こちら編集室「サイダーの思い出」(8月20日)

  インターネット新聞を始めて一番の成果はやはり多くの人と知り合えた人的財産だろう。それは県外の人もあれば県内の人もおり、海外の人もいる。メールによる交流もあれば、掲示板の「読者の広場」を通じての交流もある。嬉しいのは表紙を飾った写真に対して「自分の故郷の懐かしい写真を見て、このコーナーに初めて書かせてもらいました」と顔を出して下さる方がいる時である。また、メールを通じて励ましや記事の感想を頂いた時である。

  同時に寂しさを感じるのは「読者の広場」に良く顔を出していた人がしばらく音信を途絶えさせた時である。どうしているのかな?と心配してしまう。その心配相手の一人だった長谷川さんが今日から、復帰してくれた。しかも長谷川さんらしい明るさで。「おー。元気にしてたんですね」と言いたくなる。

心配性なのである。天が落ちてくるのではないかと心配するほどの杞憂さではないが、取り越し苦労の方だとは思っている。母に似た性格かもしれない。母は兄たちの一人でもが夕食時までに帰って来ないとオロオロしはじめ、「どうしたべ。○○はどうしたべ。マサオ。知らないか」と良く聞いた。秋になると夕暮れも早い。母は暗くなると、いても立ってもいられないとばかりに門口に立って、帰って来ない兄たちの姿を待った。いつまでも待ったものだった。

  その反面、あきらめも早い。父が亡くなる時がそうだった。母は脳卒中で倒れ、その後を追うように父も肺がんの末期で倒れ、同じ病院に入院するのだが、父の病名の事は隠していたにもかかわらず「じさまの病気は悪いものだな。治らない病気だな」と心配性の母は悪い方へ悪い方へと解釈した。そしてスーとあきらめたと思ったら、後はサバサバした顔で亡くなる半年後まで父の病室を車いすで行ったり来たりしながら笑顔で過ごした。父にとっては病院で母の笑顔を見れるのは、助からない病気とはいえ最後の励みだったろう。父はむしろ右半身が利かなくなった母の哀れな姿を気遣い、心底悲しんでいたから。

  そして亡くなった夜、病室を訪ねた自分に母は「逝ったか。逝ってしまったか。マサオ。おれは面白くね。今夜は病院にいても面白くねえ。おれも家さ連れていってくれ」と泣いた。こちらこそ泣きたい気分だったが、「母さん。体が言うことを利いたら家に連れていくけど、今夜は我慢してくれ。じいさんを見送る準備があるから病院で我慢してくれ」と頼んだ。父が亡くなったのは深夜だった。病室で声もあげずにシクシクと泣く母は哀れだったが、最後はあきらめて病室にとどまることを納得してくれた。1979年9月27日。父は77歳で生涯に幕を閉じた。それから10年後、母は静かに息を引き取った。88歳だった。

  とにかく心配性、取り越し苦労の母だった。心配させないためにも夏の暑い盛りの川での水泳ぎは時間通り帰らないと後でうるさいと兄と話しながら帰りの道を急いだものだった。その母と父に心底心配させてしまったことがある。小学生のころ大曲までバスで遊びに出掛け、帰りのバスに乗る時、「角間川行き」と「角館行き」を見間違いし、「角館行き」のバスに乗ってしまった。バスが走ってからどうも方向が違うなと思いながらも、子ども心の無鉄砲さと好奇心が先走って、「行ける所まで行ってしまえ」とそのままにしてしまった。

  やがてほのぼのと暗くなるころ見知らぬ町「角館町」に着いてしまった。帰らなくてはと思ってもどうやってバスに乗ったらいいのかも分からない。仕方ないからバス停から歩き出した。いずれ歩いたら大曲に着くだろうと軽く考えた。だが、歩いても歩いても大曲の灯は見えない。大曲と角館町間の距離は約30キロである。当時、人の歩く速度は1里(4キロ)で1時間と言われた。30キロだと、大人でさえ8時間近くかかる距離である。

  歩ききって歩ききって、とうとう歩けなくなってしまった。とぼとぼ歩きながら泣いた。どこでどうしたのか。自転車に乗った人が自分を見つけ、「どうした?」と声をかけてくれた。確か20歳ぐらいの青年だったとおぼろげに覚えている。「大曲に帰りたいけど道に迷ってしまった」と言ったら、「後ろに乗れ」と言って大曲駅まで自転車に乗せてくれた。そして「気をつけて帰れよ」と言い残してその青年は姿を消した。

  大曲駅までは着いたもののもう歩けなかった。駅には公衆電話があったが、家には電話さえなかったため、その使い方さえ分からない。家まではまだ6キロの道のりがある。もう真っ暗になっていた。その暗さが恐かった。また家までの途中にある庚申塚を当時はお墓だと思い込んでいて、その前を歩かなければならないと思うと足がすくんだ。駅前には数台のタクシーが停まっていた。タクシーなんて贅沢なものを使っ帰ったら怒られるだろうと思ったが、もう歩けない。怒られるのを覚悟でタクシーに乗った。

  家に帰ったら、近所の人たちまで10数人が集まり、「人さらい」に遭ったのではないかと大騒ぎになっていた。開いたタクシーのドアから恐る恐る降りて身を出したら、めざとく見つけた近所の人たちが「マサオさんだ。マコちゃんが帰って来た!」と叫んだ。母と父が飛び出すようにして家から出て来て叫んだ。「マサオ。マサオ。良く帰って来た。どこへ行ってたんだ」。こちらはその声に向かって「タクシーを使ってしまった。ゴメン」と謝ったが、「バカ。タクシーなんて何でもない。戻ってくれたら何でもない」と泣き叫ぶような声で慰められた。

  それから何日間だろう。足の裏が痛くて歩けず、しばらく学校を休んだ。母は側に付きっ切りで看病してくれた。ひと言も怒らず。「サイダーが飲みたい」と言えば「サイダーか。いま買ってくるからな」と言っては近くの店に駆けつけて冷たいサイダーを側に置いた。あの冷たくて甘いサイダーの味が今も忘れられない。小学校2年か3年ごろの秋に起こした事件であり、苦い思い出である。