子どもの自立を考える集い

フリースペース To Be主催

登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(3)=11月9日=

【死にたくなる人々】‥‥一人で死ねない人の増加
  最近、若い人々の集団自殺が流行しています。最近までは「死ぬ時は一人」が常識でした。一人で自殺する若者もいますが、最近は複数の他人に呼びかけて、みんなで死ぬ人が増加しています。一人で死ねない人が増えてきたということです。日常的には結婚生活や家庭生活という複数の人間同士の共同生活ができなかったり、特定の恋人ができない人が増えています。そう言う人が死ぬ時だけは複数の人々と一緒に死にたい気持ちは、どこからくるのでしょうか。複数の人々との社会生活ができない寂寥感から「せめて死ぬ時にはみんなと死にたい」なんて考えているのでしょうか。孤立したくはないのに孤立してしまい、孤独だったのでしょうか。

  1.自殺の前提
  まずは病気ではなく自殺未遂した人の話から‥‥。「完全に行き(息)詰まりました」「くたびれました」「生きる気力がなくなりました」「生きている希望(意味や目標)が無くなりました」など多くの言葉があります。挫折、失望、絶望、苦痛、罪責感、空虚感、焦燥感、無価値感、思考機能停滞、強烈な失恋、経済的な難問、進路の悩み、生き方の悩みなど多数の表現があります。どれも同情に値するものです。しかし、そのような状況になった人々が全て自殺しているわけではありません。失恋しても死なない人の方が多いでしょう。経済的な問題を抱えていてもそう簡単には死にません。苦痛にさいなまれていてもこらえる人の方が多いはずです。物事が希望どおりにならなくても生きている人は多くいます。自殺(未遂)する人々の多くは、その他の条件に気付いていないかもしれません。

  少なくとも「私の性格がこんな(ひどい性格)だから死にます」という人はまずいません。せいぜい明るい性格とか暗い性格ぐらいは取り上げられますが、自己の性質気質については余り言及されません。その人が死んだ後から「あの人の性格は暗かった」という話は周囲から出てきます。

  自分を取り巻く対人関係の問題については間接的に自覚しているかもしれません。「周りの人々にはなかなか馴染めませんでした」とか「うまく付き合えませんでした」という遺言はありそうです。しかし、「本当は人が好きなのに、どうしても付き合いませんでした……」という他者に対する親しみや、接近の努力については言葉の中のニュアンスにはほとんど含まれていません。他者に接近したり、他者と対話したり、他者に馴染もうとした様子はあまり認められません。

  2.死ねない理由
  死にたくても死ねない人々の多くは、死なない条件に「家族のことを考えると死ねません」「お世話になった人のことを考えると‥‥」「残された身近な人のことを思うと‥‥」「やり残したことを考えると‥‥」などを挙げます。そう簡単には死なない人は、世の中に未練を残すのは死ぬよりももっと辛いと考えている人たちです。義理に対する恩返しもその一つです。不義理をしたままでは死ね切れないのです。死んでしまう人には義理、不義理という感覚は、あったとしても生き延びる人と比較して少ないでしょう。例えば自分が稼がなければ家族が路頭に迷うような環境に置かれている人は、簡単には自殺をしません。家族に責任を感じるからです。余りにも追い詰められれば、一家心中を考えるかもしれません。しかし、子どもの寝顔を見て、首を絞められなかったという父母の方が多いのです。死ぬ直前に恐怖に襲われ、死を断念したという人もいます。

  「死ぬのが怖い」人は多くいます。これは自己の心の中の要因により死に対する歯止めがかかっているからです。人間の場合、生きているからには自尊感情が優先的に働きます。もちろん死んだ後のことも考えて綺麗に死のうという心構えは、自尊感情の表れではありますが‥‥。

  集団自殺する人々がどのような準備を整えて死ぬのかは知りませんが、死んだ後に、どんな扱いをされても一切構わないと考えない限り、自殺はできません。どんなに準備を整えたとしても、無様な死体を晒すことになります。そこまで考える人なら死を選ぶことはないでしょう。人間としての自尊心や尊厳を無視しない限り死ねないのです。自分の死体を人前に晒すことによる人間尊厳の喪失を意識する余裕がないか、恥も外聞もなく、虚しさだけが優先していた可能性はあります。一種の鬱でしょう。

