仙南村の齋藤前村長

自分史「農村放浪記」を出版

村の広報に寄せた「水車」など文学的センスも(12月5日・木)

 自分史「農村放浪記」を出版した齋藤前村長仙南村の前村長・齋藤克巳さん(75)=仙南村金澤字狐森=が自分史「農村放浪記」を出版した。齋藤さんは県立大曲農業高校農科第一種(5年制)を卒業。戦後の1947年(昭和22年)から県仙北郡畑屋農業会指導部員、県農事試験場附属仙北東部隣保班畑屋指導農場主任、県農業改良課技師(六郷地区農業改良普及事務所)、県立天王経営伝習農場試験部主任、県六郷町農業協同組合営農指導部員、仙南村土地改良室長、同村教育長と多彩な職歴を経て、96年8月30日から2000年8月29日まで仙南村長を一期務めた。

 著書は第一章「田圃道を『緑の自転車が走る』」、第二章「イネの三早栽培(早播き、早植え、早穫り)」、第三章「農協の営農指導」、第四章「仙南村土地改良誌(昭和39年以降)」、第五章「素人教育長」、仙南中学校卒業記念誌「磯馴松」に寄稿した第六章「科学随筆 徒然の記」、第七章「仙南村長の4年」、第八章「自治雑感」、第九章「広報『せんなん』寄稿」からなる。

 農業改良普及員として緑色の自転車に乗って仙北郡内の田んぼを走り回った青年時代。県立天王経営伝習農場試験部に移ってから研究に取り組んだ「寒地に於けるイネの早期栽培」で大きな成果を挙げるなど研究にいそしんだ時代。村から請われて役場入りし、村の土地改良に打ち込んだ時代。農業一筋の道から一転して「村の教育長」として教育行政を任された「素人教育長」の時代などを淡々と読みやすい文で記している。

 読み進めると齋藤さんはどんな仕事でも持ち前の〃研究心〃で、まっしぐらに進む。長年、村の土地改良をやってきたことから自らを「土方(どかた)あがりの教育長」と揶揄しながらも「学校教育は学校の現地から」と学校に積極的に足を運び、学校整備状況や経営内容、子どもたちの授業の取り組みなどを熱心に見学、教育行政を模索した。

 その教育長時代に仙南中学校からの要望を受けて卒業記念誌に76年(昭和51年)から91年(平成3年)まで書き続けた科学随筆「徒然の記」は読みごたえがある。また、村長になってからの「自治雑感」や広報「せんなん」に村長として寄稿した「水車」は、行政マンと言うより文学的なセンスさえ感じられる。

 97年(平成9年)9月号に掲載した「子どもの夏休み」では「虫を捕ったり、魚をすくったりすると残酷な子どもになるという。逆だと思う。虫も魚も飼っているうちに死ぬだろうが、子どもはそうやって生命の手触りを知り、死を体験する。動物や、植物をよく眺め、その生命の尊さを知ると思う。虫の採集や植物を採集し、それを調べ、本を読んで少しずつ勉強というものの面白さを知ることが学問の一歩ではないだろうか。埼玉大学の奥本先生は、自然をよく知り、尊ぶ人は、他人を尊ぶものだといっている。子どもの夏休みなど、休みがそのようになることを願っているこの頃です」と書く。

 平易で読みやすい文章だ。「広報は月1回の発行で、毎月書いてきたが、村民から『広報が楽しみだ』と言われたのが嬉しかった」と齋藤さん。健康に配慮して2期目の村長選は見送った。

 自分史を出してみようと思いついたのは「自分の歩いてきた足跡を記録したいと思ったからだった」という。「当たり前のことを当たり前のこととして記録するのも大事。自分は百姓だが、農民の記録はほとんどない。その一農民の目から記録してみたかった」と話す。

 「農村放浪記」と題したのは過ぎ去ったことを書こうとしたら「よくもこんなに数々の退職願をだして転々と歩いたものだということが先に立って、俗にこの地方でいう『放浪ケ者(ホロケモノ)』から放浪記」としたという。また目線を農村に据えて書いたこともあって「農村放浪記」とした。

 B5版。序文で松田知己村長は「農業、農村、人への慈しみを核心に抱えた深く、そして熱い齋藤前村長の想いが伝わってくる」と寄せている。表紙の大事は元仙南中学校長の藤沢淳さん、表紙絵と挿絵は友人で元千屋小学校長の高橋侃さん。600部発行した。