子どもの自立を考える集い

フリースペース To Be主催

登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(1)=11月3日・水=
 
  講演する高橋氏大曲市のボランティアグループ「フリースペース To Be〜共に生きる会〜(事務局・日本キリスト教団大曲教会・横井伸夫牧師)」主催の「子どもの自立を考える集い」が30日、同市の中央児童館で開かれた。講師で登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「親・教師は子どもとどう関わればよいのか」と題して講演。高橋氏は「このごろの子どもはテレビやゲーム機で一人で遊ぶ時間が一日平均で3時間、これに漫画を読む時間を加えると4時間もの間、誰とも会話することなく過ごしている例が多い。これでは人との会話を通じた接触もないわけで、動物に近くなったとさえ言われている」と警告した。3回にわたって掲載する。

【存在と回避】1.

  人間は生まれた時からしばらくは母親(またはその代理)への依存なくしては生きていけません。新潟の地震による土砂崩れで救われた男の子が、最初に口にしたのが「お母さん。ミルク」と求めたのもそれです。その子どもが生きていく上に必要な依存は「健康な依存状態」です。しかし、男女共に小学校6年生前後を境に依存対象が母親とか父親から仲間に移行していきます。特に悩み事の相談相手などではこの特徴は明確になっていきます。そして、親たちをいつの間にか回避するようになっていきます。回避とまではいかなくても、煙たくなり、積極的には近づかなくなります。

  しかし、登校拒否・不登校の子どもたちの多くは母親への依存をその時期には極端に強めます。母親がその子どもの実年齢に合う「普通のかかわり」をすると激怒して、もっと強く依存し、優しさを求めます。今回は依存と回避の関係を考えます。

  1.依存とは
  a.自分の日常生活にかかわるようなことでも、周囲の者や親たちからの支援や安全保証などがないと決められない。b.自分の生活の大切な領域(例えば学校生活、外出のこと)で、周囲の人びとに責任を取ってもらえないと行動できない。c.自分が支持されなくなることや認められなくなることを恐れて、周囲の人びとの意見には反対できない。d.判断力が低下し自信がないため自分で自発的な計画を立てたり実行することが困難である。e.他人(主に母親)から愛されたり支えられるために、不快なことでも無理をして行ってしまう。f.自分で自分のことができないという強い思い込み(誇張された)恐怖から、一人きりでいられなくなったり、極端な無気力になる。g.一人の親密な相手との関係が終わった時に、自分の世話を見て支えてくれる別の親密になれそうな相手を必死に探し求める。h.自分が孤立してしまい、自分自身で自分の面倒を見なければならないという恐怖があり、その考えに非現実的なまでに囚われている。

  これらは「依存パーソナリティ障害」を意訳したものです。

  ほとんどの人たちは年齢にふさわしく、依存相手との依存関係を適切に調節しています。ところが登校拒否になってしまった子どもたちの多くは、依存関係の調節ができなくなります。その理由として、しばしば母親の愛情不足を挙げる人がいますが、ほとんどの場合、間違いです。母親の愛情はないよりあった方が断然良いはずです。が、それまでは学校生活を送ってきた子どもが、思春期に至って母親の愛情を上記のような背景で求めるのは、子どもの対人関係の不都合や生活環境の圧迫要因の方が大きいはずです。なぜなら、母親以外の人びとに対しては、回避すべき人(主に教師)には回避し、無視すべき人(主に父親)には無視をしているからです。ただし、回避対象の人も無視対象の人も本来の社会生活には重要な対象要因(相手)ですから、問題といえば問題です。また、母親から離れられなくなる子どももいます。ある意味では、母親が心配のあまり、そういう子どもから離れられなくなっている場合もあります。

  登校拒否の子どもが母親に依存するのは、登校拒否に至るまでの外部からの関係や環境の重圧で、心の構成(自己感・自己組織)が混乱を起こし、一人の人間としての心のまとまりを持てなくなったからです。自分の心の構成(成長発達)に重要な影響を与えてきた母親に依存するのは当然です。

  2.回避とは
  a.自分に向けられる批判、否認、拒絶、無視などに対する恐怖で、大切な対人接触の活動(学校生活や友達との遊び)を避ける。b.自分が相手から好かれているという確信を持てなければ相手との関係を持ちたいと思わない。c.恥をかかされることや軽蔑されることを恐れるあまり、親密な相手に対しても遠慮をしてしまう。d.学校生活などで批判や拒否や無視されることにばかり気が囚われている。e.どことなくくすぶっている気持ち(不全感・スッキリしない気持ち)があるため、新しい対人関係状況で停滞したり先に進展させることができない。f.自分は社会的に不適切な人間で、長所もなく他人より劣っていると思い込んでいる。g.恥をかくかもしれないという理由で、個人的な危険をおかすことや新しい活動に取り組むのに、異常なほど引っ込み思案である。

