子どもの自立を考える集い

フリースペース トウービー主催

登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(2)=1月28日・火=

 大曲市のボランティアグループ「フリースペース トウービー(事務局・日本キリスト教団大曲教会)」主催の「子どもの自立を考える集い」が25日、同市の中央児童館で開かれた。講師で登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「思春期・青年期の人々への親や教師の関わり方」と題して講演した。3回にわたって概要を報告します。

【心の気持ち(意思)と身体の気持ちがつながらない】
 「朝、起きたいのに、起きることができません」「学校へは行きたいのに、どうしても行けません」「やりたい気持ちはあるけど、できない」。これはしばしば登校拒否・不登校の子どもたちから聞かされる言葉です。言い換えれば「自分の心にある意思としては起きたいし、学校へも行きたいのに、身体が起きないし身体が動かない」ということです。

子どもたちと生活を共にしてきた体験から、このような現象が起こってくる根源を探ってみたいと思います。

 1.食べる健康に関する意識の低さ
 食事で家族との交流がほとんどの子どもにありません。ひどい偏食とお粗末な主食、間食も多くなってきました。口当たりが良い好きなものだけを食べる習慣にこだわっています。身体には良くないと知りつつ、スナック菓子、甘いケーキなどを食べまくってます。家族との交流する食事でなければ、偏食になるのは当然です。共に食べる食事は良いのですが、食べさせられる食事は誰でも嫌です。孤立した食事だけでは幼いころにできるはずの基礎的な体力は獲得できません。疲れやすい身体になります。

 「椎茸(しいたけ)は食べられない」「アレルギーがあるの?」「匂いが嫌だから食べない」。「ニンジンは食べない」「どうして?」「臭いから」。「肉は食べない」「なぜ?」「太るのが嫌だから」。などと言いつつ、スナック菓子は山ほど食べます。親子での食事時の交流や共感は大切です。

 身体のためには少しくらい嫌なものでも食べて、身体を大切にしようと言う思想はほとんどできません。親も自分の子どもの身体が悪くなるような食生活はさせたくないはずです。「気がついたら子どもの偏食が激しくなっていた」のです。「作っても食べないんですよ」と愚痴ります。 これは親子関係にも問題がありそうです。どこかで、親子の交流や対話が不足していたのではないでしょうか。中には「私も偏食がありましたから仕方がないのです」と言い切る親も最近は増えてきました。自慢になりません。

 「そんなんでいいの?」と詰め寄ろうものなら「今は昔と違っていくらでもビタミンやミネラルや栄養素は補給できます」と開き直られます。どこか人間味のない科学的な考え方に撤しています。ビタミンとかミネラルとか栄養素などを化学物質で直接取り込もうという発想です。人間の身体の未知の要因を排除して、機械的に考えれば「それだけでも良い」という発想です。しかし人間の身体には未知の要因の方が既知の要因よりも多いのです。人間の身体を機械的に見ることはやめて下さい。

 2.身体を動かさない
 登校拒否の子どもと生活を共にしていて、ほとんどの子どもが少動児であることに気がつきました。誤字ではありません。動きが少ないのです。多動児の反対です。朝起きても何もせずじっとしているのです。そのうち「気分が悪くなった」と言い、再び床に就きます。通常、朝起きたら洗面し、着替え、外出の支度をするなり、朝食の支度をします。一連の流れがあります。誰でも朝の起きたてはそれほど壮快なものではありません。身体を動かしているうちに壮快になってくるのです。しかし、登校拒否の子どもたちの多くは、身体を動かす流れを作ることができません。夜、遅くに寝たことも原因ですが、家事の手伝いをして、自分の目覚めを促進する流れを持っていないのです。あるいは自分で支度をして、自分の意思で自分の身体の目覚めを促進する力の獲得が未熟なのです。ほとんどの子どもが起きてきてもボーッと突っ立っているだけです。そのうち「気持ちが悪い」と言い始めます。目覚めて動かなければ生理的に気持ちが悪くなるのは当然なのですが「動く気がしない」と言います。

 一般には単独で動くのではなく、家族との交流の中で「自分のやることを自然にやっている」のです。それが目覚めなのです。登校拒否の子どもたちの多くは「目覚めが壮快でなければこのまま不快な気分が続く」と現実に起こっていないイメージに支配されます。家族との交流なしで不快な部分に神経を集中させますから、一層不快感が強くなります。

