子どもの自立を考える集い

フリースペース To Be主催

登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(2)=4月28日・水=

 大曲市のボランティアグループ「フリースペース To Be(事務局・日本キリスト教団大曲教会)」主催の「子どもの自立を考える集い」が25日、同市の中央児童館で開かれた。講師で登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「対人関係の進展と心の成長〜〜子どもの自立を支援するために〜」と題して講演した。登校拒否に悩む親やボランティアの方など11人が熱心に聴講した。高橋氏は「小学校を卒業し、中学校に入ってから登校拒否となる子どもが急激に増えている。小学校での子どもたちへの緩い管理が、中学校になると厳しい管理と急変し、それに圧迫され、抵抗、反発して登校拒否となっている。小学校と中学校との連携がうまく取れてない」と警鐘をならした。講演内容を2回にわたって報告します。

【対人感情と情緒の交錯】

 登校拒否・不登校の子どもたちと生活していると、日常的な言葉で叱ったり注意することもしばしばあります。そのようにされた子どもたちの多くは「嫌われている」と思い込んでしまうようです。それまでの体験でそのような一時的な、その場限りの情緒と継続的な感情の違いが分からなくなっているのです。

 1.対人感情と対人情緒
 対人感情とはかかわっている相手に継続的に抱き続ける感情です。あまり変化はしません。相手との間では基本的な感情ということができます。好きな人や愛する人に抱く「何と言ったってあなたは大切な人です」とか「それくらいのことで嫌いになるわけがないでしょう」といったたぐいの感情です。嫌いな人に抱く感情では、嫌い、恐ろしい、無視したい、などの感情が相当します。

 講演する高橋所長ウイリアム・マクドウーガルという社会心理学者は人間が持つ基本的な感情を3つ挙げています。愛情、憎悪、尊敬です。その後の研究で基本的な感情を4つに整理しました。『好意の感情』『嫌悪の感情』『優越の感情』『劣等の感情』です。

 更にそれぞれに関連する感情を4つ挙げています。優越と好意の感情の間には『慈愛の感情』、好意と劣等の感情の間には『尊敬の感情』、劣等と嫌悪の感情の間には『恐怖の感情』、嫌悪と優越の感情の間には『軽蔑の感情』です。

 日常を共にしている人々が抱く感情としては『慈愛』『好意』『尊敬』という感情が中心になって、その時々の出来事により多彩な情緒が現れてくるのです。

 ほとんど勉強をしない子どもに対して「少しは勉強をしたらどうなの」という言葉は基本的には慈愛や好意や尊敬というよりは、慈愛と優越感情辺りから出てくる一時的な情緒で、しかも攻撃的で支配的な欲求です。しかし、そのような攻撃的な言葉を投げかけられた子どもは、親には「嫌われている」という気持ちを持つかもしれません。あるいは「軽蔑されている」という感情が生まれるかもしれません。

 2.感情と欲求の関係

 ウイリアム・マクドウーガルは相手に抱く感情と、相手に対する欲求にも関連性があるとしました。『好意の感情』からは〃親しみたい〃、〃頼りたい〃、〃援助したい〃という欲求などが生産されやすいといいます。以下同様に

 『尊敬感情』からは〃依存したい〃、〃服従したい〃、〃親しみたい〃欲求。
 『劣等感情』からは〃服従したい〃、〃回避したい〃、〃依存したい〃欲求。
 『恐怖感情』からは〃拒否したい〃、〃回避したい〃、〃服従したい〃欲求。
 『嫌悪感情』からは〃拒否したい〃、〃回避したい〃、〃攻撃したい〃欲求。
 『軽蔑感情』からは〃攻撃したい〃、〃支配したい〃、〃拒否したい〃欲求。
 『優越感情』からは〃支配したい〃、〃援助したい〃、〃攻撃したい〃欲求。
 『慈愛感情』からは〃援助したい〃、〃親しみたい〃、〃支配したい〃欲求などが生産されるといいます。

