フリースペース トウービー主催
登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(3)=1月30日・金=
【愛する相手を探すことの大変さ】
ほとんどの人は快く相手を愛したいし、相手からも快く愛されたいはずです。子どもの場合はその思いはさらに強く、親たちからは特別に愛されたいはずです。そして一般的には手始めに愛せる対象(良い人)を探します。本当はまだ愛されないうちから愛せる対象を探すことはかなり大変な作業となるはずです。でもほとんどの人がそのようにしています。
そして登校拒否・不登校の子どもが抱いた相手に対するイメージや、遠目に見ていて嫌な体験などで「怖い人」であると決めてしまいます。登校拒否の子どもたちがいう「怖い人」のほとんどの場合は自分が作ったイメージから生まれてきた人なのです。自分の愛にふさわしい相手を探すという課題そのものが誤りではないかと思います。これは私の牧師としての主観的な認識です。本来は誰もが自分を大切にして愛していますから、そのような愛が自分にも相手にもふさわしい愛なのです。でも、ほとんどの子どもたちは理想の愛を追い求めます。それは子どもだけではないかもしれません。
1.誰も信頼できない‥‥という傲慢‥‥例えば教師に対して
最初から信頼でき、愛せる相手がいるはずはありません。しかし、ほとんどの子どもも親も「学校の先生だから信頼していた」と言います。自分たちの思い通りに信頼できる相手かどうかは「自分が考えている(思い込んでいる)信頼感」を軸にうまく応答してくれる相手かどうかだけなのです。相手とのかかわりで自分が決めてかかった、その信頼感が揺らぐと「あの先生は信頼できなかった」ことにしてしまいます。
信頼感は相手との相互関係で生産される感情です。「自分が抱いている信頼感」と「相手が抱いている信頼感」の共有ができれば、まさに相互の信頼感が生まれるわけです。ところが多くの登校拒否の子どもの場合、自分が抱く信頼感とのわずかな違和感から、相手の欠点に注目することが多いので、信頼感がなかなか生まれません。自分が抱く信頼感そのものが教科書的で非現実的なこだわりになっている場合もありますから、信頼できる現実の相手を発見したり、実際の信頼関係を作っていくことは困難な作業になるのです。
登校拒否の子どもたちの信頼感に関するこだわりは、かなり強いものがあります。これまでに数多くの「裏切られた」体験をしているからです。裏切られたという前提には「信じていたのに‥‥」という思いが先行してます。信じ方が字句通りの信じ方なのです。そのような信じ方は生きている人間に対して抱く信じ方ではありません。
2.強過ぎる自己愛
ほとんどの人は自分を大切にしています。自分を大切にするように人も大切にするからこそ、隣人愛が生まれます。さらに進んで親密感を抱くことができる相手に対しては、自分を犠牲にするほどの愛し方をする場合もあります。この場合は自己愛を捨てています。親密愛は人間ができる愛の中ではかなり高いレベルにあります。
しかし、時には相手の強い関心を呼び起こすために敢えて自分自身を犠牲にする人も中にはいます。ある宗教ではそのような愛を至上の愛としています。一見、親密愛のようではありますが、現実には相手の愛を獲得するための手だてであって、親密愛ではありません。強い見返りを求めた愛です。登校拒否の子どもの中にはこのような依存を獲得するための愛を実行する子がいます。相手への依存や相手からの愛情の獲得のための言動は、一見は愛情のようではありますが、打算であって愛とは言えません。自分を大切にし過ぎるあまり、相手の愛を強引に引き出す言動に出るのです。
3.自分を大切にしたい理由
たとえば病気の場合、誰もが自分を大切にします。また看病する人には甘えます。登校拒否の子どもたちの仕草は病人に近いものがあります。病人そのものではなくても、心の疲労とか緊張とか、苦痛とか、不安とか、恐怖などが強い状態に置かれていれば似たような言動に出る場合があります。自分一人では乗り越えることが困難な場合にも同じような依存のための強い自己愛が見られます。
