フリースペース To Be主催
登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(2)=5月25日・火=
大曲市のボランティアグループ「フリースペース To Be(事務局・日本キリスト教団大曲教会)」主催の「子どもの自立を考える集い」が23日、同市の中央児童館で開かれた。講師で登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「子どもの心の成長をうながすために」と題して講演。高橋所長は「この講座で話すことはほとんど子どもたちから学んだもの」と述べ、「対人関係の苦手な子は一人遊びが好きで、孤立しがち。そして親を困らせない」などとその特徴を語った。掲載2回目。
【負の自尊心・自損感情】‥‥不登校・引きこもりの人々
今日までの面接を通して、私は登校拒否・不登校の子どもたちや引きこもりの人々には自尊感情(自尊心)について特徴があると感じています。普通、子どもたちは自尊感情を高める方向へ行動します。しかし、多くの登校拒否の子どもや引きこもりの人々は、自分が起こした失敗事例からその自尊感情に関して、強いマイナスの自己意識(自己概念)を抱きます。それをここでは自損感情と呼ぶことにします。
1.非現実的な自尊感情
多くの子ども(人)は「自分にはうまくできることと、うまくはできないことがある」のを知っています。従って苦手なことに取り組みうまくできなくても自己意識においては「また失敗しちゃった」程度で済ませます。仮に失敗したことで自分が目立ってしまった場合でも、失敗したのは「もともと苦手で、そんなことを一律にやらせる人がいるから、自分のできなさが目立ってしまうんだ」、「今回は運が悪かっただけだ」などと、自己防衛的な言動を導き出します。そして再び自分が所属する社会に戻り、社会参加をし続けます。
登校拒否や閉じこもりの人々はそのような自己防衛発言はほとんどしません。むしろ、心の中で「自分の失敗を見た人は自分のことを『駄目な奴』だと思っているに違いない」とか「みんなが軽蔑の目で自分を見ているように感じる」とか「これはひどく恥ずかしいことで、二度と人前に出られない」などと深刻に悩んでしまいます。多くの場合、そのような思いは心の中だけで繰り返し起こり、悩みは反復して増大(肥大)します。
彼らの多くには「人間が不完全な存在」であることを認める心の余裕がありません。人間が生活を営む上で、成功も失敗も繰り返していると言う現実を十分には理解していません。「みんなはそれで良いかもしれないけど、自分は絶対に失敗をしたくない」のです。「絶対に失敗しない」生き方があるかどうかは検討するまでもなく、「そんな生き方はできるはずがない」のです。しかし、どうしても現実と自分の思いとの差に関して、心の折り合いをつけることができません。
彼らの多くは「かつて、とてつもなく恥ずかしい思いをした時に、誰も心の支えにならなかった」ことを引き合いに出します。「だから、誰もあてにはならない」のだと主張します。そのことに関しては「お父さんは会社のことばかりで、忙しそうで頼りにはならなかった」ようです。「お母さんはいつも急かしてばかりで、結論を急ぎ、話を最後まで聴いてくれない」人だったといいます。だからどちらに「話しても無駄」だというのです。友だちに関しては「陰で何を言っているか分からない人たちで、心底信頼できるほどの相手ではなかった」といいます。
理想が高い自尊感情の持ち主(子ども)の支え手は、やはりその子どもの自尊感情と等しいくらいに理想が高くなければ支えきれないようです。困っている人々の支援をしようとする場合、支援者が現実の世界の価値観の中に埋没してしまい、現実ばかりを前面に押し出していると、登校拒否の子どもや閉じこもりの人々は「自分の心の支え手としてふさわしくない」と感じて、そのような人への依存をあきらめてしまいます。
2.自分には価値があるの?
