子どもの自立を考える集い

フリースペース To Be主催

登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(1)=7月1日・木=

 大曲市のボランティアグループ「フリースペース To Be(事務局・日本キリスト教団大曲教会・横井伸夫牧師)」主催の「子どもの自立を考える集い」がこのほど同市の中央児童館で開かれた。講師で登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「「子どもをめぐる対人関係づくり」と題して講演した。

 高橋さんは内閣府青少年問題相談機関の一員。昭和47年から登校拒否・不登校の子どもたちと共同生活をしている。心の相談室、フリースクール「好文堂教室」、生活体験
学園「大須学園」を運営している。全国各地の不登校・引きこもりの親の会にも協力している。

不安と恐怖と悪意の芽生え】

 親や指導的な立場の人々が、言葉を覚え始めた幼児、小児に対して言語教育やしつけ面で子供たちに賞罰を与える事は当然のように行われてきました。子供にとっては、賞は快さを伴い「よい自分」に結びつけていきます。罰は深いとか痛みとかを伴い「悪い自分」につなげていきます。それはほとんどの子供に不安と恐怖を植えつけます。

 恐怖は、うまくいけば不快で痛めつけられた対人関係の要因を検討し、その本質を見極め、自分の将来の予測に要因を取り入れ、恐怖の再発予防を可能にします。不安は、そのような再発予防策がほとんどできません。不安は心の底辺でいつもくすぶり続けて子供の心を苦しめます。

 多くの場合、与えられた罰が子供に納得できれば「悪い言動をした自分」として受容できます。自分の言動に再び罰が与えられないようにしていきます。そのことは与えられた罰に従い(甘受し)、「(擬人化された)よい自分」へ向けて修正していく努力となります。「親子関係」や「指導する、指導される関係」において、子供が納得できるような状態での賞罰が与えられていれば、その後の子供は今の状態で、将来も見つめて自分がどのような言動に出る事が適切かを理解していきます。

 やがて成長して親たちの言い分に納得ができなくなると、反抗も可能になります。しかし、親たちの権力が強過ぎると見かけだけひたすら従順な(欺く)子供になっていく傾向が起こります。

 1.納得できない罰‥‥嫌悪感の生成

 親や指導的な立場の人々から子供の言動に関して、子供が納得できない状態で痛みや苦痛を伴う罰を与えられた場合、その子供は「本当は自分は『悪い子』ではないのに、相手からは『悪い子』とされている」と不本意感を抱きます。その子どもの意義には「『悪い子』とは、親が思い込んで誤解した内容の自分である。親たちの誤解とは違うところに自分の真意(本来の姿)はある」という不本意な感覚です。不本意に思った子供は親たちに弁解します。その弁解が親たちに受け入れられれば、子供の気持ちは苦痛から解放される方向へ向かいます。親たちが聴く耳を持たずに、一方的に子供の弁解を否定すると、子供は真意が通じない苛立ちを親に感じます。やがて子供は親には「素直には謝らない」ようになり消極的な沈黙をします。謝罪せず従わないことでさらに親たちからの罰が行われた場合、子供は罰を与えた親を回避しようとします。子供の言動に関して、親たちからさらに継続的に誤解され続け、罰が与えられるパターンができていく場合、子供は自分の言動を親たちには見せない(見られない、隠す)努力をし始めます。自らの言葉封じです。

 やがて子供自信が成長し、仲間うちで親や教師の罰などに関する検討能力が高まってきます。その仲間うちで親たちの仕打ち(罰)が明確に誤解であったり偏見であったり一方的であると理解し(思い込みもある)、しかも親たちに反抗もできない場合、子供はそのような親たちに対して沈黙し、回避感情を生み、さらに嫌悪感情にまで気持ちを高めてしまいます。

 子供が抱く嫌悪感情の生成段階で、親や教師たちが自分たちの誤解に気づいた場合、うまく修正すれば子供は自分たちの正当性を取り戻し、沈黙や消極性から抜け出し、子供社会への参加が豊かになります。嫌悪感情の生成段階でさらに追い打ちをかけるような罰が親たちから子供に与えられると、子供の心には嫌悪感に続き、敵意が生まれてきます。

 2.悪意の成長と隠蔽

 親や教師らの権力者から誤解され罰を与えられ続けた子供は、嫌悪感に続き、彼らに敵意を抱きます。自分の味方ではないという程度の敵意ではなく、かなり攻撃的な敵意です。その攻撃的な子供の意思が、親や教師に悟られた場合、さらに罰が激しくなるように予感ができる子供は、この敵意を親や教師などの権力者の目から隠そうとして沈黙を強化します。