子どもたちが強い自己愛にこだわる理由としては、前記のような理由の他にかつて、大切にしたかった自分自信(フロイト流に言えば自体)を無視されたり傷つけられた体験があるからではないかと思われます。子どもたちの発言には必ずといって良いほど「自分が大切にしていたところを親に責められたり」「自分が思っていたほどには、親は自分を大切にはしてくれなかった」というような内容があります。ゆがみが生じて自分自身を愛し過ぎ、必死に守り、他者との関係ができにくくなってしまう元になっているように思われます。自分を愛するように他者を愛するのではなく、自己愛を死守するための方策が練られてしまうのです。
子どもが人を愛することができるようになるためには、子どもは親や影響力がある人々から、その存在や言動を認めてもらえて、さらに褒めてもらうことで他者へのかかわりが実現していくのです。なぜなら、自分を認めてくれたり褒めてくれる人は、自分を支えてくれる人に他ならないからです。誰でもそうですが、自分を支えてくれる人が確実にいると分かっていれば、安心して他者とかかわることができるでしょう。
登校拒否の子どもたちに訊くと「自分を支えてくれた人はいない」と断言する子どもが多いのです。残念ですが、親も教師も子どもを支える余裕は多くはなかったといわざるを得ません。早く良い結果に導こうとするあまり、子どもを叱咤激励していたような気がします。
4.相手次第で変わる愛
誰でも好みはあります。「あの人には愛されたいけど、この人に愛されるのはいやだ」というような関係が宗教の世界以外では通常にあります。言い換えれば「あの人については自分を愛するように愛すことはできない」と言うことです。愛すことができない相手とは「たいがい自分の気持ちを受け止めてはくれない」人なのです。
私たちは子どもの気持ちを受け止めることができるでしょうか。子どもの気持ちを支えることができるでしょうか。子どもが自分を大切にし、人をも愛することができるようになるためには、親や影響力がある人々は子どもの「認めてもらいたい」「支えてもらいたい」という気持ちを満たしていく必要があるのではないでしょうか。彼らが支えてもらいたいと思う大人は、親や親以外でも素敵な人ならいいわけです。そのようなモデルになるような人が子どもの周囲にいれば幸いですが。一番身近な親が、子どもにとって素敵な憧れの的になるのが理想ですが‥‥。
【生活をするということができない子ども】
昭和47年以来、登校拒否・不登校の子どもたちと生活を共にして、子どもたちの様子が徐々に変わってきたことを感じます。特に大きく変わったことは、生活そのものができなくなった子どもの増加です。
生活とは家族や身内や親しいもの同士が寝食を共にし、それぞれの役割を分担して、一つのまとまり(システムとか組織)を作っていく営みです。そのまとまりの中に入らない子どもが多くなってきたのです。
それは生活を共にする親たちの考え方(価値観)やライフスタイル、そして社会状勢にも原因はあります。子どもたちと親たちの養育機能の低下を示すものであります。実際に登校拒否の子どもたちの未熟さ(純粋さとは違う)は、いつまでもゲームや遊びから離れられない所にも垣間見られます。生産性のある役割をいつまでも担わない所にも現れています。
1.同じ時間帯に寝ない
自分の子どもが何時ごろに寝て、何時ごろ起きるのかが分かっていない親が多くなりました。ある親は「私が朝起きた時にはまだ電気がついていましたから、明け方に寝るのでしょうか」と自信なさそうに答えます。「私たちが寝てからも、ずーっと起きているようなので、何時に寝ているのか分かりません」という親が圧倒的な数に達します。「朝は私たちが出かけてから起きているようですから、少なくても午前10時ごろには起きているのではないかと思います」が確信はないようです。「いつの間にかそうなってしまったのです」と言います。寝起きについて子どもに対面し、明確に「何時に起きて何時に寝て、食事は一緒に摂ろうという親は少なかったようです。ほとんどの親は子どもが不機嫌になることを恐れていたようです。あるいは「指示的なことは言うな」と周囲の人々から禁じられていた可能性もあります。
私は「言いたいことはハッキリ言って誤解されたら訂正すればいい」と考えてます。言いたいことも言わない親が増えています。家族ではない私と子どもの生活でも、私は言いたいことをハッキリと言うことにしています。「一晩寝ないでゲームをしていて、健康がどうなるか分かっているの?」などハッキリ言います。ここには私の主観が入ってます。私の主観は私が参加している社会的な共同生活から獲得したものでもあります。子どもが社会的な共同性を獲得することは社会参加のためには必要不可欠です。