  これらは「回避的パーソナリティ障害」を意訳したものです。

  誰でも自分が生活している社会では嫌な思いはしたくはありません。尊敬できない人、怖い人、危ない人には近づきたくありません。たいがい、そのようにして今日まで生き長らえているのが一般市民です。しかし、自分を守りたい一心で、周囲に対して異常に警戒し過ぎたり、用心深くなり過ぎたり、臆病になってしまう場合、回避は起こります。これらはただ単に「煙たい存在」程度とは訳が違います。「嫌な奴」レベルでは済まされない存在として回避されます。

  問題なのは本来の生活に重要な相手をも回避してしまう場合です。「食わず嫌い傾向」が強く「褒められ体験」がなかった場合などが考えられます。「何をやっても駄目だった」などが共通語のように聴かれます。さんざん傷つけられてきた可能性があります。言い換えれば、進退極まるような困難な時にも支えてくれる相手がいなかったのです。それ以前には多分、ほとんど褒められた体験(記憶)がなかったのです。いずれにしてもこの傷(トラウマ)体験があった可能性も否定できません。いずれにしてもこの場合も心の構成が乱れ散乱し、断片化して社会生活を人間として豊かに送る上では支障を来している可能性があります。持って生まれた人間として豊かに送る上では支障を来している可能性があります。持って生まれた依存感情との違いは、回避は後発的だということに注目します。

  3.支えること、褒めること、相互依存すること

  登校拒否の子どもたちとのかかわりのボランティアをしたことがある人なら、頼ってきた子どもの気持ちを支えた時の快さを自らも体験しているはずです。子どもを褒めて喜んだ姿を見て自らも快かったはずです。「もう一度あのような体験をしたい」と願ったことと思います。そのためには登校拒否の子どもを頼りにしなければ実現できません。ここには影の依存があります。子どもも依存して快さを体験し、我々も依存して快さを体験していると言う相互依存関係です。

  回避傾向が強い子どもには警戒心や不安や恐怖を取り除かなければ先に進めません。後発的に作られた感情だから必ず改善されます。安全感と満足感と正義感と社会的な意義の保証がひつようです。それらが快さを感じなくなってしまった子どもたちの心に変化をもたらします。安全感、満足感、正義感、社会的な意義の根底出、子どもにもかかわる人にも共通して存在する感情は、温かい「真摯な愛」です。かかわりの中に信頼と尊敬と畏敬の念が生まれれば、回避状態の子どもの心は開かれます。

【依存と回避】
  4.赤ちゃんのよう‥‥
  登校拒否の子どもの場合、多分、閉じこもり(引きこもりと同義)の人びとも母親への依存が強くなると「まるで赤ちゃんのよう」になります。そうならない子どももいます。世話焼き型です。これはこの後触れます。

  赤ちゃんのようになるのは疲れてしまい、甘えたくなったからです。自己主張を抑制してしてまでも頑張っていたので、自分の本当の気持ちが分からなくなりつつあります。自分がどういう人間かも分からなくなってしまいます。

  甘えたい気持ちは誰にでもありますが「これくらいは自分でもできる」ことを知っている人は自分でやります。しかし、自己感が崩れ「自分ではできないかもしれない」不安があれば「できるはずのお母さん(相手)に頼んでみよう」ということになります。多くの場合「快さ」を求めての甘えになります。「自分でもできるかもしれないけれど、お母さんにやってもらった方がもっと良い」のです。「もっと良い」は「もっと快い」のです。誰でもそうですが、疲労や緊張をしている時や困難や抵抗に出くわした時には「もっと快くなる」方を選択します。それは回避といえば回避かもしれませんが「どうしても自分一人では頑張れない。誰か支えて‥‥!」という心の状態からは、それまで慣れ親しんでいる母親が必要になります。

  その内容は寄り添いながらいたわり、支えることと褒めることです。ウソ偽りがない部分で支援し、褒めなければ意味がありません。子どもの状態は赤ちゃんのようになりますが、それは断片化した心に、まとまりがついてくれば収まるものです。ずっと続くものではありません。

