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登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(2)=11月6日=
【不幸選択症候群】
子どもたちの中には「小学生のころは野球をしていて楽しかった。中学生ではなぜかサッカーを選んだ。うまくいかなかった」とか「クラス替えがあって今度こそ楽しい体験をしたいと思ったから、仲良しの子と同じクラスにしてと先生に無理に頼んで一緒になったのに、今はその子のことで嫌な思いばかりしている」とか「人から恨まれるといけないから、静かにしていたら仲間外れにされた」などと言った発言がしばしばあります。母親(や父親)も自らの結婚に関して「本当はもっと素敵な人と付き合っていたのですが、幸せ過ぎることが心配で、程々の人がいいと思って結婚したんです。そしたら、子どもがこうなってもあの人は知らん顔なのです。私は何て不幸せなんでしょう」という人々も中にはいます。
みんな幸せになりたいと願って、様々な工夫をしています。しかし、その工夫が不幸せにつながる場合もあります。まるで不幸せの神に見入られたような人も一部にはいます。しかし、大概の場合はその不幸せの道を本人が意識しないで選択しているのです。
今回は登校拒否・不登校の子どもや家族との関わりから学んだことを検討してみます。
1.親は私を愛してはいません。
これは登校拒否の子どもも言っていることですし、その親たちも言います。親子共々その親たちから愛されて来ていないというのです。
例えば子どもが自分の親に「朝起きないくらいで、なぜあんなにひどく僕(私)を殴ったの?」と問いただすと、父親は「俺なんかもっとひどく親父から殴られたもんだ。あんなの殴ったうちに入らない」と答えました。この父親は自分がどんなに不幸だった野かを、不幸が当たり前の世界では認識できていません。さらに父親は「殴られないですむように頑張れば良いのだ」といいます。つまり父親に腹を立たせないようにしろというわけです。子どもは常に父親に気をつかい父親が怒らないように努力し続けることになります。親から自分の生き方を否定され、親に気をつかい、支配されて生きろというのです。そんな子どもが幸せでしょうか?。その子どもは自分の幸せを求められなくなります。多くの場合は周りに気を使い、周りが納得するような選択肢を選んでしまいます。自分で一番良いと思う選択肢ではなく、その次とかもっと低いランクの選択肢を選んでしまいます。その結果、前記のような苦境に立たされる場合もあるのです。
これは父親や母親も同様です。この父親は「世の中なんて、そんなに幸せなはずはないのだ。我慢して頑張るしかないのだ」と子どもを叱咤激励していました。一番幸せな欲求を探しながらも、実際にはそれを否定しつつ、二番目とか三番目の満足感で間に合わせようとします。どこかでいつも満たされない不満がくすぶり続けます。特に親の場合は子どもを自分の不幸の巻き添えにしてはいけません。気をつけて自己点検して下さい。
親は自分の子どもへの愛情がどの程度のものかを社会性がある他者に聞いてみると良いでしょう。自己修正しながら関わって下さい。
2.親には甘えられませんでした。
親が多忙で甘えられず、他人に甘える子どもも中にはいます。大概は学校の教師や幼稚園の教師やお人好しの先輩たちに甘えます。登校拒否の子どもたちはかなり年上の人(父母の年齢や大学生くらいの年齢の人々)に甘える傾向があります。相手が年上だと十分に依存させてもらえます。
その相手もかつて親たちに十分甘えることができなかったという人々もいるのです。子どもも相手も対人依存傾向が強く、しばしばお互いに相手から離れられない状態にまでなってしまい、二人とも不幸の道を歩むような場合もあります。いつも二人が一緒でなければ不安になるのです。
一人でいることができないのです。登校拒否の子どもの場合、相手を母親に絞り込みます。遊び友達の役割も話し相手の役割も恋人の役割も、滅多にありませんが教師の役割も母親一人で負わなければならない状態になる場合があります。しかし、良く考えると、子どもの求める甘えの中では母親としての役割はかなり抜けているのです。衣食住に関わる母親役割よりは社会に参加していた場合の対人関係の役割を母親に求めているのです。一人の人(この場合は母親)が相手との全ての社会的な役割を担うことはとても負担です。母親も不幸です。しかし、中にはこのような状況を合理化して(ごまかして)「私はこの子の命なんです。この子が自立するまでは離れません」と言い切る母親もいます。それは母親の役割ではなく社会的な役割を過剰に負い過ぎていることなのです。これでは母親が幸せではありません。子どもの心には「お母さんをそれほど不幸にしている、依存しているとは思っていない」気持ちがあります。したがってますます強く依存していきます。そして二人ともに不幸の悪循環を引き起こします。