 3.身体の不調に支配され翻弄される心
 私はある時、38.8度の発熱があり出発の時刻まで寝ていました。辛いけれど起きて車を運転し、スキー場に行きました。登校拒否の子どもたちを見ているうちに自分もスキーをしたくなりました。「少しくらいならいいだろう」と思い滑りました。ひんやりとした空気がとても気持ち良かったと記憶してます。大須成学園に戻って体温を計ったら平熱に戻っていました。

 体力がない人はこのような無謀はしない方が良いのですが、この事実と登校拒否の子どもたちの現実とを考えてみました。子どもたちの言い分には「起きたい」という心の気持ちはありますが、身体が言うことをきかないかのように聞こえてきます。ていねいに聞いてみると「身体がだるいから起きたくても起きられない」という新しい事実が分かってきます。つまり心が身体の不調に負かされ、心より身体が優先されているのです。私のスキー場での出来事とは反対です。「学校に行きたいけれど、行けない」のは「学校のことを考えると身体が緊張して疲労するから」だと分かってきます。どちらの場合にも実際に人との交流に関する不安が隠されています。そのことで心が身体に支配されているのです。

 4.心と身体の連合(心と身体の交流、対話)
 登校拒否の子どもの心と身体とは必ずしも一致しているわけではありません。それは外部からの不都合な出来事の圧力もあります。過去の嫌な体験に影響されている場合もあります。身体が現実ではないイメージと強く結び付いている可能性もあります。身体に結び付いた現実ではないイメージと、身体とは別物となってしまっている心の葛藤が起こっているとも考えられます。このようになってしまった子どもが自分一人で、その状態から抜け出すことはかなり困難です。心と身体の連合(統合)は信頼できる人々との交流や対話によって実現します。他者との交流や対話により、相手との共感(共観)が生まれます。それは自分の身体と心の共感でもあります。言い換えれば、登校拒否の子どもたちの多くは他者との交流や対話が欠けていた可能性があります。
 心はその時の本当の自分を示します。一方で身体はその時の自分の心に忠実であろうとします。しかし、心が人々との交流を拒否している場合は身体の気分が優先されてしまいます。そこで修正のため大切なことはa.子どもの気持ち(心)が分かる人との関係、b.子どもの身体状況を理解できる人との交流、c.心から喜び共感できることの体験、です。対人関係の交流と共感はいつでもとても大切なのです。

【何をやりたいのかわからない】
 登校拒否・不登校の子どもや登校している子ども、あるいは大学生で自分の将来について「これから何をして生きていったらいいのか分からない」「自分は何をやりたいのか分からない」という人々が増えてます。人間が本来持っているはずの社会的な希望や欲望がないというのです。本当に「今まで何をしたらいいかとか、何をしたいなんて考えたことがない」と言います。

 また必死になって頑張っていろいろやってきたけれど「何をやっても駄目でこれからどうしたらいいのか分からなくなった」人もいます。あるいはいろいろなことをやったけれど、どれも心に満足感がなく長続きせず「本当は何をしたいのか分からなくなった」人もいます。

 彼らの多くは日常生活の中で親たちとの生活体験の共有や感情の共有が少なかったと言います。また家族以外との対人関係でも希薄な関係が多く、同世代の子ども同士の対面対人関係も少なかったようです。いずれの場合にも、周囲の人々との感情交流不全があります。一体、我々はどこで心のふれ合いや交流をしているのでしょうか。

 1.親子の生活体験交流は食事(時)
 子どもが学校へ通うようになると親子の生活場面での交流の機会は食事時が多くなるはずです。不登校の子どもたちに聞くと、親子で食事をする機会はほとんどなかったと言います。この状態は登校している子どもの場合でも大差はないでしょう。多くの親は子どものために食事の支度はするけれど、子どもと一緒に食事をして、そこで対話をすることはあまりないと言います。その時放送されているテレビに関心が向いてしまい、親子の対話はほとんどないようです。