  5.世話焼き型‥‥尽くすタイプ
  相手や家族の世話を焼かない相手(家族)から見捨てられる危惧を抱く子どもも中にはいます。相手の心に合わせて、自分の気持ちを打ち捨ててまでして献身します。本人の主体的な意思は失われていきます。相手に尽くすあまり、自分の本意が分からなくなっていきます。相手なしでは生きていけなくなるのです。相手がいるから自分は動けるのであって、相手がいなければ自分は何をやりたいのかお、何をしたらいいのかを決められなくなり、不安の底に突き落とされます。一人でいる力が欠けてきます。尽くす相手を探し求め続けます。深夜に(渋谷の)繁華街をさまよう思春期の子どもたちの中にはこのような子どもも結構います。素敵な相手に依存できれば良いのですが、多くの場合、お互いが依存したい人たちであり、相手を間違えたと分かっても離れられない事態にまでなってしまいます。

  6.頑張り過ぎ‥‥
  相手から「差し出されたもの」に熱心に取り組み過ぎ、自分自身で「作り上げたもの」を見失う子どもがいます。

  幼いころから本人の意思とは無関係に、親たちの希望を満たすため親たちから「やらされてきた」体験により疲労し、「やらなければならない」強迫体験に結びつけてしまい、心の傷を作ってしまう子どももいます。自分の心の中では「もうあんなことはこりごり」になっています。親からやらされ、しかもできたことを褒められることもなく「もっと真面目にやれば、もっとうまくできる」ことを要求され続ければ、誰でも「もういい。これ以上はできない」状態になります。「どんなに頑張っても、どうせ認められない」「もう駄目」状態に陥ります。「どうせ駄目」もついて回ります。大学生ではスチェーデントアパシー的な状態です。

  7.冒険嫌い、食わず嫌い
  このような状態は非常に多くの子どもが持っています。当たり障りのないところで絶対に無理はせず、危険もおかさず、絶対安全な生活をします。少しの冒険もしませんからほとんど進歩がありません。ウィニコットもコフートも「そこそこ不満があり、その困難さを自分で乗り越えるから自己感は成長すると」という分析治療の効果を伝えています。
  しかし、子ども自身が過去の体験を心に刻みつけていれば、新しく起こることに対しても(積極的には取り組まなくなります。

  対人関係においても「傷つけられるくらいなら、最初から関わらないで一人でいる方がましだ」という具合に、関わる前から関わりを避けてしまいます。過敏に対人関係を気にし過ぎています。もともとは人を求めているのですが、自分に自信が持てません。社会的には目立たずくすぶり続けていて、少しも生き生きとはしていません。

  8.褒められたことがない
  褒められ体験がないと多くの子どもが主張します。ただし、周囲の身近な人々と自分とを主観的に比較した場合にそのように思うのです。たいがい周囲には優秀な人材が存在していて、その子どもと比較の対象になっています。この場合の優秀は世間的価値観での優秀であって、絶対的な価値観ではありません。比較されている子どもは「あの子は褒めれてばかり、自分は叱られてばかり」体験を味わっています。そのような体験から「自分は褒められたことがない」自覚を心に構成しています。そればかりか、いつも「低く評価されてきた」思いが強く残っています。

  9.縄張り意識
  これは精神的に幼くなってしまった登校拒否の子どもたちにしばしばみられる回避現象の一つです。コンラート・ローレンツ(動物の行動学者)の研究で良く知られた「縄張り」現象です。トゲ魚の雄は、自分の縄張りを自分の巣の周辺としています。その巣の周辺に別の雄が侵入すると勢い良く相手を追い払いますが、自分の巣から遠くなるほど勢いは弱くなり、しまいには相手から追いかけられ、逃げる羽目に陥ります。それにも関わらず自分の巣に近くなると勢いを増して逆転して追い払うのです。

  それと登校拒否や閉じこもりの人々に当てはめるのは酷ですが、現象は似ているし分かりやすいので取り上げます。自分の領域(部屋や家)が安全なのです。そこに侵入するものがいれば追い払わないまでも、自分が隠れてしまいます。例えば父親がいなければ子どもは家で生き生きしています。教師が来なければ部屋に隠れません。それぞれ部屋では元気にしています。

  何を言いたいかというと、子どもの自己感は場合によれば、根源的(生物的な部分)な部分まで崩れてしまっている可能性があるということです。事実このような子どもとの関わりには長時間が必要でした。子どもたちの生活にどのような反応が現れるかにより、自己感の崩れがどの程度かが予測できます。3で述べた関わりはどのような場合にも必要です。

  現れた現象の問題点を責めるのではなく、現れた問題点を直接直すように取り組むでもなく、現れた現象から子どもたちの現状を理解しながら関わり方を選択していく必要があります。

登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。

http://www.asahi-net.or.jp/~pr8y-tkhs/index.htm