フリースペース To Be主催
登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(2)=7月3日・土=
大曲市のボランティアグループ「フリースペース To Be(事務局・日本キリスト教団大曲教会・横井伸夫牧師)」主催の「子どもの自立を考える集い」がこのほど同市の中央児童館で開かれた。講師で登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「「子どもをめぐる対人関係づくり」と題して講演した。
高橋さんは内閣府青少年問題相談機関の一員。昭和47年から登校拒否・不登校の子どもたちと共同生活をしている。心の相談室、フリースクール「好文堂教室」、生活体験学園「大須学園」を運営している。全国各地の不登校・引きこもりの親の会にも協力している。
【引きこもりから社会参加への対人関係】
私が(1972年以来)今日までに関わってきた引きこもっている人々の心には幾つかの共通点が見られました。一つは本来、その時に気にして検討するべき課題に取り組まず、後回しにしていたことです。二番目は世間が気にしていようがいまいが関係なく恥を自分で強く感じることです。三番目は孤立からくる孤独感です。そしてもう一つはそれまでの体験が心の豊かさに組み込まれることなく末構成のままで、解離的な状態が思春期から継続的にあったということです。どれがあっても対人関係は停滞します。何らかの不都合な対人関係で、再度苦しい体験をしたくない思いが強まり、警戒し過ぎて、薄い対人関係とか、距離を置き過ぎた関係になってしまいます。昼夜逆転生活、家から出ない、人とは会わないという課題は表に現れた現象であって、その表に現れた気になる現象(問題)から、本人の日常的な状態をもう一度検討していけば問題解決の糸口が見えてきます。
1.避けたいもろもろの問題=選択的非注意の好ましくない用い方
閉じこもっていた人々との面接で、彼らは気にしても仕方がないようなことに、より多くおん関心と時間を費やしていることに気がつきます。例えば、付き合っていた異性から「変な顔」と言われたことを気に病んだり、会社の上司から「お前みたいな貧乏性はいない」と決めつけられて気にしていたり、教師から「どうしてお前は他の学生と同じようにバカ騒ぎできないのだ」と言われ、真剣に悩んでいたりします。顔や性質、気質は個人差があり、クラスの学生にしても「皆同じ」であるはずはありません。しかし、世間ではそのような批判や非難や叱責いをする人は多いのです。
多くの子供たちは学校集団生活の中で、子供同士の摩擦や教師との軋れきを体験しています。その都度、子供同士は折り合いを付けてきています。教師に対してはやり過ごす技術や弁解の技術を身につけてきます。これらの体験を自己に構成して社会参加をしています。
全ての前提としては幼児期、小児期には家庭生活で、親子の諍(いさか)いや兄弟姉妹間でのケンカなどを通し、和解の仕方や折り合いの付け方や自己了解の方法などを体験しています。起こった問題が重要な課題であれば、その問題体験が起こった直後の課題について検討し、解決方法を身につけ、今後の生活に備えて問題が起こらないようにします。重要な問題なのに家庭内対話が希薄だったり、問題解決を後回しにした場合、やがて「面倒なことには触れない」という家族間での合意の回避感情が生まれてきます。大切なことなのに、嫌なことには顔をそむける習慣が身に付いてしまいます。このように選択的非注意状態を成人になってからも好ましくない用い方をする場合が起こります。その代わり悩まなくても良いことにばかりに注意や関心が向かってしまうという、さらに好ましくない状態を生みます。
2.恥が心の中に必要以上に強く起こる