子どもの甘えに関してはそれぞれの親役割の範囲内での甘えに応じることは大切です。子どもが親役割では負いきれないような、違う甘えを要求してきた場合には、その役割にふさわしい他人に応じてもらうに配慮し手配しながら、子どもの言い分を受け止めていくことが大切です。全てを引き受ける必要はないでしょう。子どもの言い分を丁寧に聞いていけば、子どもがなぜ親にごねるのか、何を求めているのか、なぜ親に全ての甘えをぶつけるのかが分かってきます。
3.子どもを愛するということは
みんな幸せになりたいはずです。他人の幸せも自分の幸せも喜ぶことができる人は幸せです。他人の幸せを妬ましく思うような場合にはどこかに屈折した不満が潜んでいるはずです。競争社会ではあっても、その人のサイズでの幸せはあります。どうかすると自分の不幸ばかりが目について、身近にある幸せに気がつかない状態の人もいます。
どんな不運な人でも「今からやり直す」ことは可能です。「新しく始める」こともできるはずです。「どうせまた失敗する」恐れを抱くよりは、全てのことはいつも新しく始まっていると言う自覚に立てば「新しく生き返る(変える)」ことは可能です。
今まで子どもを愛していたという自覚がなくても、今、愛し始めることは可能です。ただし、子どもの要求にふさわしい愛で応じる必要はありません。ただ与えれば良いのではありません。何も言わないで、黙って見ていれば良いのでもありません。子どもたちが何を求めているかを理解できるような対話をしながら、親の役割の範囲では愛情は注ぐことができるはずです。そのためには夫婦で協力していく必要があります。片親だけが子どもの味方になりきってしまうことは別の弊害を生みます。そのためには夫婦の幸せも求めていく必要があります。愛は偉大です。
【不幸選択症候群】
私はしばしば災害や災難に遭遇します。どれも嫌いです。私の場合遭遇する回数は他の人々よりは多いです。殺人未遂の目撃、後にその犯人から命を狙われました。水害は大きなものだけでも4回遭遇しています。雷の被害も二回。山火事は二回。街中で意識を失っていた人の手当(救急車を呼び、来るまでの間)が5回。ヤクザの奥さんを囲い、そのヤクザの手下から命をつけ狙われました。いきなり殴りかかられたことは2回。歩いていて道路標識にぶつかり、眼鏡をゆがめてしまったことは4回。目の前でひどい交通事故を目撃したことは2回、そのうち1件では家族4人が死亡していました。1件はガソリンスタンドに突入した事故です。不注意はともかくとして、災害や災難に遭遇する回数が多いのはなぜかを考えた時、「不幸選択症候群」について再検討する必要を感じました。改めて心理学的な立場から検討してみます。
1.幸せ感の歪み
自己決定した上で世間で言う不幸を選択してしまう人について考えます。私からいmると大変に不思議な人々です。
例えばダイエットのやり過ぎによる摂食障害です。誰がどう考えても健康ほど素晴らしいものはないのですが、健康よりもやせることに至上の幸福感を抱いてしまいます。日常的で自然な食事を押し退けてまでも、やせることに幸福感を抱くのは、幸福感の歪みとしか言えません。そこには人間の心身の機能としての不備がうかがえます。身体は食べることを欲しているのに、心が食べることを許さないのです。私たちは自己の身体欲求と心の欲求が社会性の範囲で、自然に一致する状態で日常生活を送っています。その均衡が崩れているのです。自分を大切にしたいという、いい自己愛もあるのですが、健全とは何かを無視した困りものの自己愛が強くなっています。摂食障害でいえば「やせることしか考えられない」狭い思考に支配されます。どの程度やせることが健康かを無視されてしまいます。自分勝手な、困った自己愛の強い人です。背景にはやせることに関するマスコミの影響もあります。「やせることは美しい。やせなければ美しくない」です。美的感覚は個人的主観なのにあたかも常識のような言い回しで錯覚させます。そのようなキャンペーンに乗る方も軽薄といえば軽薄ですが、健康を損なうとなると幸福云々とは違うレベルで検討しなければなりません。
