「映画を好む人には、弱虫が多い。私にしても、心の弱っている時に、ふらと映画館に吸い込まれる。心の猛っている時には、映画なぞ見向きもしない。時間が惜しい」。太宰治は「弱者の糧」でこう書いている。弱虫。心が弱っている時。いずれも最近の自分に似ている。この一週間、随分と悩んだ。惨めな思いもした。腹立たしいとも思った。傷ついた心を抱いて、雪道をブラブラと歩いた。相手は何気なく吐いた言葉であったかもしれないが、その言葉が心の中を鉛のように重くした。
しかし、忘れよう。生きている限り我慢しなければならないことも多い。黙っていることで、また我慢することで分かってもらえる日が来るだろう。退職された元小学校の校長先生がこちらの悲憤慷慨の話を聞いてしみじみと語った。「伊藤さん。私も校長を退職して今の職場で嘱託としてお世話になっているが、ある職場を訪ねた時に向き合った相手にはお茶が差し出されたが、私のテーブルには出されなかった。これはどういう意味なのか。私は考えた。モノを売り込みに行ったわけでもない。お金の無心に行ったわけでもない。嘱託とはいえ、公務で行ったのにそういう接待をされてしまった。とても惨めな思いだった。自分の生涯で最も恥ずかしい思いをそこでさせられた。しかし、私はが・ま・ん・した」。ユックリした口調で「我慢する」ことの大切さを訴えた。
その元校長先生は温かい人柄を感じさせる柔和な笑顔で「しかし、私はが・ま・ん・した。そしてその恥ずかしい経験だけはだれにも喋らなかった。家内にさえも喋らなかった。いま初めて伊藤さんに告白した。伊藤さん。今のあなたの心の傷みは良く分かる。しかし、我慢をすることも必要だ」。そう言った。
自分はペンで生きている。時には世の不正をペンで闘う意気込みも持っている。今回、その先生と同様の無恥で、陰湿な嫌がらせを繰り返す人物をたしなめた。それを上司が叱るのではなく、逆にカバーするという不条理を目の前にさせられた。我慢しよう。そう思った。
「何をしても不安でならぬ時には、映画館へ飛び込むと、少しホッとする。真暗いので、どんなに助かるかわからない。誰も自分に注意しない。映画館の一隅に坐っている数刻だけは、全く世間と離れている。あんな、いいところは無い」。
太宰はこう告白する。自分も映画でも観ようかと思った。しかし、時間が惜しい。心が弱ってはいるが、県南日々新聞の読者が自分を見つめ、今日は何を書くのかと待っている。そしてその心の弱っている自分のために「読者の広場」では多くの方が励ましの書き込みをしてくれる。「あきたNEWS」のshizukoさん、アメリカの岩間さんからは励ましのメールが送られてきた。カトさんは「ガッツだぜ伊藤さん」と「気」を送ってくれた。shizuko隠し子@Iさん、haseさんも心配してくれる。立ち上がろうと思った。
そんなことで励まされ、太宰の本を手にしたら映画の話があった。映画と言えば高校生のころは随分、アメリカ映画を楽しんだ。今でも忘れられないのはあの「ウエスト・サイド物語」である。レオナルド役のジョージ・チャキリスとトニー役のリチャード・ベーマー。この2人の若者の格好良かったこと。そしてマリア役のナタリー・ウッドの美しかったこと。ニューヨークの街並みに咲いたマリアとトニーの恋。マリアの兄の不良少年グループとトニーを慕う不良少年グループとの確執。非常階段で出会ったマリアとトニーとが歌う「tonight」。みんな懐かしい。
あのころはだれでもそうだったろうが映画は青春そのものだった。真暗い館内でスクリーンを見つめ、登場する人物の動きを目で追い、心を躍らせ、時には涙した。「あんなふうに生きたい」。「あんな出会いがあったなら」。映画が終ってもしばらくは席から立ち上がることも出来ず、余韻を楽しんでいたら再び幕が上がって「ウエスト・サイド物語」が上映された。そのまま席に居すわってマリアとトニーの恋に溶け込んだ。あんな美しい少女に抱かれて死ぬくらいなら自分だって死んでも構わないとナタリーの美しさに恋い焦がれた。
いつの間にか隣に女子高生が座っていた。その高校生の指がこちらの膝に遠慮がちに少しずつ伸びてきたのを感じた。マリアとトニーが非常階段で「tonight」を歌っている時だった。私はその伸びてきた指を自分の親指と人指し指、そして中指を使ってそっと握った。「映画が終ったら少し歩かないか」とささやいた。女子高生はコックリとうなずいた。薄暗い中でその横顔見つめた。白いほほがうっすらと浮かんだ。おかっぱ頭の子だった。
映画は終った。私の胸の動悸は高まった。心臓の音がその女子高生の耳に届くのではないかと思えるくらいだった。私は立ち上がった。その女子高生も同時に席を立った。そして外へ出ようとしたら館内を埋めた観衆も一斉に立ち上がり、その流れに押された。その女子高生の手を握りしめておけば良かったのに群衆の流れに流されてしまい、姿を失った。名前を呼ぼうにもその名前さえ聞いてなかった。
私は映画館の外へ出て先ほどのおかっぱ頭をした女子高生の出てくる姿を待った。しかし、顔をはっきりと記憶しているわけではない。大人に交じって出てくる女子高生の一人ひとりを射すような目で探した。しかし、声をかける勇気はなかった。結局、いくら待っても指を握った女子高生の姿を探し出すことは出来なかった。あの「ウエスト・サイド物語」がもたらした女子高生との指と指との出会いは何だったろう。今でも不思議な思い出だ。
敵をつくるな。そういう訓(さとし)がある。例え心弱る思いをしても我慢する時は我慢せよとも言う。自分の憩いの場となっている大曲市のプロバイダー「おばこネット」の女の子は気立てが優しい。いつもニコニコした笑顔でとてもおいしいお茶を差し出してくれる。いつだったか。そこの社員とお酒を飲む機会があった。その子に「心が弱っているような時には○○さん。救いの手を差し伸べてくれよ」と冗談を吐いた。その子は「ええ」とくっきりした目を輝かせて応えた。女の子の上司が「伊藤さん。どこからそんな言葉が出てくるんだい。どうしてもおれたちには浮かび上がらない甘い言葉だ。まいったなー」と騒いだ。そうだ。いま心が弱っている。その子でも訪ねていくか。3日前に降り積もった雪はほとんど消えた。