 確かに尊敬している人に攻撃を仕掛ける人は滅多にいません。もし攻撃を仕掛けるとしたら心が歪んでいるわけです。

 相手に好意を抱いている人なら、できるだけ相手に親しめるような行動に出るでしょう。相手が困っているなら援助をしようとするでしょう。また、自分が困った時には相手に依存するような行動に出るでしょう。対人関係が苦手な人でも少なくても服従するくらいの行動は取るはずです。

 相手に嫌悪感を抱いている人はできる限り相手を拒否するでしょう。避けたい気持ちも強いはずです。場合によれば相手を攻撃してしまう可能性もあります。間違っても親しもうとして近づくことはないはずです。

 登校拒否の子どもたちはこの感情と情緒と欲求のバランスがかなりずれています。最初から拒否的であり回避的だあるために、好意や尊敬や慈愛の感情などは芽生えにくくなっています。ちょっとした注意を受けただけで相手に嫌われていると感じてしまう状態になっています。

 3.理想化自己対象の有無
 登校拒否の子どもたちは「あの人に頼りたい」という気持ちは、かつてはあったといいます。ところが、登校拒否に至る経過の中で「依存したいような、甘えたくなるような対象がいなくなってしまった」というのです。本来、人間は自分が理想とするような相手に依存したくなります。そのような対象を理想化自己対象といいます。最初は親たちが理想化自己対象になります。素敵な親のような相手を家庭の外に見つけ出して、社会的な理想化自己対象を作り、親離れしていきます。「あの人のようになりたい」「あの人なら信頼できる」「あの人なら尊敬に値する」。人との出会いの基礎は親たちとの愛情や信頼関係によるものです。

 仮に親たちが「子どもを甘やかすと、いつまでも親離れができなくなるから厳しくする」ような対応をしていた場合、子どもは親から愛されていないし、回避されているという気持ちになり、親を理想化自己対象にはしなくなります。この場合、愛されたいのに避けられているという現実から、恐怖感や嫌悪感、軽蔑感が強くなります。尊敬の念や慈愛の念は生まれません。登校拒否の子どもの場合は、親の親愛が納得できる形で獲得できるまで、ごねたり攻撃する場合があります。

 反対に親から依存を認められ、褒められ、支えられた子どもは親を理想化自己対象とします。その場合、外部の人々との交流が盛んになる年齢に到達すると、外部の人の中から社会的に信頼できる理想化自己対象を見つけ、相互依存関係の中で自立の方向へ歩み始めます。この自立は孤立的ではありません。相手がいて持ちつ持たれつの関係です。このようなかかわりの中で回避欲求や拒否欲求はほとんど生まれません。
 子どもの依存を完全に満たす能力を持つ人はほとんどいません。子どもの心の満足感がそこそこ満たされればいいのです。子どもが克服できる程度の少しきうらいの不満ならあった方がよいのです。条件が良ければ「それくらいは自分でやってみよう」という自発性が獲得できます。条件とは褒められ、支えられ、正しいと認められ、安全が保証されることなどです。
 消極的になり情緒の揺れにおびえている登校拒否の子どもの場合、子どもが大切にしている好きな遊びで、褒める場面を作り、分からない所を支える状況を作ることは、とても大切です。子どもは繰り返し好きな遊びをやりたがります。まるで依存症のように繰り返します。それは褒められ体験をたくさんして次の段階へ進むための準備なのです。「癖になる」ということで大人の判断で早めに制限を加えることは得策ではありません。「あの人はすごい。こんなことまで付き合ってくれる」という思いは理想化自己対象に近似しています。遊びでのかかわりは大切です。
【幼過ぎる思春期・青年期】
 多くの人々は自分の父親や母親が、今の自分の年齢の頃、どの程度の成長をしていたかを考えた時、「随分、大人だった」と感じることと思います。同様に自分の子どもを見た時、その年齢の頃の自分がどんなだったかを思い出すと「これほど幼稚ではなかった」ように感じることと思います。

