飼い犬の狂犬病予防注射のため、久しぶりに母校の藤木小学校までの通学路を歩いた。距離にして自宅から2キロぐらいだろうか。普段は車で通り過ぎているため何とも思わなかったが、子どものころ通った道を娘のアキと共に歩いてみると何とも言えぬ懐かしさがこみ上げてきた。
あのころは田んぼしかない単純な道だった。砂利道で真っ直ぐに伸びた細い道だった。車なんて通ることもなかったから、いつも道路の真ん中を往復したものだった。道路の両側には田んぼに水を流すための細い水路があった。その水路を囲む土手には笹の葉が生えていて、その葉を取っては笹舟を作り、水路に流してはそれを追った。笹舟は流れに乗ってどんどん先に進んだ。走って追い掛けなければいけないほどのスピードだった。走るとランドセルの中の筆箱がガタゴトと音を立てて鳴った。笹舟はL字型となった水路の所で通学路から離れ、姿を消した。100メートルも走ったろうか。たったそれだけの遊びでも楽しかったなと今にして思う。青い草の甘い香り、青い笹の葉の甘い香りが手にかすかに残ったものだった。懐かしい香りは今はかぐことさえ出来ない。
田んぼしかなかった砂利道の通学路はその後、拡幅されて舗装道路となり、藤木、角間川両中学校が合併して出来た「大曲南中学校」の校舎が建ち、その前には市が分譲した住宅地が広がっているからだ。田んぼしかない通学路はそんなふうに変わった。それでも子どものころの懐かしい思い出がその道路には残っていた。
これまでも何度か書いたがいつも一人での登校であり、下校だった。別にクラスで孤立していたわけではない。ただ面倒だったのかもしれない。今もそうだが、自分には人の上に立ってリードする能力はないと思っている。だから当時も学友と一緒に歩くよりも、一人で歩いた方が気楽だと思っていたのではないだろうか。また学友たちの密かなからかいの対象になるのも嫌で一人でいつも帰ったのかもしれない。学校を終えるとさっさと帰るだけが楽しみだった。帰り道の楽しみは笹の葉を取ったり、白い雲を目で追ってとぼとぼと歩くことだけだった。そしてその思い出の中に不思議なことだが、雨の日はどうやって帰ったものか。それだけは頭の中が真っ白になっていて覚えてない。
学校は木造で二階建てだった。水飲み場やトイレの位置、売店、当直室、職員室、図書室などの位置は今でも覚えている。そして音楽の時間に習った歌も今も記憶に残っている。「赤とんぼ」や「砂山」、「月の砂漠」などどちらかと言えば悲しいメロディーの方が好きだった。当時の多くの子どもがそうだったように自分も「赤とんぼ」の歌の歌詞にある「負われて見たのは」は「追われて見たのは」と勘違いし、「だれに追われて赤とんぼを見たんだろう」と不思議な思いをした。
北原白秋の「砂山」を歌うといつも胸が熱くなった。「海は荒海 向こうは佐渡よ すずめ啼け啼け もう日はくれた みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ」。今でもこの歌を口ずさむと胸が熱くなる。そして「月の砂漠」の悲しく切ないメロディーも大好きだった。「月の砂漠を はるばると 旅の駱駝がゆきました」。「さきの鞍には王子様 あとの鞍にはお姫様 乗った二人はおそろいの 白い上着を着てました 広い砂漠をひとすじに 二人はどこへゆくのでしょう」。歌が流れ、この部分を歌うころになると悲しくて自然に涙がにじんだ。
アキと共に「月の砂漠」をそらんじながら歌って帰った。王子様とお姫様は朧(おぼろ)にけぶる月の夜を対の駱駝に乗ってとぼとぼと砂丘を越えて行った。あの当時、子ども心にも自分は王子様にはなれるはずはないが、悲しい女の子と出会ったら月の夜、二人でとぼとぼとどこかの道を歩いてみたいなと想像した。アキと自分は思い出の道をとぼとぼと今、自宅に向かっている。
