フリースペース To Be主催
登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(1)(9月25日・土)
大曲市のボランティアグループ「フリースペース To Be(事務局・日本キリスト教団大曲教会・横井伸夫牧師.)」主催の「子どもの自立を考える集い」が23日、同市の中央児童館で開かれた。臨床心理士で登校拒否文化医療研究所(東京)の高橋良臣所長と不登校・引きこもりの体験者2人が講師となって講話した。2回にわたって掲載する。
【拒否的・否定的依存関係】
登校拒否・不登校の子どもたちの多くは自己否定的な状況にあります。また、親や親切な教師や身近な人びとの言動に対しても否定的で拒否的な反応を示します。今回はそのことについて考えてみます。
1.親に依存しているが‥‥
「こんな家にいるのは嫌だ」と言いながら、家から離れようとしなかったり、自立しようとしない登校拒否傾向の子どもは多くいます。
「お母さーん、何かやろよぉー」「それじゃあ、トランプしようかぁ」「嫌だ、そんなのつまんない」という子どもも多くいるはずです。
さらに極端なケースだと「あんな親父の世話にはなりたくない」といいつつ、母親経由で例えば「親父にギターを買う金を出すように言ってくれ」と頼む子どもも多くいるはずです。
親としては、子どもがもっと肯定的に依存してくれたら、気持ちもすっきりするのですが否定や拒否絡みで依存してこられると、子どもと付き合うのも嫌になってしまいがちです。
子どもの要求が(社会性が)心の中から出る理性では肯定的なのに、現実の結果(表現)では否定的に分離しているかのように見えます。子どもの理性と現実が肯定的な方向へ向けては統合されていないのです。あるいは混乱を起こしているのです。
2.自己否定感の獲得‥‥低い自己評価
そのようになる背景には自己否定感があります。加齢とともに「駄目な自分」を意識する子どもは多くなっていきます。特に高校生では約73%の生徒は、何らかの自己否定感を抱いているという統計があります。中学生では約30%前後なのですが、高校生になると自己否定感を抱く子どもが多くなり逆転します。学校教育でも、家庭教育でも、地域でも、子どもたちは批判にさらされ、間違いや失敗を正すように要求され続けます。良い自分について褒められることは少ないのが現状です。学業成績だけは例外です。褒められるとしたらテストの成績が上昇した時くらいです。それ以外の生活全般では細々と注意をされる場合の方が多いのではないでしょうか。
子どもたちの心の奥底にはこのような状況から生まれる自己否定感が堆積しているのです。心の深層部に堆積した自己否定感や拒否感は、登校拒否になっている子どもが生活をしている親子関係で、外部(親)へ表出されていきます。それが依存的でありながら否定的で拒否的な状態を形成しているのです。
3.希望が見えない大人の社会
すぐにやって来る大人社会への参加のためには多くの要求が親から(または教師から)子どもに求められます。そのような要求に見合うように頑張りたくなる社会が、子どもたちの目には見えにくくなっているのが現実です。明確には希望が持てない時代を送っているのです。
自己否定感が形成される過程(家庭)では、自分の親に対する否定感もあるものと思われます。子どもに対して注意ばかりしている親自身や教師はもっと駄目な状態にあるという現実も、子どもは親や教師とのかかわりの中では目撃しているのです。小学生、中学生、高校生と成長を遂げていくと、家庭内ばかりではなく大人社会の欠点や矛盾も見えてきます。そのような社会で働く親や教師たちに疑問を抱く純粋さが、子どもたちには、まだあります。それは大人から見ると屁理屈に見えますが、子どもたちの行き詰まり感を示しているものではないでしょうか。
4.こんなに頑張っているのに
登校拒否の子どもは心の中で一生懸命に頑張っています。何を頑張っているのかというと、「何とかして学校へ行こう」「何とかして朝起きよう」「今日こそ絶対に友だちに連絡を取ろう」と心の中(理性)では頑張っているのです。ところが、頑張り過ぎて現実には緊張し、疲れきってしまい、悪循環を起こし「やっぱり駄目な自分」について強い確信を抱いてしまうのです。なぜ確信を抱くのかというと、常日頃から「お前は意気地なし打」「無気力だ」「無能だ」というような内容の言葉が、周囲の人びとから聞こえてくるからです。あるいは自分自身で真剣に思い悩んでいるからです。現実の部分で余りにも頑張り過ぎると言う自己認識が欠けているのです。それには誤解があります。「みんなはもっとやっているのに自分にはできない」という誤解です。「他の子はきちんとできているのに自分にはまともにできない」という誤解から、負い目もあります。