 確かに年々、子どもたちの大人になる速度が遅くなって来ています。特に高度経済成長後の社会全体にわたって、ごく大まかな言い方を許してもらえれば、みな幼稚になってきたように思われます。一部の人を除いて。

 1.外見だけを気にする風潮
 経済的に豊かになって、自分の内面を豊かにする作業に取りかかった人は少数でしょうか‥‥。着飾ること、装うこと、あらゆる電化製品を持つこと、高価な物を持つこと、豪邸に住むこと、高級車に乗ること‥‥など自分の内面の装いとは無関係な豊かさに走った人々が多かったはずです。ものをたくさん獲得したことで心まで豊かになったと思い込んだ人は多かったでしょう。錯覚です。ごまかしです。見栄です。自慢したい人です。人からうらやましがられたいだけの人です。

 更に最近ではスタイルを良くしなければ気が済まない子どもが増えてきました。健康を損ねてまでも、やせようとします。いくらスタイルが良くても心が他人に自慢したいだけのお粗末さでは、貧困のそしりは免れません。顔がきれいでなければ外出できないとか、人には会えないという人も同様です。いくら整形しても心がお粗末過ぎます。

 顔もスタイルも心の美しさや豊かさとは比べ物になりません。しかし、そのように教える親や教師は少ないことも事実です。「顔が美しい人は得意だねぇ」「スタイルがいい人は恰好いいよ」という大人が結構、いるのです。この場合の美しいは顔だけです。スタイルがいいとはやせていることです。心が抜けています。そう言われた当の本人は自惚れています。自分で自分に惚れるのも程々なら大いに結構です。ところが健康を損なうほどだと問題です。美しくなりたいために健康を犠牲にするという心が歪んでいるのです。どうしてそのような歪みが生まれてきたのでしょうか。

 これも独断を許してもらいたいのですが、マスコミの影響です。特にテレビ放送の一部と女性週刊誌(女性誌に限りませんが)などはあきれるほど健康無視の美的センスをまき散らしています。心を美しくしましょうなどという記事を見たことがありません。特に最近は─。かつてのテレビ局の女性アナウンサーは、必ずしも美人だけではありませんでした。ところが最近はそろいもそろって目鼻だちクッキリの美形ばかりです。外形の美しさばかりを求めるのは幼稚な子どもたちと同様ではないでしょうか。ひがみに聞こえるかもしれませんが、心根の美しさを醸しだすような人ならもっと素晴らしいテレビ番組になるのではないかと思います。

 雑誌の報道の内容も、余りにも軽薄です。購読者が中身の充実したものを求めていないかもしれませんが、それにしても企画されている内容は、外見だけを尊重したものが多くウンザリさせられます。そのようなマスコミに洗脳されやすい程度の心しか持ち合わせていない世代が、今時の思春期・青年期の人々です。

 2.幼稚さが尊重される?
 思春期・青年期の人々の持ち物を見ると、驚くほどキャラクターグッズで占められています。それも子どもマンガのキャラーです。キティちゃんグッズ、たれパンダグッズ、最近ではニモものもあります。その他多数あります。小さな縫いぐるみを多数バッグにぶら下げて歩く大学生。カンペンの中にはたくさんのキャラクターステーショナリー。おとぎの国のお姫さまの服装で歩くいい歳をしたお姉さま。破れジーパンに可愛いキャラクターのパッチをあてがって歩く人。果ては自分の娘と思える若い女性と同じ服を着て手をつないで歩く母子。どっちもどっちです。過去の時代ならどちらかが「恥ずかしいからやめてよ」という大人の抹香臭さで、このような状態を回避していました。今は‥‥「いいじゃないですかぁ、親子で、ほほえましいですよぉ」となります。

