑草だった。杉林に無数に生える雑草だった。名前さえ今は分からないが、とにかく価値のない雑草を自分は運んでしまったのだ。
四つ足の娘を連れて歩きながらたわいない昔のことを思い出すこのごろだ。暑いせいか夕日がこのごろ、毎日、きれいだ。太陽は大きく燃え、空を紫に染め、やがて茜色に染め、巨大な雲の軍団を空に残して山の向こうへと沈んでいく。太陽が沈むと同時に東の山からはまだ白い色をした幼い月が上ってくる。月は闇が深まると同時に成人して、黄色く輝くだろう。太陽と月の交代する夕方のドラマを見ながら公園を歩いている時間が好きだ。ほのぼのとした幸せが心に満ちる。歩きながら、昔読んだ小説のストーリーや映画を思い浮かべる。加賀乙彦の「宣告」。実際の死刑囚と向き合った体験を下に描いたこの作品を読んだ時は、驚きというよりかなりのショックを受けた。読んだ方も多いと思うが、母との別れのシーンを描いた最後は泣けて仕方なかった。母とはいつでも悲しいものである。
井上靖の「氷壁」、「ある落日」、「城砦」。これらは高校生のころ良く読み、自分が大人になったら目指したい人間性の原点となった。井上が小説「城砦」で、桂という主人公を通じて語らせた「生きる」と言うことの言葉はどんな小説のセリフよりも好きだった。
「愛が信じられないなら、愛なしで生きてごらん。世の中が信じられないなら、世の中を信じないで生きてごらん。人間が信じられなかったら、人間を信じないで生きてごらん。生きるということは恐らく、そうしたこととは別ですよ。この石のように生きてごらん。僕は宗教家でも、哲学者でもないから、こんなことしか言えない」。
素敵な大人のセリフだと思い、するすると頭に入ってしまった。大人になって悲しい女の人と出会ったらこのセリフを喋ろうと高校生のころ、憧れた。しかし、とうとう使う機会もないまま人間を半世紀もやってしまった。まあ、使わなかったのが幸いしているのかもしれない。自分は井上が生み出した「桂」という人物ほど人生に達観しているわけでもないし、煩悩を捨てきるほどの聖人でもない。未だに青春に、母性に憧れている。
「ここより先は悲しみの町」。太宰の小説にこのような書き込みが確かあった。この人のアフォリズム(箴言)的な言葉づかいのうまさも好きだ。「ねえ。外は白夜なんだぜ。まだ明るいんだ。なのに子どもはもう遅いから寝なさい。ねっ。こんな悲しいことってある」。太宰はこんなセリフも書いていた。白夜。ヨーロッパに旅をしたとき、夜9時を過ぎても外はまだうっすらと明るかった。こんな明るい夜なら、いつまでもビールを飲み続けていたいと切に思ったものだった。そして飲み続けた。
夕日を見ながらこうしたたわいのないことを思い、県南日々の「こちら編集室」への文章をどうするかと毎日、ある意味では楽しみながら悩んでいる。「ここより先は悲しみの町」。平凡だが、我が人生、このごろ幸せだと思っている。でもどこかに悲しみに憧れる自分もある。それは、いや書くまい。悲しみは恋に似て切ないから。