自己評価を低くしている子どもの特徴は、周囲の人びとを等身大に見ていない(評価していない)傾向があります。相手に対しては過大な良い評価をしてしまいます。しっかり見れば自分と大差ないのにです。このような状態になる時には、すでに低い自己評価が、深層心理の一部を占めていると考えられます。
5.拒否的、否定的依存に付き合う大切さ
登校拒否の子どもたちが親に示す拒否的、否定的依存は幼児戻りのようにも見えます。子どものぐずりと似ていますからそのように見ても良いのですが、できれば思春期の子どもの心の深層部に拒否感や否定感が押さえ込まれてきたことによる反応であると認識しておいて下さい。
子どもの心の深層部に閉じ込められた負の感情は、登校拒否を形成する時に表沙汰になります。登校していた頃は表に出さないように無理をして我慢し頑張っているのです。それも自分では意識しないでそのような無理をしているのです。それは本人にとっては本来不自然なことなのですが、もうすでにこの頃には嫌なことは口にしない癖がついていたのです。
子どもが登校拒否をして否定的、拒否的な依存を親に迫ってきても、逃げ出さないで下さい。そのような子どもの態度も批判しないで下さい。もちろん皮肉も言わないで下さい。そのような態度はカウンセラーや子どもに関わるメンタルフレンドやフリースクールの職員らにも向ける場合があります。そのまま素直に先入観抜きで聞き続けることが大切です。早く結論を出して何かを始めようとは考えないで下さい。このような状態にいる時期の子どもはどんな誘いや結論も否定し、拒否します。
やがて次の時期が来ることに希望を持ち、根気よく否定的、拒否的な依存に付き合って下さい。
または、本人が否定や拒否をしなくても済むような対話をして下さい。「そうだよね。親父には頼りたくないよね。だけど金だけは欲しいよね」「家にいるのは嫌だけど他に行く所がないもんねぇ」といった具合です。本気になって結論を出さないで下さい。本人たちの拒否的、否定的な依存に付き合ってほしいのです。そうしているうちに子どもたちは理性を取り戻し、現実を直視できるようになっていきます。
【消極的、あいまいな言動】‥‥否定的、拒否的依存関係の中で
登校拒否・不登校の子どもたちは必ずといってよいほど、自分がかかわる社会参加に対して消極的になります。また、現実に起こった出来事に対する表現や反応や感想があいまいになります。そして、気持ちは日替わりメニューのようにコロコロ変わります。当然、周囲からの働きかけを嫌がります。そうかと言って自発的な言動はほとんどありません。そのような子どもの状態にイライラした親や教師は多いはずです。そのような子どもの気持ちについて考えてみましょう。
1.消極的になる
ものごとに取り組む時に、失敗を恐れたり、間違いに対する張りつめた緊張に常に気を取られていて、消極的になる子どもはいます。かつてうまくいかなかった体験が心の底に淀んでいて「また、失敗をするのではないか」という不安に襲われます。例えば初失恋の経験で心に痛手を受けた子どもは、しばらくは恋愛感情からは遠ざかります。異性との対人関係には消極的になるはずです。
自分の相手を傷つけないように注意し過ぎたり、反対に自分が相手から傷つけられないように用心深くなり過ぎて、対人関係でも積極的になれない子どもがいます。相手が悲しむ(傷つく)姿を見るのは辛いのです。
自分の相手を傷つけないように注意し過ぎたり、反対に自分が相手から傷つけられないように用心深くなり過ぎて、対人関係でも積極的になれない子どもがいます。相手が悲しむ(傷つく)姿を見るのが辛いのです。
警戒心が強過ぎて、新しい取り組みに対しては用心し過ぎる傾向があります。性質気質という観点から見れば、新奇性追求心や報酬依存が弱く、損害回避性が強いのです。何を見ても危なく見えてしまいます。人から褒められた場合、何か下心があるのではないかと思い、素直に喜べない子どももいます。人に褒められたり好かれて近寄られるよりは離れていた方がよいと思い、他人とはかかわらないようにしている子どももいます。
そのようになる背景としては根源的に「恥はかきたくない」気持ちが強いのです。「恥ずかしいこと」は「悪いこと」であると勘違いしている場合が多いのです。「恥ずかしいこと」の中には確かに「悪いこと」も一部分はありますが、多くの場合は悪いことではなく、自分の言動が周囲の人に変(異端・異彩)に思われないかという恐れが強いだけなのです。