  3.環境、関係、性格
  自殺に関わる要因で精神の病気の人々を除けば、環境Y対人関係や本人の性格因子の三つは大きいです。たまたま愛する大切な人が死んでしまったような環境に置かれていれば「自分もあの人のもとに行きたい」と死を願う人もいるでしょう。環境と対人関係が影響し、性質や気質(低い自己志向性と強い固執)も影響しています。「ヨォーシ、これからはあの人の分も生きていくぞぉー」という人にはその人を支える条件(環境や関係)が整っている可能性があり、その人の性質気質も強い新奇性追求心や自己志向性が高い可能性があります。
  「人間としてなすべきことはなし終えた。あとはご先祖さまのもとに行くだけである」といい、死を選ぶ老人もかつてはいました。若い人々がそのように考えているかどうかは不明ですが、パソコンなどを通して「全てを知っている・分かっている」気持ちになり、それが現実とは違っていても「なすべきことはもうない」という気持ちになる場合もあります。一つの現実体験に関して、深くは味わっていない可能性があります。

  家庭環境、その人の社会環境、その人の対人関係、個人的な性質気質、これが心の構成に結び付かず、末構成のまま漂白している可能性があります。波高い荒海の波にもまれている苦しさしか理解できず、海面の下の状態に気が付かないのです。海面(本人のいる表向きの環境)は白く波立っていても(悪くても)、海面下は平穏な(ゆったりと動いているだけ)の状態になっていること(可能性)に思い及ばないのです。

  どちらかというと表面的な世界(パソコンの世界)を生きてきた人々は、表面の世界が崩れてしまうと、その崩れを修復する力を持ちえないのです。人に対する評価でも、一般的には表面という第一印象は誰もが大切にしますが、それだけで終わりにする人はいません。対話をして内面を理解しようとします。そのことによって相手の容姿容貌に関わらず「素敵な人」を発見できます。自殺に走る人々の多くは、この表面の容姿容貌が崩れたら「お終い」という強迫観念を持っていた可能性があります。

  生死の問題に関しても、表面的な生きざまが損なわれた場合、内面的なしたたかな生き方(心に構成された数々の生き方)を持ちえなければ、死を選ぶしかありません。パソコン世代の心の弱点です。パソコンでは人間の心の現実の表面しか知り得ません。人と付き合ってみて初めて、その人の深みや広さや高さを理解できます。集団自殺は「みんなのそのような気持ちになっているかも‥‥」世代なのです。「かも‥‥」で死ねますか。

【死にたくなる人】‥‥その心の特徴
  死にたくなる人々には常人では考えられない思考をする場合がありまう。熟考した挙げ句に不思議にも不幸を選択する人々です。かつて私はこのような人々を不幸選択症候群の人と命名しました。大概は「固執」が強過ぎ、こだわりにまでなっています。自尊心(この場合はプライドと言った方が良いかもしれない)が強過ぎて「自己愛」に偏りが出てきつつあります。その上で自分は社会的な被害者であるという妄想に近い感情を抱いています。それは彼がそのような環境にいながら、その環境から抜け出さなかったり、抜け出せなかったことを物語っています。普通の社会生活を送っている人々はより良い環境の方へ自分の生活を変えていくのに、彼らは置かれている環境に誠実に付き合っています。関係においても同様です。

  1.こだわり
  私が関わった人々の中で、自殺したことについて明確に記憶している人は数名います。3人についてはここで述べます。

  A氏はうつ病という診断名を持っていた人です。とても誠実でした。真理を求めてやまず、正義が何かを深く追求していました。孤独で、私以外の人との交流はほとんどなく、酒席に出ることもありませんでした。娯楽らしいものはなく、いつも読書(特定の本)をしていました。家族は本人に「もっと積極的になれ」と激励する毎日でした。彼は「積極的になれないのは自分が弱いから」と思い、悩んでいました。自分が弱いのは親がたくましく育ててくれなかったからだとも言いました。「自分は弱いから、どうにかして正しい生き方」を身につけたいと焦り、こだわっていました。弱い人間が正しく生きることほど大変なことはないのに‥‥。その矛盾から抜け出せなかった可能性があります。遺書はありませんでした。ずっとA氏が行き(生き)詰まっていた感じはしました。毎日が辛そうでした。こだわる自分から抜け出すには思考停止が予想できる自殺しか考えられなかったのかもしれません。絶対に死ねる方法で自殺しました。

