こちら編集室「パスカルの言葉から」(10月1日)

  「ねえ。人間は考える葦(あし)って言うけどあれ、どういう意味なの?」。仕事からの帰りの車中で妻が突然、言い出した。「考える葦か。うーん。パスカルの言葉で高校時代に教えられた記憶はあるけど、何だろうね」と回答に戸惑った。「例えば人間ってススキでも葦でも折ろうとすれば簡単にポキリと折れてしまう弱い存在だけど、考える能力を持っているから他の動物とは違うんだとでも言ってるんじゃないか」。そう答えたが自信がなかった。「あなた。調べてもらえる」。「おいおい。どうしたんだ。そんなことを急に」と逃げようとしたが、妻の目は真剣で「この前、急にこの言葉を思い出したらどんな意味なのか気になって仕方ないの」。

哲学なんて縁のない世界を歩いてきただけに何をどうやって調べたらいいのか。どんな本を調べたらいいのか困った。その時、ふと思い出したのが森本哲郎の「ことばへの旅」であった。この本の中にも確か「人間は考える葦である」の解説が書かれていたことを覚えていたからである。本を通じての森本哲郎との出会いは、まだ20代だったころに初めて手にした「ぼくの旅の手帖−または、珈琲のある風景」が最初で、この旅の手帖を読んで森本の豊富な知識に痛く感銘し、「ことばへの旅」、「ゆたかさへの旅」と次々と彼の本を買い求めた。その一冊、「ことばへの旅」はいつも記者室に置いてある。

  妻からの依頼は翌朝はすっかり、忘れていたが、携帯電話で「あなたあれ、調べてくれた」と催促を受け、急いで本の目次を開いた。「逆境について−裸でわたしは母の胎を出た。裸でわたしはかしこに帰ろう−ヨブ記」、「希望について−人間はいかなることにも馴れる動物である−ドストエフスキー」、「あやまちについて−人間の知性は明鏡ではなく、意志と感情で曇った鏡である−フランシス・ベーコン」に続いて「思索について−人間は一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である−パスカル」とあった。

  森本は語る。「人間は葦のように、かよわいものだ、とパスカルは言います。葦は水が涸れればすぐ枯れてしまいます。確かに人間は自然の中で最も弱いものです。彼を押しつぶすのに刃物はいりません。自然がその気になれば人間を滅ぼすのに何の造作もないのです。しかし、自然が彼をひとひねりで押しつぶしても『人間は彼を殺すものより尊いだろう』とパスカルは言います。なぜでしょう。彼は自分が死ぬということを知っているからだ、と言うのです。つまり、人間は考えることができるからだ、と」。そして森本はパスカルの言葉を借りて「考えが人間の偉大さをつくる」とも書いている。

  以上のようなことを私は妻に電話で報告した。しかし、報告してからもどうも“釈然”としなかった。この言葉と最初に出会ったのは高校時代の「倫理社会」の授業でだった。あの当時、この言葉を自分はどう理解していたのだろう。もちろん、そんな遠い昔の事は思い出せるはずがない。しかし、パスカルという哲学者が言ったにせよ、どうも良く分からない。人間は確かにかよわい動物だ。しかし、考える動物だから偉大だとも言い切れない。結局、もう少し詳しくパスカルのことを調べる必要があると図書館に走った。しかし、哲学のコーナーを歩いてもパスカルの専門書は見つからない。ならばと「万有百科大事典」の中の「哲学・宗教」を取り出し、パスカルを調べた。

  その中でパスカルは葦のことを次のように語っている。「人間は無限と無、偉大と悲惨との間に浮動する中間者である。広大無辺な宇宙に比べるならば、ほとんど一つの点に等しい。一本の葦のように弱い存在である。だが、それは『考える葦』である。『空間によって宇宙は私を包み、一つの点として私をのみこむ。だが、思考によって私は宇宙を包む』。ここに人間の尊厳がある。人間は偉大であると同時に悲惨であり、自分の悲惨を知るゆえに偉大である」と。

  この言葉によって「人間は考える葦でる」という言葉の意味がやっと明確なイメージとして心に刻まれた。人間はなるほど宇宙に比べたら一つの点に過ぎないが、思考は宇宙をも包み込む能力を持っている。そして人間は生まれるという喜びを知っていれば、死という悲惨さも知っている。また食べる喜びも知っているし、空腹の悲惨さも知っている。学ぶことによって得る知識の喜びも知っていれば、それを放棄することによって味わう悲惨さも知っている。人を愛し、その愛した人と暮らすことの喜びも知っていれば、愛した人との別れの悲惨さも知っている。別れの悲惨さを知っているからこそ、夫婦というもの愛が続く限りお互いを労り、共有の時間を過ごしたいと思うだろう。

  妻をがんで失い、その後を追うように、自らの命を絶った夏目漱石研究家の江藤淳さんの「妻と私」を読んだ。江藤さんも子どもがおらず、愛犬と二人きりの生活だったようだ。読み出したら止められず一晩で読み切ってしまった。江藤さんは病状が思わしくなくなった妻のため病室に泊り込む。

  「家内と一緒にこの流れているのか停まっているのか定かではない時間のなかにいることが、何と甘美な経験であることか。この時間は、余儀ない用事で病室を離れたりすると、たちまち砂時計の砂のように崩れはじめる。けれども家内の病床の脇に帰り着いて、しびれていないほうの左手を握りしめると、再び山奥の湖のような静けさを取り戻して、二人のあいだをひたひたと満たしてくれる。私どもはこうしているあいだに、一度も癌の話しもしなければ、死を話題にすることもなかった。家政の整理についても、それに付随する法律的な問題についても、何一つ相談しなかった。私たちは、ただ一緒にいた。一緒にいることが何よりも大切なのであった」と書く。

  そして「何故なら、私たちの別れは遠くないからである。そのときまでは、できるだけ一緒にいたい。(略)私は自分が特に宗教的な人間だとは思ったことがない。だが、もし死が万人に意識の終焉をもたらすものだとすれば、その瞬間までは家内を孤独にしたくない。私という者だけはそばにいて、どんなときでも一人ぼっちではないと信じてもらいたい」と。

  この愛の美しさ。この優しさ。思いやりこそ「人間は一本の葦のように弱い存在である。だが、それは『考える葦』である」のパスカルの言葉のように人間の偉大さを感じさせる。愛があるからこそ夫婦というものはいつだって時間を共有し、共に過ごせる時間を大切にしたい。妻が買い物に出掛け、少しでもその帰りが遅くなると心配が募る。そうしたものだ。愛の喜びを知っている人間はその愛するものを失った時の悲惨さも知っているから。

  江藤さんと生活環境が酷似しているせいか、「妻と私」を読んだ後は身に詰まされた。我が家でも子どものいない虚ろな空間を犬で紛らわそうかと柴犬を飼い、そしてこの春にはパピヨンの小犬を飼ってしまった。パピーと名付けた小犬はその後、年齢的にも晩年を迎えたアキとは違って、我が家の平凡な生活の“破壊者”となって家中を駆けずり回っている。破壊者。まさにその通りで、廊下にあるスリッパを見つけては噛みつき、いつの間にか4足のスリッパをメチャメチャにしてしまった。障子には穴を開け、畳まで千切ってしまった。妻はあきれたように「チビッコギャング」と名付け、それでもその乱暴狼藉を許している。こちらもその後を追ってはパピーを叱ってはいるが、心のどこかではそのすべての仕草を許している。この幸せがいつまでも続いてほしいと。(と書いてはみたものの、読者でこの小犬のしつけ方を知っている方がいたらどうか教示してもらえたら幸いである)