幸福感はマスコミキャンペーンにより造られるのではなく、自分で何が幸福か気づき、自分で目標に向かい築いていくものです。「世間のみんな」がマスコミキャンペーンに乗っているはずがないのですが、対人関係が乏しい人々の多くは「みんなが‥‥」を連発します。彼らの関係性は狭くなっています。体験も乏しくなっています。自分の幸福感の社会性を検討するためには、様々な人々との対人関係や対象関係が必要です。
2.事件や事故への親和性
私が様々な災難に遭遇し過ぎていることは先に述べた通りです。確かに不注意もあるかもしれませんが、社会的に活発に活動していれば、移動距離や移動時間当たりの災難遭遇係数があって、私の場合はそれほど異常に高くはないはずです。
私の知人で道路を歩いていて、同じような交通事故に半年の間に立て続けに二回も遭った人がいます。本人には全く落ち度がないのに‥‥。むち打ち症で苦しんでいました。いかにも用心深そうな人です。同情します。
また、しばしば骨折を繰り返していた友達もいました。運動神経が抜けているとか特別に骨が弱いわけではなさそうですが、どこか要領は悪そうでした。人のためなら例え火の中、水の中にでも飛び込みそうな人です。無理のし過ぎでしょうか。奇妙に気になる存在でした。やはり普通の人に比べると動きがどこかぎくしゃくしていました。気の毒です。
本人は注意をしているといいますが、しばしば財布を盗まれる人もいました。一見、しっかりした人のように見えますが、財布を落とすこと数回、盗まれること数回、カバンごと盗まれたこともあります。あきれます。
不登校の子どもでしばしば不良にからまれるタイプの子どももいました。本人はどこかスキのようなものがあり、不自然な視線をあちこちに向けていました。いろいろな所に興味がありそうな感じはしているのですが、視線の向け方がどこか変でした。不運な子どもでした。統計は取ったことはないのですが、世間の社会性の範囲で生活していて、その人にどこか違和感を感じるような人に、事件や事故への親和性が高いような気がします。
彼らの多くは不運や不幸を嘆いていますから、不幸選択症候群の人とは区別しなければなりません。自ら好んで不運や不幸の道を歩んでいるとは思えない人たちです。しかし、無意識に不運や不幸の方へ歩み寄っている可能性は拭いきれません。
3.世間の常識感が薄れている
私には私の常識があります。おそらく世間には世間の常識があります。その常識と私の常識との差異はどれほどかを私はある程度意識して理解しようとしています。ところが、事件や事故親和性が高い人々の多くは、その差異をあまり意識していません。自分の常識は世間の常識と一致しているように思い込んでいるようです。これだけ事件や事故に遭遇していても、自分の言動は世間の常識のど真ん中にあるように思い込んでいます。
例えば、交差点では右折車や左折車に気をつけて渡るのが常識ですが、「信号が青だから歩行者優先に決まっている」から、左右を確認せず渡る人は事故に遭いやすいのです。「いくらお金が大切でも、人を盗人扱いしたくないし、こだわるのは良くないし、不自然な気がする」人はしばしば財布をなくしていました。「いろいろ見ていると気になって何に対しても身体が動いて反応してしまう」人はよく骨折していました。「不良に見えるからといって視線を逸らすのは失礼な気がする」子どもはしばしば不良にからまれていました。
世間一般の常識がある部分で希薄になっています。幸福についての常識も希薄になっているように感じます。幸福の価値観が、何かをしたい、獲得したいという欲望に押し倒されています。相手に良い人だと見られたい、美しい人だと見られたい、正しい人だと思われたい、などという思いの中には、世間の常識よりは自分の常識が強く出ています。しかも、個性の範囲を逸脱して。「何事もないよりは、いろいろ体験できた方が良い」のは常識ですが、その常識が不幸につながるようでは「逸脱している」のです。
世間の常識に少しばかり自分の機能や能力や技術を加味した体験が、達成感につながり幸福感にもつながります。今時のIT時代では、過去の体験の積み重ね抜きで、いきなり自己能力の範囲を超えて、様々なものごとに過激な挑戦をしてしまいます。それが過激であると自覚できないところに不幸選択症候群の人々はいます。
登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。