自尊感情を損ない、自損感情を抱いてしまった登校拒否や閉じこもりの人々は「自分には生きる価値もない」とか「何もできることはない」とか「自分は役立たずだ」とか「失敗者だ」とか「何一つ自慢できるようなことはない」などと主張します。一見鬱的です。 こうなるとうまく行かないことが予測できると、最初から「頑張らない状態」に身を置いてしまいます。登校拒否の子どもが「それをやるのは面倒臭い」とか「もうどうでもいい」ということがこれに相当します。少なくとも「それをやらないことで、失敗と言う挫折は避けられる」状態です。口にこそ出しませんが、閉じこもっている人々も同様の状態にあります。
仮に大変な努力をして、また、失敗したら、自分の無能さ、無力さなどを人前に晒すことになってしまうからです。そのような決定的な事態を回避したいのです。その気持ちはよく分かります。自尊感情が自分の現実以上に高過ぎれば、誰でもそのようになってしまうでしょう。
自損感情を自尊感情に変えていくためには、自分の相手が誰であろうと知りたいことに関しては「人から学ぶ姿勢(謙虚さ)」、まだ未熟な自分の能力を高めるために「手順を踏む姿勢(将来へ向けて希望)」、時には身近な相手の能力の高さに「あやかる合理的姿勢(仲間意識)」などが必要です。
社会的にこそ「価値がある人」「価値がない人」という基準を設けますが、それは人間そのものの価値ではありません。そうはいっても「自分は社会的に価値がない。社会人として生きていく上で、自分は不必要な人間なのだ」という思いが閉じこもりの人々にはあります。人間の価値観を経済社会にだけ焦点を当てた結果、出てくる結論です。それでも自らの人生を閉じないのは、心のどこかに「生きていたい」欲望があるからです。生きていたい欲望に随伴する形で、自尊感情を高めたいという欲望もあります。
3.できること、好ましいこと、満足できることを探す
登校拒否の子どもや閉じこもりの人ができていることについて認める心がけが大切です。いくら「あなたの存在が大切です」といったところで、覚めきっている人には通じません。それよりは「そうは言っても洗濯物を取り込んでくれているのはとてもありがたい」とか「本当は留守番でもないのに、あなたがいてくれると安心して買い物に行ける。あまり頼ってはいけないかなぁ」とか「いざと言う時にはパソコンで調べ物をしてくれるから助かる」といった程度の声かけは必要です。本人が自然にできていることを見つけ出し、その行為を支えるのです。
登校拒否や閉じこもる人々のほとんどは過去に挫折体験をあまりしていないか、挫折を意識の外に置いてます(保安操作、選択的排除)。記憶に残っている体験は本人にとって好ましい、満足できていた体験が多かったはずです。その体験を再び味わうことも大切です。ただし、一人きりで体験させるのではなく、家族も共に体験することができれば、もっと良いでしょう。例えば、夏休みの山登りや海への旅行や映画観賞などです。
一般的に旅に出ることはいい結果を生みます。他人の釜の飯を食べる体験もいい結果を生みます。そのような方向へ自然に向かうようにする家族間の協力が必要です。決して、無理に向かわせてはいけません。いくら正しいことであると分かっていても、本人にとって不自然なことは強要しない方がいいのです。そこで大切なのは「この家族にとっての自然体とは何か」を検討し合うことです。根気よく話し合って下さい。
【登校や社会参加のための条件】
登校拒否・不登校の子どもや引きこもりの人のほとんどは「同世代の多くの人々が所属する社会に参加していない」です。彼らが登校や社会参加できなくなった背景などを調べながら、登校したり社会参加するための支援を考えます。多くの登校拒否の子どもや閉じこもりの人は登校拒否や閉じこもりになった経緯などについては「よく憶えてない」と言います。いじめがあっても本人の意識では「いじめられたかどうか分からない」のです。職場で嫌な出来事があったとしても「そのことは記憶にない」のです。彼らの多くは、選択的非注意を好ましくない方法で使っています。つまりその時起こったことに関して、本来なら問題にして検討するべきことを無視してやり過ごしてしまうのです。反対に選択的非注意の好ましい使い方とは、本来気にしなくてもいいことに関して気にし、気にした方が良いことを無視している傾向はあります。
1.たいしたことはない?