  Bさんは家族(子どもたち)に自殺だと知られないような自殺の仕方をしました。しかし、私に宛てた遺書からは自殺であることが分かりました。「子どものことをよろしくお願いします。できれば葬式も(高橋は牧師でもある)」とありました。彼女が置かれていた状況は極めて苦しい状況でした。夫は外で女性と暮らしていて、妻のもとには戻ってきません。経済的な仕送りもしていませんでした。家庭内暴力がる不登校の子どもを抱え、苦痛を感じない日はなかったようです。親類は冷淡で、経済的な援助も心の支えもなかったように見えました。彼女には人に迷惑をかけてはいけないという「こだわり」がありました。だからカウンセラー以外には悩みを打ち明けない生活をしていました。夫が一緒に生活していたころには夫の暴力に悩まされていたようです。「私はいつも不幸をつかんでしまう」というのがBさんの口癖でした。

  2.自尊心(プライド)
  A氏もBさんも自尊心(プライド)の高い人でした。どちらも真理を求め、正義を求め、正しい生き方、高潔な生き方を探し求めていました。修道僧のような生き方、純粋で理想的な真理を求めていました。

  悪い生き方をしようという人は滅多にいませんが「こだわり」と「強い自尊心」が重なり、「絶対に正しい生き方を求めよう」となると、誰もが生きること自体に苦痛を感じるでしょう。
  高い自尊心を保つためには、次々に現実的な苦痛に直面しなければならなかったでしょう。自尊心のために融通のきかない生活をしていたのです。

  Cさんは世間で言う一流国立大学を優秀な成績で卒業しました。卒業と同時にエリートサラリーマンと結婚しました。そして成田離婚です。彼女は世界的にも名門大学といわれる大学院に進学し、短期間で学位を取得し、帰国しました。すぐに日本で別の大学に進学し、国家資格を取得しました。ほとんどの大学や大学院はトップの成績です。しかし、誰一人彼女と交際する異性はいませんでした。父親は日本を代表する大学卒業後国家公務員、母親は今でも誰もがうらやむような職業に付いていた人です。一人っ子の彼女は「誰かと結婚して家の名を残さなければならない。相手はいい血筋の人でなければならない」という思いにこだわり、中々異性と交際ができなかったようです。私はCさんが一回目の自殺未遂を起こした時に、親からの要請で面会しました。以後、不定期に面接しました。

  「絶対に恥はかきたくない」「恥ずかしい思いをするくらいなら死んだ方がまし」という思いがいつもありました。「随分努力し、学歴や資格などでは頂点を極めたのに、急けんは私に少しも目を向けて来れない」という不満がありました。

  「私にはどこかに問題があるのか‥‥」という検討がなされなかったのです。Cさんは「世間が認めないのは世間が悪い」と確信に近い思いを抱いていました。そして冷淡な職場の人々に当てつけるかのような2回目の自殺未遂をしました。この後遺症で、肢体不自由になりました。今度はその肢体不自由を受け入れることが出来ずに、本当に自殺をしました。

  3.被害感‥‥そこから始まる悪者探しと攻撃
  A氏、Bさん、Cさん共通しているのは被害感です。A氏にあるのは親たちから養育段階での被害感でした。Bさんは夫の仕打ちによる被害感でした。Cさんはもっと複雑で、冷たかった両親、離婚した夫、特別扱いしない職場の人々からの被害感でした。

  いずれの場合もそのような被害感が起こるような場(環境)からなかなか離れないことが共通しています。したがって関係も変わりません。自分に被害をもたらす「悪者」がいる所で生活をし続けていました。なぜ不幸を選ぶのか、なぜ環境や関係を変えないのか分かりません。「こだわり」や「自尊心」とのバランスに欠落があるのかもしれません。「相手が悪いのだから相手が変われば」式の考え方があったかもしれません。

  高い自尊感情からは「これほど努力して真面目にやっている自分を特別に認めないのは、相手が悪い」ことになってしまいます。しかし、現実的にはその社会で対人関係上孤立している人のそのような理屈は「わがままが過ぎる」という批判を浴びます。そこまで言わなくても、冷淡な視線を浴びることになります。そこでさらなる被害意識が芽生え、悪循環が起こります。どうしてそのような劣悪な環境や関係を選ぶのか‥‥。

  不幸選択症候群の人々の生き方は矛盾だらけです。世間的常識人間が矛盾であると感じるその矛盾に、あれこれ考えた挙げ句に正当性を見出してしまう人々が自殺に行き着くのかもしれません。あれこれ考える内容に「こだわり」「自尊心」「被害感(被害者意識)」「絶望」「衝動」などが含まれているのかもしれません。

登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。

http://www.asahi-net.or.jp/~pr8y-tkhs/index.htm