 一方、登校拒否、引きこもりになりやすい傾向の子供の場合には、親や教師にたいする敵意から反転して、絶望に近い感情を抱く場合があります。登校拒否や引きこもりの子供たちが、自分の問題言動を一生懸命に修正しても、親や教師からの罰という攻撃(批判や非難や否定、拒否など)が終わる見込みを立てられないからです。登校拒否や引きこもり傾向の子供たちの無気力や絶望は、本人の性質気質もあるかもしれませんが、このような権力者の暴虐や、無理解から生まれる可能性の方が高いのです。

 登校拒否、引きこもりの子供たちはもちろん、登校できている子供に対しても、権力者たちからの慢性的な罰(いわれなき苦痛)が継続的に行使された場合、子供たちは心に悪意を生成します。その悪意には回避感情はもとより嫌悪感や増悪感を含み、最終的には殺意も抱きます。

 多くの学者たちは小児期にはすでにこの敵意や悪意が芽生えると主張しています。その時期は言葉を覚え始める時期と一致しています。子供に言葉を教える親の厳格さやしつけをする親の態度が、今までの優しい親の状態を一変させます。親が子供に納得できない体罰やら暴虐を振るうと、子供は豊かな自尊感情の獲得に停滞します。親や指導者は子供にとって人間性の理想の鏡です。本来的に理想的な位置にある人々からの子供へ向けての暴虐は、子供の自尊感情や社会性がある心の成長を妨げます。「他の人には絶対に言えない敵意や憎悪や悪意」を抱いたままの対人関係は必ず停滞します。豊かな心の成長の獲得には貢献しません。

 3.敵意、憎悪、悪意が表面化する時期

 思春期の性成長と共に敵意や悪意や憎悪は衝動を伴い表出してきます。回避や嫌悪程度ならまだしも、敵意や憎悪や悪意は行き過ぎると殺意にまで後退(深化)します。父親の暴言や虐待に苦悩した登校拒否の子供は、父親を殺す目的でナイフを密かに持っていました。その父親が母親にも暴力を振るった晩、子供(14歳)は父親にナイフを突きつけました。母親が止めに入ったために大事には至りませんでしたが、似たような事件は起こっています。母親の首を締めた、父親の頭をブロックで殴った、いじめていた子供をナイフで刺したなど、これらの事件が起こるのは特に思春期(女子12歳、男子13歳から女子17歳、男子18歳)の年齢に多発しています。彼らが口を揃えて言う事は、親や教師からの暴虐(虐待)体験があったことです。言葉を覚え始め、痛みを知覚でき、苦悩する力が生まれた子供に対する暴虐は、子供の敵意や悪意や憎悪を心の奥底に隠蔽させます。

 性成長の衝動性が強くなる時期には心の制御機能を突き破り、周囲の関係性や環境とは無関係に、敵意や悪意が殺意となって表面化する可能性もあります。敵意や悪意が特に内面化する場合、自分の心身を傷つけたり精神や神経症様状態を示します。このような状態も前記の年齢に多発しています。特に14歳17歳は危険年齢です。親たちは子供の人間性や生命に随伴して存在する自尊感情を尊重して子供と関わって下さい。

【社会参加しない人々の特徴】‥‥社会参加へ向けて

 閉じこもり、引きこもりの人々との関わりが増えてきました。どこまでが閉じこもりであるかという定義は他の人々に譲ります。ここでは生産性がある社会に参加しにくい人、していない人に焦点を当てます。家族関係以外に人との関わりも一年間に数回程度の人々です。

 1.働くことに意義があるの?諦迷感・意欲の拡散

 たいがい、勤労意欲が失われて、自宅に居続けるようになります。いくら働こうとしても、現実の仕事に集中できない状態が事前にあったようです。例えば重要な家族が重病になっていたとか、信頼している人が心配のタネになっていたなどです。本人の自覚には意識化されない場合が多いようです。恋愛で、気持ちが仕事どころではなかったという場合もあります。仕事に熱中しようとしても趣味の予定が頭から離れずに、仕事でミスを重ね上司や同僚からの批判や責任追及などで不快な体験をしていたという場合もあります。あるいは頻繁にポルノを観賞した結果、仕事中でも性的なイメージが頭から離れなくなってしまったという人もいます。様々な経過をたどった結果、「この仕事は自分には向いていないのではないか?」「本当に自分がやりたい仕事は何か?」「こんな仕事をしていて、自分に何の役に立つのか?」などと悩みます。「それより自分が好きなアニメを観ていた方が心が充実する」「パチンコをしていた方がスッキリする」「ゲームをした方がこんなくだらない仕事よりましだ」という、本人にとっての合理的な結論を見つけ出します。自分の生活についての検討を自覚の外に置いてしまいます。これを好ましくない選択的非注意といいます。

 そして「生活には困らないだろう」という予感が根拠となって、自宅に居続けることになります。多くの閉じこもりの人々はたとえわずかではあっても消費活動はするものの生産活動はほとんどしていません。本人が黙っていても、周囲に生活の面倒をみてくれる人が必ずいるからです。