 全て容認です。たまには良いかもしれません。しかし、いい歳をした大人が日常的に幼稚だと考えものです。「可愛い」だけでは済まされません。その年齢にふさわしく、自分を愛し、人を愛する気持ちを持ち合わせているかどうかという問いに答えていかなければなりません。「いいじゃない。そんなの、今が楽しければ後はどうなったって‥‥」では済まされません。
 楽しさを求める気持ちは大切にしたいものです。それだけではなく、人を心から愛すこと、自分自身を大切にすることはもっと重要です。

 幼い子どもの感覚の基本は「快」「不快」です。それと同じレベルのままでは大人になれません。快・不快といった感情とは無関係に「慈愛する感情」「理想に向けての感情」「希望を抱き続ける感情」は大切です。

 そのような感情について子ども教えてくれる大人はいるでしょうか。大人自身が幼くなってしまい、もはや教える能力さえ失いつつあるのではないでしょうか。もちろん私も含めて。

 「とても若々しいですね」「ほんとうに可愛いですねぇ」「いつまでもみずみずしいですね」など本来は褒め言葉ですが、それは心が成熟している世界での褒め言葉なのです。心が未熟な世界では「ほんとうにあんたはガキと同じだね」と言われているようなものです。もちろんピーターパンやウェンディのように夢と冒険に希望を持つこととは別問題です。

 人間の心の成長のバロメーターとしては理想と希望と愛とがあります。この3つが相手とのかかわりの中でどのように実現していくかにより、心の成長の度合いを測ることができます。

 3.大人の自覚
 最近の子どもたちと話をする自信がないと言う大人が増えています。相手が何を考えているのか分からないといいます。訊いてみなければ分かるはずがないのですが、子どもを相手に訊くことが怖いと言うのです。最初から大人としての自覚が少ないのです。何かを訊いていても「関係ねぇよぉ」「うっさいなぁ」「なに言ってんだよぉ」という子どもの幼稚な言葉に負けてしまうというのです。真剣に子どもを叱るのも大切な親の役目です。「お前はまともな言葉が話せないのかっ」「親の話を聴く気持ちがないのか」ぐらいは言いたいものです。もちろん、子どもの言い分も聴かなければなりません。私が言いたいのは子どもの幼稚で粗雑な言葉に翻弄されない大人であってほしいということです。そのように毅然とした態度での対応なら、子どもも大人の感覚を理解できるようになっていきます。

 大人が大人としての自覚を持つためには、本当に自分は自分を大切にしていて、相手(子ども)も大切にしている確信を抱く必要があります。

【自然体のかかわり】‥‥不透明な「当たり前」という状態

 登校拒否・不登校の子どもたちとかかわってきて私は自分の自覚では、世間で言う『普通の生活』以外の特別なかかわりはほとんどしてきませんでした。しかし、登校拒否の子どもたちとかかわるほとんどの人々は「登校拒否を直す」とか「登校できない状態を直さなければいけない」などと考えているようです。心理技術や様々な訓練技術などを駆使して、意図的に登校拒否状態を直そうとする傾向があります。子どもの言い分を丁寧に聴いていくと、子ども自身が直したいと感じている部分と、そうは思わない部分とが明らかになってきます。

 子どもにはそういう大人たちの常識に関して、譲歩できる部分とできない部分があるのです。一人の子どもの内部でも、それぞれに部分によって「何とかしなければならない」思いと「このままでもいい」部分が混在しています。そのような状態は誰にでも、普通にあることです。その子どもが感じている「これが自然だよ。当たり前だよ」という部分について、私たちは理解しているでしょうか。自然体は一人ひとりその関係や環境によって異なってくることを理解していないと、とんでもない誤りを犯します。

