子どもの自立を考える集い

フリースペース To Be主催

登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(1)=5月24日・月=

 大曲市のボランティアグループ「フリースペース To Be(事務局・日本キリスト教団大曲教会・横井伸夫牧師.)」主催の「子どもの自立を考える集い」が23日、同市の中央児童館で開かれた。講師で登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「子どもの心の成長をうながすために」と題して講演。高橋所長は「この講座で話すことはほとんど子どもたちから学んだもの」と述べ、「対人関係の苦手な子は一人遊びが好きで、孤立しがち。そして親を困らせない」などとその特徴を語った。2回にわたって掲載する。

【対人関係に影響する諸要因】

 講師の高橋さんと横井牧師対人関係を形成したり継続していく上で、幾つかの要因が促進的影響を与えたり、停滞する要因になったりします。それは必ずしも普遍的な要因ではなく、環境や関係、時と場合により変化します。ここでは引きこもり傾向の人々や登校拒否・不登校など思春期から青年期の性成長の最中にある人々に焦点を当てて観ていきます。その前提には「好き・嫌い」「快・不快」や「喜怒哀楽」など主観的な感情が先行してあります。また、その人によっては、シンボライズされた相手の一部が、相手のすべてに相当する(世間で言うフェチ)の場合もあり、その人が抱いている自尊感情にも影響されます。ここで述べることは普遍化するにはかなりの無理があります。方法論としてみてもらいたい。

 1.親しさ、親和性
  この感情は対人関係を始めるにあたり必要不可欠です。継続する上でも必要です。幼い人なら、a.繰り返し反復していつでも再会できる、b.相手と自分との関係に快適な状態があり、c.持ちつ持たれつか、いつも依存できる相手であり、d.自分の好みの外形(容姿容貌)を持ち、e.自分と気持ちを合わせること(共感)ができる、そのような人に親和性を抱きます。さらに成長している人なら、f.心が豊かな人で、g.自分の役に立つ人で、h.尊敬できる人です(W.マクドウーガルから、以下同様)。

 身近な人に親しみを憶えるのは当然です。回数多く出合う人に慣れてくるのも当然なことです。心が豊かなら親しみを感じます。

 2.尊敬でき、信頼できる
 相手が自分との関係で、尊敬できる人であったり信頼できる人であれば、対人関係は継続されていきます。そのためには、a.自分を欺かない人であるという確信が体験的に得られ、b.自分を大切にしてくれて、さらに他の人にも親切な人で、c.正義感が明確にあり、d.どんな人に対しても悪意や軽蔑の念を抱かない憐れみがある、という条件が必要です。
 精神的に崇高な人なら信頼できるし尊敬もできます。

 3.類似の人への好意
 相手に対する好意が自己内部の類似性を発見させるのか、自分との類似性を持った相手に接近するのかは明確には言い切れませんが、お互いに似た者同士には好意を抱く傾向があります。親が自分の子どもを可愛い(好ましい)と思う根拠に、その子どものどこかに親との類似性を見出すからではないでしょうか。でも、最近の親はそうではない人も結構いることは確かですから、一概には言い切れませんが‥‥。一般的には人は、自分が好意を寄せている人は自分にも好意を抱いている(寄せているはずだ)と思い込む傾向があります。自分が好きになった人は自己対象自己として、単に自分があの人を好きになっているという自分を反射しているだけの器なのに‥‥。したがってインターネットで知り合った者同士の好意や恋愛感情は単なる「類は友を呼ぶ」現象に他ならないのです。

 相思相愛は、自分が相手を好きになった結果、相手も自分を好きになってくれたという経過を生みます。また、相手が自分に好意を寄せていることが分かった結果、自分も相手に好意を寄せるようになったという経過も生まれます。

 4.肯定的な評価と否定的な評価
 自分のことを否定する人からはなるべく離れていたいものです。しかし、自分のことを肯定的に評価してくれる人の側にはいつもい続けたいものです。肯定的な評価は好意に連続していきます。否定的な評価は回避に連続していく傾向があります。対人関係にとってはとても大切な部分です。