 2.時間議の喪失

 「こんな仕事ばかりしていて、このまま歳をとってしまったらどうしよう。もう若い時代は帰って来ない。どうしよう?」という気持ちが沸き上がってきたという人々もいます。「いつまでもこのような仕事ばかりでは、本来自分がやりたかった趣味ができなくなってしまう。もう若い時代には戻れない。若い時にしかできないことがある」と考え、自宅でギターばかり弾いていた人もいます。この場合も選択的非注意の好ましくない使い方をしています。いずれも自分の年齢と社会的な時間の経過、それに伴う自身の変化がかみ合わない状態に陥ってます。

 前兆としては仕事と時間の関係で将来の展望に希望が持てなくなり、一気に老化したように考えてしまったり、自宅に帰って、まるで思春期の時代のように母親にごねたりします。そういう自分に対して、ふと我に返った時に悩みます。「こんな自分はだめな自分で社会に出てもろくなことはない。家で甘えても親たちにバカにされるだけだ。それでもどうしても社会のペースには馴染めない。親に顔を合わせさえしなければ家にいた方がましだ」という結論を出します。

 人間社会も自分自身も経時的に変化し、変容することに期待が持てなくなる状態です。現状の関係と環境が永遠に続くはずはないのですが、自分自身の変化に予測が立てられず時間の経過に恐怖を覚えるという人もいます。「こんな時間を過ごしている自分はバカになってしまう」とか「このままでは自分の成長はない」という焦りも出てきます。現実的には家に閉じこもってしまった方がもっと成長はなくなる可能性があるのですが‥‥。そのようには考えられない自己(像)ができているのです。

 3.過剰な勤勉さ・過剰な同一性

 それまでの生活が余りにも多忙過ぎて、行き詰まってしまったという人もいます。例えばとても繁盛している企業にいて残業が続いたとします。ストレスが溜まるからスポーツジムで発散し、ハイキングクラブにも入会し、絵画教室にも通い、ギターも習うという努力する人です。彼は仕事も含めて全てのことに熱心に取り組みます。これでは息切れを起こすのが当たり前です。ストレス発散のための活動がさらにストレスとなるわけです。慢性披露症候群と呼ばれるような状態に陥ります。新しく何かに取り組もうとしても「どうしても身体が言う事を利かない」のです。そのうち「気持ちも萎えてくる」のです。このような状態になり、家に居続ける人々の多くは「身体の具合が悪い」のだと主張します。当初こそ幾つかの病院を転々としますが、やがて「どの医者もやぶ医者だ」といい、治療にも取り組まなくなり、自宅に居続けます。身体感覚と自分の気持ちの行き違いや食い違いを埋めるほどには自律性ができていません。従って一度自律のリズムが狂うとなかなか回復しません。回復のためのやり繰りにも未熟さが観られます。例えば「朝起きるためには一晩寝ない」方法を選んでしまい、翌日の昼間は結果的に仕事や対人関係ができない事態を生みます。

 4.人との関わりの不安

 対人関係の相手と、ほど良い距離がつかめない人も閉じこもる場合があります。思春期の頃に「写真に写されるのは嫌だ。自分が自分ではないようになる」と不安を抱く子供はいます。同様に相手との関わりで「相手のペースに巻き込まれ、本来の自分ではない人になってしまう」との不安を抱いたり「相手の人間性に飲み込まれ、自分と相手との区別ができにくくなってしまう」不安を抱く人もいます。これは自分自身が相手に対してどのような立場かとか、どんな役割かとか、相手からどのように観られているかが、見当もつかない状態になっている人にしばしば起こる感覚です。対人距離感の喪失とでもいいましょうか。環境や関係によって変化しても良いという自己確立ができていない結果、生じる危機です。

 5.自己の修復に必要なのは‥‥

 本人にとっての理想的な人がかかわり続けることです。そんな人が簡単には見つかるはずがありません。従って家族が本人の理想化自己対象としてかかわることが最初の手だてです。どんな人でも自尊感情は必ずありますから、家庭生活の中で、その自尊感情に触れる「誉め言葉」「支える言葉」「感謝の気持ち」を交わす事が大切です。相手に気を使う余りの沈黙は気まずいものです。家族間の会話ができるような環境づくりが必要です。例えば犬や猫、鳥を飼い、帰宅したらその様子を聴くのは自然の成り行きです。例え本人が出ようと出まいと関係なく、留守中に誰か来たかどうかを尋ねるのも自然な会話です。家族の知り合いが訪ねてくることを拒否する必要はありません。その家族に見合う自然体の生活を勧めることが閉じこもりの人の呼吸には合うはずです。気持ちを言葉にしてみましょう。

登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。

http://www.asahi-net.or.jp/~pr8y-tkhs/index.htm