2.食事を一緒にしない
「家族と食事はしない」登校拒否の子どもが圧倒的多数です。食事の時間的な一致はあっても「食べる場所は別の所だよ」「食事は自分の部屋で食べる」「親とは別に食べている」といった子どもが多いようです。一緒に食事ができる相手というのは、信頼感が持てる相手であり、親しい間柄でもあります。また食事時に自由な会話ができる相手でもあります。これが他人ならかなり気を遣った食事になってしまいます。他人との食事では、当然、自由な会話は出来ません。
食事を共有しないことにより起きる弊害は大きなものがあります。偏食による身体の不調、内分泌的及び生理的な不調、そこから生じる気分変調、不規則な食事による日常性の喪失、心身のバランスの悪化など、数え上げたらきりがありません。心身の問題だけでなく、一堂に会した所での会話が不足することで、家族としての共同意識の伝達が不十分になり、家族としての共同性の獲得ができなくなってしまいます。その典型としては、箸の持ち方の凄まじさです。茶わんの持ち方も同様です。そんなものには気を遣わないという方もいるかもしれませんが、不器用さにつながっていくと感じているのは私だけでしょうか。動物のお医者さんとしては原始人のような食器の持ち方、犬の食べ方、猫と同じような食べ方が気になります。
テレビを観ながらの食事も褒められたものではありませんが、話題が豊富になるという点では結構良いかもしれません。
3.家族の中の役割分担をしない
親が食事の支度をしていても手伝わないでテレビを観ていたり、ゲームに熱中していて手伝わない子どもは多いはずです。本来生活は家族全員がそれぞれ役割を分担することで滑らかに進行し、会話も弾みます。どんな親でも子どもが手伝うことができる年ごろになれば「手伝いを期待する」はずです。その理由は手伝うことで対話ができるし、体験が豊かになるからです。食事の支度でも始めに冷たいものから作り、温かいものは後から作るなどの手順を学ぶことができます。片づけの場合も手際良さを体験できます。清潔感も身につきます。親子の対話もできるはずです。生産そのものではないのですが、生活が進行するという点では生産性に似ているから、後の社会参加のために何らかの役に立つはずです。
4.何でこうなったの?
いずれにしても登校拒否の子どもも、また学校に行っている子どもも、似たような状況にあると思います。原因としては親子の対話が減少したことに尽きます。そして対話があったとしても本音の、あるいは本当に必要な内容は伝わっていないという状態になっているのではないでしょうか。
「あの子と話をするのは苦痛です」「あの子に話をする時には緊張します」という親が多いのです。自分の子どもと話をするのに、なぜそんなに緊張するのでしょうか。「怒らせないため」とか「ぐずらせないため」とか「勉強させるため」などという親がいます。 子どもに言わせると「うちの親は親らしくない」ことになります。「あまり当てにならない人だ」という子どもさえいます。
親としての自信がないという親が多くなっています。自信が最初からあるはずはないのです。その前提としては「私はこの子をとても大切にしている」という愛情があるかどうかです。そして「私は自分も大切だけれどこの子が一人前になるまでは、多少の自己犠牲もいとわない」という自己愛と他者愛との葛藤が必要です。誰でもそうですが、自分を大切にしたいものです。そのような愛情を元に子どもも愛することができるのです。
人とのかかわりで愛を恐れる大人が増えてしまったような気がします。愛することに煩わしさを感じてしまう人たちです。それはほんものの愛ではなく、義理だけのお体裁なのです。体裁を整えることはできても本物の愛については獲得できてない大人がけっこういるのです。「人が好きですか」「人との付き合いが好きですか」「人を大切にすることが面倒臭くはないですか」。そして「自分自身をも愛していますか」という問いかけを自分にしてみて下さい。
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