 5.コミュニケーション構成要因
 話し手と聴き手の個人要因は大きいはずです。コミュニケーション手段などの関係も重要です。どんなコミュニケーションのメッセージも声(音声)、身振り手振り、視線・まなざし、発音・リズムやテンポ・訛りなど、顔の表情などの身体などを通して、相手に伝えられます。そのどれかにおいて好ましい感覚が生まれる、嫌悪感が生まれるかで、コミュニケーション手段を取る傾向があります。当然、好意を抱く相手に対しては言葉数も多く、発言時間も長くなり、向ける視線の時間も長くなる傾向があります。ただし、この場合の視線は、緊張を喚起するものではなく、温和な視線です。以下はアーガイルの意見です。

 a.接近の力とは相手に視線を向けることで、自分の言動についてのフィードバックを求めようとしているものであって、相手との関係を確実なものにしようとする親和性欲求の一現象である。反対の回避の力とは見つめられることにより自分の内面が相手に知られるのではないかという恐れであり、相手が取るであろう拒否的な反応を認めたくないという動機の表れである。この両者の緊張関係のバランスでコミュニケーションの量は決まってくる。

 b.視線の量には相手との親密さにふさわしい均衡地点がある。その均衡がずれると不安が生じ、その不安解消のために(バランスが取れる方向を目指して)視線にかかわる行動を変えようとする。

 c.視線というコミュニケーションチャンネルの均衡に変化が生じた場合、その次元内で他のチャンネルでの調整が困難な場合、別のチャンネル(例えば、対人距離や話題の内容や微笑みなど)で調整しようとする働きが相補的に行われる。

 これらの理論の活用で、対人関係の活性化を図ることはできるが、心に過敏さを抱き、相手に不信感をイメージする人に接近する場合、私たちは、c.ロジアースが言うようにカウンセリングマインドの一部を借用して、確かな関係づくりから始めなければなりません。

 5.対人関係の形成のために
 グループトレーニングは最適です。しかし、外出しぶりや、対人関係拒否の人々には、その前の操作が必要です。家族関係の調整が必要です。家族が正義感や道徳心や一般常識は捨てて、そこにいる子どもの存在を大切にする空気を協力して形成することから始めます。子どもが役に立つとか役に立たないとかは無関係です。生きる意味を教える(説教する)ことよりも、子どもの隣人でい続けることが大切です。また、困っている子どもの状態を理解し、悲哀感、憐憫感を共有することも大切です。もちろん関わる人はうろたえたり、困惑なしで関わり続けることが大切です。

 家族としては外部の専門家からの示唆のうち、活用できるものを利用する勇気が必要です。不適応を起こしている人が、心を開き始めたら、専門家に会わせて下さい。強引なことはしないで下さい。

【子どもの不安の原点は?】

 登校拒否・不登校をしている子どもたちの多くは、「何をしたらいいのか分からなかった」とか「誰の言うことを聞いたら(言うことに従ったら)よいのか分からなかった」などと言います。なぜなら、何かをして「批判されたり、難癖をつけられている子どもを見ていたから」だといいます。一方の主張を受け入れれば、もう一方が不満をもらすような状況がしばしばあったと言います。

 普通、子どもが児童期になる頃までには「家で誰が大切な人か」「クラスでは誰がリーダーシップを取っているのか」などは漠然と分かってきます。ところが登校拒否になる子どもの場合、そのような見方で周囲の関わりを見ていません。自己対象となる相手が存在と心において不安定なのです。その影響で子どもの心の芯(中核をなす自己)も不安定なのです。

 1.不安の中にある自己感の不全(弱い自己感)
 一般的に親や教師は子どもが自立の方向へ向かうように仕向けます。その目的に合うように、親は意図的に、子どもが親や教師をあまり頼りにしないように、厳しくしつける傾向があります。その場合、子どもは「親や教師に頼ったらいけない」という思いが生まれる傾向があります。

 一方で、子どもの側には不安の芽生えの根源として「A君は誰にも頼らないで物事に取り組んだ。それで失敗したら『どうして先生に聞かなかったのだ!』と教師からも、親からも叱られていた。自分はどうしたらいいのだろう」という困惑も生まれます。「頼ったのがよいのか、頼らない方が良いのかが分からなくなる」ような事態が起こっているのです。

 家庭でいえば「お父さんは僕に『やってみろ』と言ったのに、お母さんは『どうしてそんなことをしたのッ』と怒った。これからはどちらの言うことを優先したらいいのか分からない」という混乱も起こり得ます。

 子どもとしては誉めてくれたり、自分が依存できて、相手が支えてくれるという自己対象としての相手が明確にならないのです。

 本当は自分がやってみたいと思う自発的な取り組みをやるのが健全です。ところが「自分でやってみたい取り組みについて親や教師はどう反応するか分からない」など、親や教師の思いが予測できないような状態が起こると、子どもは主体的な欲望から生まれる「こうしたい」という意欲よりは「どうしたらいいのか分からない」という不安状態に陥るのです。