同様に人から注意されることは「悪いこと」であると思い込んでいる子どももいます。子どもにとっては、間違いや失敗を指摘されることは「悪いこと」ではなく「これからもっと良い方向へ向かうようにする」ための過程です。が、そのようには感じられない関係が(かかわりが)周囲の者たちとあるのです。親や教師や指導者らから、子どもに向けられた厳しい目、子どもの間違いや失敗の責任を追及する姿勢、失敗や間違いに対して決められた罰則などは「悪いこと」としての印象をさらに深めます。このような状況では、子どもたちは消極的にならざるを得ないのです。
2.あいまいな表現
明確な表現をしない登校拒否の子どもは沢山います。明確な表現をした場合、反対意見が出されたらどうしようという不安があります。登校拒否の子どもたちの心の中には「人からは反対されるような辛い思いはしたくない」気持ちがあります。相手との関係では波風が立たないように相手の気持ちに自分の気持ちを合わせてしまうのです。さざ波程度の見解の相違でも、登校拒否の子どもたちにとっては嫌なことなのです。いつでも修正できそうなあいまいな表現になってしまうのは、反論されないための防衛反応の一つです。「何でも良い‥‥かな‥‥」というためらいがちな表現に腐心します。
自分の意思ではなく、誰かの気持ちを代弁しているような表現もします。「何々ではないかということもあるかもしれないし‥‥」とか「それはいいかもしれないけど‥‥」「よく分かんないけど、何々した方がよいかもしれない‥‥」等といった、自分の本心なのか一般論なのか、誰かの気持ちなのかが明確には表現されません。
それは相手からの直接の反撃を回避したい気持ちの裏付けにもなります。相手の気分を害したくない‥‥そのためには自分の気持ちをストレートには言わない方が良さそうだ‥‥そんな気持ちからあいまいな表現が多くなるのではないでしょうか。
その子どもには自己がないという人もいます。またその子どもには自信がないのだという人もいます。そのような結論的なことはどうでもよいことです。登校拒否の子どもたちのこのような表現が、対人感情から引き起こされることなら、対人関係で修正できるのです。例えば、相手である『私』が登校拒否の子どもとの間に確固たる尊敬しあえる信頼関係や親密な関係があれば、子どもは『私』に対しては『自分の表現』をします。子どもの表現が肯定的に受け止められ、理解的な解釈の基に受容的に対話が進行すれば、子どもはためらわずに、自分の本音を表出します。
あいまいな表現をする背景には、自分が「こう言ったらどういう反応が返ってくるだろうか‥‥」という相手に対する不安があるからです。すべての人に反論されたくない思いを持つ子どもは沢山います。大人のように「どうにでも解釈してくれ」と開き直ることはまだ、困難なことです。また一端、口から出た言葉の解釈は「相手の資質により、どうにでも解釈され得る。だから相手の人格に解釈は任せる」という器量もありません。当然なことです。どうかすると私たち大人は、子どものこのようなこれから成長していく部分について誤解している場合があります。
子どもがあいまいな表現で、直接のトラブルを避けたいのは当然の帰結です。誰からも反論されたくないのも、この年頃なら自然な時期です。
3.子どもの心を育てるということ
子どもの言い分に一貫性がないのは当然です。まだ、それほど強い人生哲学を持ってはいないからです。終始、気持ちがコロコロ変わるのも当然のことです。まだ損得、勝ち負けを考えてしまうからです。自分でやりたいことがあるのに強い自発性がないのも当然です。そのような体験がまだ十分に身に付いてないからです。このような状態から成長していくためには、周囲に信頼できる成人がいることが条件になります。「あの人は素敵だ。あの人のようになりたい」「あの人は信頼できる。あの人の側で良い影響を受けたい」という気持ちは大切にしたいものです。このように表現できる子どもは少ししかいません。子どもの心が成長するようになるということは、子どもの周囲に良い影響力を持つ人がいるということです。
「あの人のようになるためにはこれは自分でやらなければならない」といった自助努力が、子どもの心の成長につながります。ただおだてれば良いのではありません。大切なのは、その子どもとの間に本当の信頼関係を継続的に結ぶことです。