 1.登校拒否の多くの子どもに共通する自然体
 どうかすると私たちは、登校拒否の子どもたちから窺い知る、自然体の反対側にある不自然の方に、より多くの興味や関心を持ちます。「みんなが学校へ行っているのに、あの子どもが寝ているのはおかしい」とか「人生で一番楽しい思春期に、家の中でウツウツとしているなんて変だ」とか「みんなはいろいろな楽しいことをやっているのに、あの子はゲームしかやらないのは、どこかおかしいのではないか。何とか直さなければまずい」といった思いが生まれてしまいます。そういう意味で、私たち登校拒否の子どもたちから感じられる不自然体(一般的でないこと)に関しては、否定的な態度を持って気にしています。

 登校拒否の子どもたちにとっては、子どもが置かれている環境や対人関係を考えれば、「それが自然の生活」になっているのです。よほど心の丈夫な子どもででもない限り、不規則な生活習慣やゲーム、マンガ、テレビ、パソコンなどに没頭する生活になるのが自然の成り行きというものです。何しろ周囲にかかわる相手がいないのですから。一人遊びするしかないのです。何か相談したくても、あてに(信頼)できる人がいないのです。起きても何もやることがないのです。積極的にやってみたいこともないのです。かなりの時間を家の中で過ごしているわけですから、身体的にだるくて、元気に働く気持ちにはなれないのです。それが自然なのです。

 修行僧とか、病気を治したいとか、リハビリで努力している人とは比較はできない(比較してはいけない)のです。登校拒否の子どもたちの多くは修行するつもりはありません。自分を病人であるとは思ってもいませんから、治療を積極的にしようとは思いません。身体的に不具合があるという自覚もありませんから、リハビリのような努力もしません。

 登校拒否状態の子どもにとっては、あんなに嫌なことばかりがおこったのだから、「これが当たり前の生活」なのです。一生懸命に経済活動をしている親や教師からその生活を見ると、だらしなくて、いい加減で、怠けで、不自然に見えるわけです。もちろん、そのような登校拒否の子どもの生活が、健康的で良いとは思いません。しかし、早急に直そうという前に子どもの環境や関係に目を向けて下さい。それが先にやるべきことなのです。そのような作業の後に具体的な対応が生まれます。

 2.誰かに助けてもらいたい‥‥自分に合う人への依存
 登校拒否生活をしている子どもたちも、周囲の人々の生活が楽しそうに見えて来るとかいつかは「こんな生活をするのは良くない」と自覚します。しかし、周囲の者が生き生きとしていない場合は、自覚するのに長時間かかります。つまり、母親や父親が子どもの気になる部分ばかりを心配していたり、不安をあおり立てるような生活をしていると、子どもは却って緊張し、疲労します。事実、周囲の者から「お前のそんな生活は悪い生活だから、直しなさい」と言われて直す子どもはほとんどいません。そんな批判をする大人ではなく「自分に合う人とかかわりたい」のです。自分に合う人と共に自分の生活を変えていきたいのです。「自分に合う人」とは

 a.子どもが心に描く理想の人です。その人の側にいれば自分の理想も実現できるような気持ちにさせてくれる人です。そんな人にひと言、褒められただけでも気分が良くなるはずです。それから

 b.自分の現実を嫌味にではなく快く受け止めてくれる共感的な人です。本当は理解的な共感ができる人の方がもっと良いのですが、同情できる人であれば子どもの気持ちは落ち着きます。さらに言えば

 c.自分の混沌とした心の中の整理ができる人です。何か心に不満があるのに、うまく言葉にまとめることができない子どもはかなりいます。その子どもと根気よく付き合い、心の燻(くすぶ)りを鮮明に言葉で表現できる人です。子どもは自分の気持ちに寄り添ってもらいたいのです。

 d.登校拒否という心の体験について、その人も似たような心の体験をしていることが分かれば、それだけで子どもは親しみを覚えます。その人が素敵な人なら、その人の生き方から何かを学ぼうとします。子どもだけではなく、大人でもそのような人になら依存したくなります。そして、子どもはその人のようになりたいという欲望が生まれてきます。 3.何が自然で、何が不自然か