 2.親や教師の予定調整の行き過ぎ
 このような不安状態に陥る元々の関わりは、多くの場合、親や教師たちが行う「予定調整」により引き起こされる場合が多くあります。予定調整と言うのは「将来、子どもにはこのようにさせたい」という親や教師の欲望を実現させるために「現在の子どもの欲望を調整し、将来に向けて変えさせる」ことです。一般でもしばしばやってます。例えば「友だちに誘われたけど今は映画を見に行かない。将来自分の家を建てるのにお金を貯めたいから」。「子どもはパソコンをやりたいと言っているが、親としては子どもを医者にしたい。医学部に入りやすい高校へ入れるためにパソコンは止めさせてA予備校に通わせる」ようなことです。このような状態がしばしば起こると、子どもは最も身近な理想の自己対象である親に、希望という自己感を歪められます。教師の場合も同様です。

 親や教師が示す反応を予測して自分の心を照らし、見つめなおし、その関わりから生まれた子どもの自己像が不鮮明になります。子どもの自己像が不鮮明になるということは、相手との影響から生まれる、自己目的を持ちにくい状態に置かれるということです。「自分のやり方はこれでいいのだ」という確信が持てなくなります。子どもから見て、親や教師など子どもと関わる相手が何を考えているのか分かりにくい状態が起こります。そうなると子どもは自分がやることは、どのみち批判や否定や拒否や非難にさらされるのではないかという恐れを抱いてしまいます。

 3.親や教師の意図的な画策は子どもの心の自然な成長の妨げ
 親が熱心に芸術教育をして芸術家になったとか、とにかくそれ専門の教育をして、その道の専門家になったという話を巷ではよく聞きます。そのような人々のことで、しばしば社会的に逸脱言動が報じられています。理由はストレスがたまっていたから、社会的には未熟だったから、誰も文句を言える人がいなかったから‥‥などが報じられています。彼らの多くは、理想化自己対象と継続的に関わり合ったというよりは、指導する人々の予定調整のため頑張ってきた子飼いのペットにすぎなかったようです。ひどい言い方ですが、飼い主の力が弱ってくれば(彼の指導者の老化など)、その専門家は社会性に関して、逸脱言動があっても不思議ではありません。某宗教家(新興宗教が圧倒的に多い)、某教育者、某学者、某政治家、某タレント、某画家、某音楽家、某医師、某弁護士‥‥枚挙にいとまがありません。

 ほとんどの指導者は自分の欲望を予定調整の段階で、指導される相手の自己対象に組み込み調整します。指導される若者の側は同世代間の対人関係から獲得できる心の成長課題の一つである、社会的共同性を未獲得のまま、狭い組織的な(上下)関係の中で成長します。それでは心は本格的な人間社会に適応できません。教師の言うことをしっかりと聞き「教師に従い素直に育った子ども」、学校という組織関係の中だけではうまく生きて行けますが、将来参加する経済社会や地域社会ではどうでしょうか。会社人間といわれるお父さん、それも心配です。どうでしょうか。

 4.予定調整は自分でするもの
 自己予定調整をしながら人間は自分が生きる社会に参加しています。その場合の予定調整は人からさせられる予定調整ではなく、自分から行うものです。その予定調整には自分の機能や能力、技術に見合う可能性が含まれています。もちろん機会(チャンス)や時(タイミング)や周囲との関係(リレーション)も含まれています。自己予定調整能力には、これらの状況を総合的に判断する心の力が必要です。

 登校拒否の子どもたちの多くは、自己予定調整能力の機能不全状態にあります。彼らは自己機能、能力、技術がどれ程のものかを適性には理解していません。大概は自己評価が低く、できそうではあっても「自分にはできない」と言います。機会、時、関係に関しても自分にとっての布置(コンステレーション:立場とか自分の位置とか)が理解できていません。登校拒否の子どもの不安の源となった、自己対象となるはずの大人たちの価値観の不安定さや強引な予定調整などが根本にあると考えられます。

 仮に登校拒否の子どもが自分の理想的な自己対象(理想化自己対象)を見つけ、その人に親和性を感じ影響された場合、それまでの「こだわり」や「偏見」「食わず嫌い」などを克服できます。そして豊かな心の成長を実現しようと自己予定調節を図ることができるようになります。

登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。

http://www.asahi-net.or.jp/~pr8y-tkhs/index.htm