恥ずかしい思いをほとんどの人は体験しています。そのことで社会参加を放棄するほどには滅多になりません。恥ずかしい思いをした原因に関わる合理的な説明、弁解ができるからです。恥に関わる自己防衛をしない閉じこもり傾向の人々は「恥ずかしいい思いをするくらいなら、家にいた方がまし」だと思い込みます。理由は「わざわざ恥をかくために社会参加する必要はない」からです。多くの人々は「恥をかくかもしれないけれど、いいこともあるかもしれない」との期待があって参加します。もちろん恥になるかもしれないことに関する防衛もしています。閉じこもる人は「いつも恥をかかされるだけ」であるとの確信を持ちます。「少しだけのいい思い程度なら、絶対に恥をかかない方」を選ぶのです。つまり社会参加しない、否定的方向で恥をかかないようにします。これを否定的同一性といいます。恥はその人独特な主観であって、客観的で絶対的な真実ではありません。従って誰もが恥を感じない生き方はできないし、全ての人に共通する恥もあり得ないのです。例えばキリスト教文化圏ではゲップ(暖気)は失礼なもので、汚いし、恥とします。聖書にある「(口に入るものは不潔ではなく)口から出るもの(言葉)の方が汚い(相手を傷つける)」というような記述からきています。欧米の一部では生理現象の放屁は恥にもなりません。日本では理解しにくいマナーの一つです。さすがに不本意にも犯罪を犯した時には恥を感じます。その犯罪を拡大解釈して、閉じこもり傾向の人は罪と恥を同一視したり、恥と悪を混同していたりします。
3.気がつけばいつも独りぼっち
閉じこもっている人々の多くには仲間はいないか、いても1〜2名です。仲間といっても親密感を抱けるような仲間ではなく、ついでの仲間程度です。何かのついでに声を掛けてくれる仲間、人数が足りないからついでに呼んでくれる仲間です。このような事態に陥る前段階として「相手とは深い付き合いをしなかった」状態があります。「深い付き合いをした場合、自分の無能さや無様さが相手に知られるのが嫌だ」「親密な付き合いになると気疲れする」「これ以上相手に近づくと相手の嫌な面も見てしまう」「相手に自分の本当の姿(特に世間的には悪い面)を知られたくない」などといった気持ちが先行しています。いくら相手が親密感を持って接近してきても、本人が警戒していたのでは、よほどの人ではない限り、親しみを覚えなくなっていきます。気がつけばいつも独りぼっちなのです。
4.そんなこと言った?そんなことあった?解離的な状態
閉じこもっている人々の多くは思春期のころから解離的な状態が表面に現れてきます。体験していてもその体験が心に構成されていない状態に陥っている可能性があります。耳から入った音声も、心の構成(聴覚神経)に届かなかったような事態になっています。仮に届いていたとしても意識には連絡していかないのです。あるいは構成されなかった体験と結び付いてしまし、表面的には意識されない場合もあります。これを解離と呼びます。例えば親「朝、あれだけ声かけして、あなたが『はい』って言ったから起きてくるかと思ったのに」。子「エッ!。起こしてくれたの?声、聞こえなかったよ。返事なんかしてないよー」と言った事態が起こるのです。昨晩語っていた決意を、朝起きた時には完全に失念している状態です。
解離的な現象は閉鎖空間に長時間いて、単純反復刺激の中で区切りのない生活時間を過ごし、対人対面関係が少なかった場合にも起こります。体験が心に構成されない理由としては、環境や対人関係の圧迫が強かったり、社会的な状況に違和感を強く感じるような場合が考えられます。
5.自尊心の確認
生きている限り、人間にはある整った条件(環境や関係)のもとで自尊心が維持されます。完全、希望(期待)、満足、正義などが満たされれば自尊心は機能し活動的になります。閉じこもっている人々は前記のような条件を自分では作りきれないのです。関わる人々の支援が必要なのです。
【引きこもりから社会参加への対人関係】2
引きこもりの人々にも自尊感情はあります。「もう、どうなってもいい」「どうせ駄目なんだ」といいつつも「死」を選ばない心の底には、どこかで「生きていてこそ何かある」という期待もあります。生命に関する畏怖の念です。彼らの負の感情に関わる神経伝達システムが活性化しているだけであって、自尊感情が消失したわけではありません。しかし、前号でも述べましたが、自分が生きていく上で重要な問題には取り組みにくく、「対して重要ではないけれど気になることばかりを気にしてしまう」傾向があります。その背景には本人に気にさせてしまうような人々、あるいは本人が気にし過ぎていても黙って見過ごしているような人々が周囲にもいた可能性があります。
閉じこもる人々の混沌とした自己に関わり、方向性や輪郭を形成するために、本人の自尊感情に触れて、本人の生きる喜びに触れることができるようにしてきた人はいたとしても少数でしょう。
1.どんな人となら対話できるの?