童歌は考えてみると子どもが成長する時の大事な糧だったようだ。学校からの帰り道、音楽の時間に習ったこの「月の砂漠」や「赤とんぼ」、「砂山」など気に入った歌に出会うと少し興奮しながら家に帰った。家に帰ると風呂に水を入れる作業があった。ポンプを押して水をくみ、風呂に流す作業だった。水道なんてまだ通ってもいなかった。ポンプの柄(え)を上下に持ち上げて、地中から水をくみ上げ、一旦、砂通しをして水を流すのだが重労働でもあった。重労働でも母が家にいると力を自慢したくて懸命に柄を持ち上げ、持ち下げた。水は「ギョロギョロ」と鈍い音を立てて砂箱に流れ落ちた。「マア。頑張るな」。台所のそばでいつも縫い物をしていた母はその音を聞くと喜んだ。風呂に水がたまると杉の葉を窯に入れ、火を点けた。薪が燃え上がるのを見ながら、学校で習った歌を歌った。自慢げに歌って聞かせた。母は黙ってその下手な歌声を耳にしながら、縫い物に励んだ。
縫い物で思い出した。手の器用な母は近くの洋品店から出稼ぎの人たちが持っていく丹前の縫い物の注文をもらっていた。母の縫った丹前は綿がずれないで丈夫だと評判だった。母は注文を受けた丹前が仕上がるとそれを風呂敷に包んで洋品店に運んだ。店主は「母さんの作ってくれる丹前は安心してお客さんに渡せる」と喜んだ。丹前一枚仕上げていくらの稼ぎになったものか。朝から晩まで台所近くの居間に座り続けて縫ったとしても、大した稼ぎにはならなかったろう。そう思う。それでも母は縫い続けた。時には太っ腹な一面も見せた母だが、神経質な面もあった。母が一番、気にしたのは米びつの中の米の量だった。米が少なくなると「米びつだけは空にしてられないからナ」と口癖のように父に言っていた。「んだナ。んだナ。稼いでくるからナ」。父は笑ってうなずいていた。
小さな魚屋もやっていたせいか幼いころの我が家にはいろんな人が出入りした。戦後間もなかったため朝鮮の人の出入りも多かった。母はこうした人たちとも分け隔てなく接した。だから、行商にやってくる朝鮮の人たちは自分を「マコちゃん。マコちゃん」と良く可愛がった。東京から疎開して戦後もそのまま居残って商売を始めた人たちも我が家に出入りした。幼かった自分は朝鮮人の話す独特の言葉の訛(なま)りと東京から疎開してきた人たちの言葉の訛り(標準語だから訛りとは言えないが)がいつの間にか耳に馴染んで、話し言葉は自然に地元の方言と標準語、それに朝鮮の人たちの早口がごちゃ混ぜになってしまった。
学校に入ったころ先生は不思議に思ったのか、「おめ。どこの生まれだ」と男の先生に聞かれたことがあった。恥ずかしい思いだった。それがクラスの子たちの耳に入ったのか、「正雄はいい振りこきだ」となったらしい。顔の色がほかの子たちに比べ、黒いのも重なっていつの日か「クロンボ」と言うあだ名も付いた。「お月さま」と言う歌もあった。音楽の時間、「出た出た月が くろい くろい 真っ黒い すみのような雲に」。この歌の練習が始まると歌っていたクラスの子たちは自分を流し目で見つめクスクスと笑った。辛い日も多かった。
母が残した「どんぶく」と言う綿入れの丹前に似た衣類は秋から冬になると今も自分は着こなしている。ストーブはもちろん、この季節になると朝夕、欠かせないがこの綿の入った「どんぶく」と言う名の衣類は寒くなると重宝だ。母が亡くなってもう10年以上にもなったが母の作った「どんぶく」だけは自分の体を守り続けている。犬を連れて歩いた思い出の道はいろんな思い出を紡ぎ出してくれた。