 仮に話が出たとしても、子どもに言わせると「早く食べて宿題をやってしまいなさい」とは言うけれど『将来、何になりたいの』なんて聞かれなかった」という場合が圧倒的に多いのです。あるいは話があったとしても「あなたのやりたいことをしたらいい」という原則論的なことを言われてしまい、具体的に「将来にことについて」のやり取りはできなかったと言うのです。親たちがどのような思いで将来を夢見て希望を持ってきたかとか、どのような思いでこの現実的な生活を継続しているかも子どもには伝わっていません。子どもは生活体験を通して、親たちから社会的な現実を学ぶことはあまりできません。「勉強さえしてくれれば、それでいい」という親が圧倒的に多いのです。ところが多くの子どもたちは親から社会の本当のところを聞きたいのです。

 2.身体に支配される心
 親子の生活場面で社会的な現実の話題が覆い隠されているように思われます。そのために心に抱く子どもの希望が、自分の生身の身体(生活体験と言い換えても良い)を通して実現するという体験がなかなかできません。子どもの思考は非現実や観念的な理想に走る傾向があります。ますます実感する体験が希薄になります。それは親子の交流不全や対面した対人関係が希薄になったこととも関係しているものと思われます。

 現実感の体験が少ない子どもには心の思い(意識)と身体の実感(五感)が一致しないという現象が起こっているのです。例えばメールでは、本来の自分ではないその時だけでその場限りの自分に化けて、相手とメールをやり取りができます。それは本物の自分ではなくてもいいのです。文字を打つ自分(身体としての自分)は仮想の自分(心で作った自分)を演じています。そのような状態を反復しているうちに現実を目の前にした場合、心と身体が一致しているはずの本物の自分が分からなくなってくるのです。本来は心としての自分が本物の自分であるはずです。しかし、心は身体に支配されてしまうのです。

 そのような状態は、自分の身体の不調に支配される心を持つ子どもの増加をも産みました。「起きたいけれど起きれない」「行きたいけれど行けない」などは典型的現象です。 身体が本当に不調なら「行きたい」という気持ちを変更して「今日は行かない」ことにすれば、歪んだ葛藤は起きないのです。反対に心で望んでいる通りに「行ってしまえば何とかなるから行く」ことにすれば、苦しまないで済むのです。身体が心を支配しているような状態ではこのようなことはなかなか実現しません。

 3.生活での交流が大切
 私は子どもたちと生活を共にしてきた体験から、心の思いと身体の思いが一致しないことから「自分は何をしたいのか分からない」という混乱が出てくると考えています。また指示待ち傾向からは、自発的に「何をしたらいいのか分からない」状態が生まれてくると考えています。さらに別の角度からみると、一生懸命に頑張って困難を極めているのに周囲の人々との交流が少ないため、孤立した状態で萎縮していくことも考えられます。緊張して無気力になっていくのです。

 いずれの場合にも、その根底には親子関係の交流不全があります。子どもが親と何とか話したい時には、子どもは親と言葉を交わして自分の本当の心を引き出そう(明確にしよう)としているのです。子どもが対話を期待していても、対話にならず結論や原則だけで済ます親の話は言葉のやり取りには進展しません。また、子どもの自己発見には進みません。

 「何をしたらいいのか分からない」と言う子どもの言葉に対して、多くの親は「あなたの好きなことをしていいんだよ」と答えます。しかし、本当に悩んでいる子どもにとってはこれは期待している言葉にはなりません。「それは困ったねえ。本当な何をしたいのかなあ」と共に考えて、交流を深めてもらった方が遥かに嬉しいはずです。「あなたの好きにしていい」は一般原則を語っているので、心の交流にはなりません。「私たちはまず生活のことを考えるけれど、あなたはどうなの?」という現実を語り、子どもの現実認識について知ることも大切です。やりたいことをして生活ができればそれに越したことはありません。子どもが考えている理想と親が考えている現実の狭間を埋めていく作業が親子の交流です。

 また子ども同士の交流不全も考えられます。教師との関係も大きく影響しているはずです。その上で人と人との交流が不十分になってきた環境にも問題を感じます。IT機器を通して実態を伴わないイメージの世界だけで人とのつながりの機会が多くなったという環境です。イメージと実態が区別できるような生活場面での現実の交流が、子どもたちの心に希望をもたらすものと考えられます。

 心の交流を事務的に済ますのではなく、人と人とのかかわりの継続が心の豊かさを生むことを理解して下さい。そのためには生活を共有し、その生活から生まれる感情を共有できるように心がけて下さい。

 登校拒否文化医療研究所のホームページは下記へ。

 http://www.asahi-net.or.jp/~pr8y-tkhs/index.htm