 素敵な人が自分の側に寄り添っていてくれれば、苦しい時にはその人に依存して、苦しみを克服したいと願うのは自然なことです。元気になった時にはその人にお礼をしたり親切にしたくなるのも自然です。「あの子はあの人に親切なのに、どうして私にはできないの‥‥」ではないのです。その人に依存することができたから、子どもは相手を大切にする力が自然に生まれたのです。親とは不自然な関係になっていることに気づいて下さい。

 自然の成り行きとは、自分と相手との関係の間に生まれる状況です。ある時はその人とのかかわりが自然であっても、その人が別の価値観を持てば不自然な状態になる場合もあり得るのです。子どもの存在とかかわっていると、何が自然化が理解できてきます。自然の源は自分たちが自然(普通)に生きている(存在し合っている)状態とつながっています。存在よりは経済活動や、学業成績やもろもろの競争や価値の世界が重視されると、不自然な偏りが生じます。そのような一分野的ん価値観抜きで『人間そのもの』を見つめ、かかわってこそ、自然体が生まれたり発見できるのです。しかし、それだけでは不自然です。次は人間と人間のかかわりがなければ不自然になります。存在している自分と同じく存在している人間の間が自然なのです。そこに自然にいる人がいて自然を体験できます。

【主観的判断と客観的判断】‥‥見ていなかった、見えなかったの違い

 登校拒否・不登校の子どもたちは、しばしば周囲の人の言葉に傷つけられます。登校拒否の子どもたちの言動は、元気に登校している子どもたちと比較すると、どこか注意が不足しているように感じられます。そこで「きちんと見ていないから駄目だ」とか「しっかりと聴いていないからそうなるのだ」などと言われてしまいます。実際には子どもには「見えなかった」状態だし「聞こえなかった」のが現実なのです。そのことを理解していなければ、大人たちは子どもの登校拒否を直してやるという傲慢さに出ます。ここは客観的な姿勢(態度)に戻って、その現象を示している子どもとかかわる必要があります。

 私たちは常に思い込みがあることを自覚していなければなりません。例えば、空を飛ぶ鳥を見て「ああ、自由でいいなぁ」と思う人は多くいるはずです。冷静に見ていけば鳥は空を飛んでいるだけであって、本当に『自由』かどうかは分からないのです。私たちが自由と言うイメージを抱いているだけなのです。そのイメージが鳥の思いと違っていたら、鳥こそいい迷惑です。鳥は「怖い、恐ろしい奴から逃げていただけなんだ」と言うかもしれません。登校拒否の子どもの言動に関しても私たちは自分の勝手な思い込みは捨てて、子どものその人とかかわる原点に帰る必要があります。

 1.本当に聞こえなかった?それとも聴いていなかった?
 子どもたちの多くは不注意をたしなめられた時に「聞こえなかった」と主張します。その理由は「不安がいっぱいで、考え込んでいてその声が聞こえる状態ではなかった」のです。が、子どもが示す現象を見て、そのように理解できる親や教師はほとんどいません。理由は子どもたちが、そのように主張しないからです。多くの登校拒否の子どもたちは、親や教師たちから「なぜ大切なことを聞いていなかったのだ」と叱責されれば、聞こえる状態になかったとは言えなくなるのです。聞こえる状態になかったことは子どもが示す態度でしか分からないのですが‥‥。表現しないのです。

 私たちは子どもたちが『聴いているはず』という前提(思い込み)で叱責していることを、実はすっかり忘れているのでっす。『聴いていない』と『聞こえない』とでは次元が違います。『聴いてない』は主体的であり、主観の問題です。話し手の方に子どもが知覚できているはずであるという、先入観があるから生まれて来る言葉なのです。だから親や教師は子どもを叱責するのです。しかし、子どもはその音声を知覚(体験)していないのです。『聞こえない』は知覚を体験・経験していない状態です。だから子どもは親たちに「本当に聞こえなかったんだ」と言い切るのです。