ほとんどの閉じこもり状態の人々が対話をできるとしたら「母親に限られている」と言います。対話の相手として母親以外では極めて少数ながら、友だちという人がいます。それも小学校の時からおん付き合いという人とか、中学校の部活で一緒だった人などです。高校や大学、専門学校や短期大学などでは親しい友だちはできていなかったようです。 閉じこもっている人の対話の相手としての母親のほとんどは「ほぼ完璧に育児をしてきた人」と「ほとんど育児ができなかった人」とに大きく二分化しています。いずれの母親にも悔いがあります。「あまりに細々とていねいに関わり過ぎたのかしら?」というものと、「忙し過ぎて、関わることができなかったのが悪かったのかしら?」といったものです。そんな単純な因果関係だけで、長期にわたる閉じこもりが成立するとは到底思われません。それよりも父親が対話の相手として全く参加していなかったということの方が重要な問題を感じさせます。サリバンら多くの対人関係療法家(CR.クロニンジャー、H.コフート、DB.スターン)たちが言うように社会参加の前提としての家庭内三者関係は幼児期の体験としてはかなり重要です。父親が子供の育児に関わらなかったことさえも、母親たちの多くは「私が関わらせなかったから」とか「あの人(子供の父親)は口下手だから、私が積極的に関わったのが悪かったのではないかとか「あの人は短気で子供が好きではなかったみたいだから、関わらせないようにしていたのがまずかったのかなー」と言った類の反省が強く見られます。母親がそのような過去にこだわり、考え込んでしまうこと自体が問題です。過去の出来事の全ては現存の本人の自己形成に何らかの積み重ねとして貢献しているはずです。
どんな場合でも、一方から見ての貢献は別の角度から見たら足を引っ張ることにもなりかねません。だから、これこれが原因だろうとか、あれが悪かったのではないか、といった論議をすること自体を中止して「今、本人がどんな人と話をしたいのか」を見つめて下さい。悪い体験をしてきたから悪い結果を招くとは限らないのです。子供たちがどのような体験においても、現実検討した方が良い場合と、そうではない場合とに区別できたかどうかなのです。サリバンがいう焦点性意識の制御ができていたかどうかなのです。焦点性意識制御ができるかどうかは、それまでの同世代生活体験上、同世代間の共同性(同世代の常識)という基準を体験できて理解しているかどうかでもあります。その基準を受容的に理解するためには対人関係などで起こる様々な事態に関して、重要な出来事かどうかの区別ができて、その都度検討が加えられ、この次に備えるような体験ができていたかどうかなのです。
2.父親の影響力
母親が強い影響力を持つのは乳児期なら当然です。父親の影は薄いはずです。それでも乳幼児には単調な母親だけの関わりよりは薄い影も必要です。父親の存在だけでも複雑な関係が生まれるからです。母親の優しさが減少する幼児期には父親の影は以前より濃くなるはずです。「お土産を買って来たよ」「今、お母さんは忙しいからお父さんとしばらく遊ぼう」「お父さんとお風呂に入ろう」など関係性は多くなり、複雑になります。母親だけの単調な関わりから変化して父親との関わりが暴力的だったり、強圧的だったり、本人にとって不満な関わりが多過ぎれば、子供は父親との関わりに対して消極的になり、母親との関わりを強く求めるようになりますそれでも父親が自分の言動が子供の心に受け止めきれないことに気づかない場合、子供は父親を回避します。後に成長してからの閉じこもりの人々の父親回避ソックリです。
父親の影響力は母親と比較して薄くてもいいのです。母親の協力で父親の言動は心に響き、心に残る状態が起こります。反対に母親の父親(配偶者)への不満や不安、恐怖によって、子供は父親への感情を、母親に同調させます。その結果、父親の言動に関わる選択的排除が自然に行われるようになります。母親の言動には馴染みますが、父親の言動は意識の中からは除外するのです。これでは複雑な関係や環境の社会への参加はしにくくなっていきます。家庭内の母親との関係だけで全ての問題を解決しようという方向に向かいます。その子供にとっては母親は全ての問題解決のための百科事典のようなものなのです。母親全能感が抜けきれていません。閉じこもりの人々にも似たような感情が心の隅にあります。
3.母性、父性を持ち関わる人
母性や父性は性差別とは無関係に心の成長には必要です。心の成長は社会参加できる豊かさに広がり、高まり深まるまで欲しいものです。母性や父性は成長した子供が男性や女性として社会参加していく基礎になります。
閉じこもっている人々(登校拒否の人々にも)には母性と父性の関わりが必要です。それは必ずしも生みの親たちではなくてもいいのです。その人の気持ちに寄り添うことができて、その人が理想に思う相手であれば良いのです。その相手には母性なり父性が備わっている必要はあります。母性や父性は神話的な要因ではありません。現実的に養育したい気持ちがそこには含まれます。養育したい気持ちには安全感や満足感、正義感に貢献する要因が含まれます。その気持ちは本人の自尊感情も高めるはずです。そのような関わりでなければ、閉じこもりの人々の多くは相手との関係に持ちつ持たれつの関係を認められなくなり、自責の念に苦しむことになります。
関わる人は養育者的ではあっても、閉じこもっている人と同等の人間であるという立場を理解し、実際に同等感覚を実践できる人です。
登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。