閉じこもっている人や登校拒否の子どもの表現には、こちらが重要だと感じていることに関しても「そのことは、たいして気にしていない」ような言い方をする場合があります。そのような態度を取る人々の多くは、児童期に自分の心身の安全のために不安から逃れる技術の獲得がうまく制御できなかった可能性があります。本来はこれから起こるかもしれない事態を予想し、その課題や問題の克服のための対人関係を作る力が必要です。自分にとって不安を回避する意義が高いものへの関心を高めたり、その不安をわざわざ回避する必要がないものに関しては、特別の注意を払わない状態が生まれます(焦点性意識の制御ができる)。その前提としては、同世代の共通社会性や共同意識が、周囲の人々と確認できている必要があります。確認ができていれば、注意を払うべき場合と、注意を払わなくてもよいできごとの区別が出来るようになるのです。
例えば登校拒否をしている子どもがいじめられていたとしたら、それは彼にとってかなり重大なことなのですが、本人の意識では「たいしたことではない」という認識のもとに忘れ去られる出来事の中に放り込まれてしまいます。「出来れば思い出したくない」ことですし「早く忘れたい」気持ちもあります。閉じこもりの人にとって、かつて勤めていた会社での上司からの強烈な批判や否定は「思い出したくもない」できごとです。そこで起こる事態は「選択的排除」です。
彼らが言う「たいしたことはない」という内容には選択的非注意の、好ましくない使い方があるのです。自ら選択して好ましくない使い方をしているわけではないのです。今後の自分の社会参加のためには検討しておかなければならない出来事であっても、同世代との共通した社会性や共同性が十分には獲得できていなかった結果、検討する土俵(表現能力や機能や技術面での共通理解の場)に上がれなかった可能性があります。
登校拒否や閉じこもる人々の多くは、自分があてにできる、頼りになる相手を中々、見つけることができなかったり、同世代集団の中での共通理解が獲得できなかった状態(環境や関係)に置かれていたようです。
2.積み重ねがない‥‥体験していない
登校拒否や閉じこもりの人々の中には同世代の人々がほとんど体験しているようなことを全く体験していない場合もあります。例えば日常生活場面で、彼らが体験していない数々のKとに驚きます。もう一つの驚きは、直接体験していても心に体験として残っていない状態もあることです。同世代と同一経験をしていても感覚的に同世代の人々の間に差異が生じています。同世代と同一体験していても感覚の方向性が異なるのです。単純に体験したとか、体験していないとかも含めて大きな差異になる場合もあります。感覚を受け止める方向性においても大きな差異になる場合もあります。感覚を受け止める方向性においても大きな差異になる可能性はあります。
このような差異が生じることは、幼少の頃からの関わる相手に影響されているものもあると考えられます。関わる相手の表現の能力、機能、技術などの影響もあります。口下手な人の関わりが影響すれば、子どもは饒舌になりにくいはずです。子どもに直接体験をささない人(世間では気が利く人とか子どもの面倒を良く見る人)との関わりでは、子どもは体験の積み重ねができないでしょう。テレビやマンガ漬け世代の場合、子どもは経験なしのイメージだけで体験したような気持ちになります。実際には現実体験ではありませんから、社会的体験の進行に自分の気持ちをすり合わせることはできにくくなります。自分の現在の体験に、自分の意思で将来の方向性をつけるような自己志向性を抱きにくくなるのです。
もう少し分かりやすく言います。小学生などがクラスの空気に自分を馴染ませようとして、クラスの子どもが大騒ぎした時、自分も同調してお騒ぎする場合があります。損な時に教師から同調したことを特別に強く注意をされたり、親からひどく叱責されたら、子どもはその後、そのような体験を繰り返さないように、心の奥底に欲望(この場合、みんなに馴染みたいという欲望)を封じ込めてしまいます。子どもが静にしていると、教師や親は「いい子になった」と解釈します。その結果、子どもはみんなが騒いでいる時でも、自分は騒いではいけないのだという自己理解(概念)を形成します。そこから消極性や無気力感や欲望の低さが生まれます。そのようになった子どもは、高校や大学進学に関しても「どこでも入れればいい」程度で進路を考えます。何かをやりたいからこのような進路にすると言う、自己欲望に沿う進路決定はしなくなります。大学に進学してもアルバイトもせず、友だちとも遊ばず、学業にも熱心になれず、何気なく卒業します。そのような状態で、いきなり社会参加は到底不可能です。
3.社会参加や登校のための援助
登校拒否や閉じこもりの人々はもちろん、我々も自分のプライドを傷つけるような場面には遭遇したくはありません。相手が自分の現状を批判したり、否定する雰囲気があるだけでも嫌です。従って関わろうとする人は、はじめに相手の現状をそのまま受け止めることが必要です。そこから新しい方向へ向かうための援助をするには、相手が「現状から抜け出したい」気持ちを抱くように、身近で手が届く世界に目を向ける必要があります。その世界で子どもの気持ちを高める可能性が生まれる状況を作ります。取りあえず手助けなどはよい方法です。そのためには社会的な資源の活用が必要になります。これら一連の流れで関わる人は同一人物であることが望ましいです。そこで体験したことを喜びとして確認しながら、さらに体験を継続して下さい。快い体験は次の快い体験に気持ちを向かわせるはずです。
身近な世界にはつらい体験も含まれている場合もありますから、将来の可能性を発見するまでは、関わる人が寄り添う必要があります。
登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。