 我々は子どもにその音声が知覚できなかった背景を求める必要性に迫らるのです。思い込みや先入観を捨てて、改めて子どもがあきらかにしている現象に関心を向け直さなければなりません。子どもが示している現象(その子どもなりの感覚や知覚)に戻り、検討を重ねることで、その背景にある根源的な客観性を理解できる(伝わって来る)ようになっていきます。

 子どもが示している現象に善悪の判断や特定の価値観や評価を下すことは、親や教師の主観であって、無駄なことです。立場や人柄が異なる親や教師の主観が、子どもの主観と一致することは稀です。したがって親が言う主観的な言葉に対して、子どもはムカつきます。子どもにも主観がありますから「ああいう親はあてにできない」「信頼できない」という主観的な結論に達してしまいます。親子、師弟間で主観と主観の行き違いが生じてしまいます。その現象を抱えている子どもに注目しましょう。

 2.確認
 現れている現象を理解するためには言語での客観性を持った確認が必要です。登校拒否という現象ですら、主観抜きで判断停止状態での言語をやり取りした上で、理解しようという指向性で始めなければ、子どもは対話そのものをも拒否します。主観や判断抜きの言葉とはイメージや思い込みがない白紙状態から出る言語です。現れている現象や見えて来る現象そのものの確認の反復の連続が必要です。つまり継続的な対話が必要です。

 遅く起きた子どもに向けて「こんなに遅くまで、よく寝ていられたね」は少しも客観的ではありません。子どもを見ずに遅く起きたことに関心がいってます。「よく眠れたのかな?」とか「あまり眠れなかったのかな?」と子どもへの関心が抜けてしまっています。その確認抜きには子どもが「遅く起きてきた」現象の説明も理解できないのです。「あまり眠れなかった」なら、また、その確認が必要です(マルチン・ブーバー)。

 「あなたは昨日寝るのが遅かったから、今朝、起きられないのだ」という早急な理由づけや原因説明は、その現象への思い込み(勝手な判断的主観)を子どもに対してあらわにするだけです。今起こっているその現象の意味を、子どもと共に対話して確認をしていくことで、子どもは自分の身に降りかかっている「気になること」について理解できるようになります。
 判断抜きで、思い込み抜きで、白紙状態で、その現象を示している子どもと向き合う必要があります。子ども理解の原点です。

 3.現実体験
 私たちは自分が直接体験したことを現実として認識しています。子どもが直接体験したことは親や教師の現実体験とは異なります。多くの場合、その子どもの体験をイメージで感覚(知覚・意識)しているのです。親や教師たちの多くは、過去の自己体験を用いて、子どもが体験している感覚のイメージ作りをしようとします。多くの親や教師は現在の子どもが体験しているようなことを過去には体験していません。したがってその試みは失敗する場合が多く、子どもはすっきりした気持ちを獲得できません。子どもにとっては「いま、ここで起こっていることは、新鮮な直接体験」なのです。親たちの過去の体験とは知覚でも感覚でも別物なのです。かかわる人(親や教師やカウンセラーなど)は、今起こっている現象がその子どもの体験であることを理解して、検討し直す作業が必要なのです。症状とか現象そのものではなく、子どもの気持ちを分かるために必要なのです。

 学校へ行かない場合、一日をどう過ごすか。それは大変な作業になること。友だちと会わない場合の寂寥感はどれほど苦痛か。気になることばかりを気にしていた場合にどれほどの心身反応があるか。そのような理解的な指向性(かかわり)が子どもの心と寄り添うことにつながります。現実体験はできないものの、その現象を現している子どもとかかわり続けることで、その子どもその人を理解することは可能になります。

 子どもはつらい体験をしているのに、親や教師には「つらい」とは言いません。それは子どもにも思い込みが強くあるからです。そのような状態すべてを受け止めて、子どもとかかわり続けることで、子どもの登校拒否という現象は、やがて人間成長につながっていきます。

登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。

http://www.asahi-net.or.jp/~pr8y-tkhs/index.htm