フリースペース To Be主催
登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(1)=4月25日・月=
フリースペースTo Be(代表・日本キリスト教団大曲教会の横井伸夫さん)主催の「子どもの自立を考える集い」が24日、大仙市大曲花園町の中央児童館で開かれた。講師の登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「子どもへの理解の進め方」をテーマに講話した。2回にわたって詳細を掲載する。
【TPOの喪失】……我の独走
time,place,occasion,略してTPO「時」「場所・所」「機会・場合」というような意味です。「世の中にはTPO」があるという場合には、それぞれの時や場合や場所によって服装なり礼儀なりを変えて適宜に、相手に失礼にならないように心がけなさいという意味に使われます。
それは自分一人の時間と他者と共にいる時間と、その他者たちがどのような質の人達かによって使い分けることを求めています。そこに自分一人だけがいるならどのような格好や服装でいても構いません。個人的にしろ相手がいた場合、その相手との関係がどのようん関係か、相手がどのような意識を持つ人かにより自分も協調できる部分は相手に合わせる必要があります。公的な場面では、その集団が合意している服装や態度でかかわることは自然に求められるものです。
1.いつも自分の時間だけの人々
家庭においても学校や社会での対人関係においても一人で過ごす時間が長くなっています。パソコン、テレビ、ゲーム、マンガなどはすべて一人遊びの時間として費やされます。その時間帯はどんなスタイルでいようご周囲に気遣う必要はありません。しかし、複数の多様な(異業種)人々が集まる集団ではそうはいかないはずです。少しは気遣うのが礼儀です。
「そんなに他人のことばかり気にしなくてもいいジャン」「自分の好きな格好でいるのが一番いい」「相手によって態度や服装を変えるなんて、ヘン」という反論が返ってくるこの頃です。教師に対しても、友だちに対しても「タメ口」を使う子どもたちが多いのもこのような意識からです。教師に対しては親しみを込めているからタメ口でも良いのだと主張します。
いつもズボンを腰まで下げている腰履きスタイルの子ども。いつも、どこへでもそのズボンで出かけるのは、自己主張だと言います。半分お尻が出ているジーパンやスラックスのお姉さんも同様です。大学へもショッピングにも演奏会にもその格好で行きます。いつもいつも、それ程までに自己主張しなければならないでしょうか?。周囲のかかわる人々の意識に対しては理解や協調をする必要がないでしょうか?。「別にぃ、相手に気を遣っていたらカッタリィーシィー」「自分は自分だから相手がどう思おうと相手の勝手!」……原則的にはごもっともです。でもかかわる相手や場所によっては「お前の尻は見たくない」人や「ズボンを引き下ろしたくなる衝動を感じる」人がいることは知ろうとしないし、意識の外においてしまいます。見たくない、見てはいけない、引き下ろしたらまずいことになると感じる人達の多くは、TPOを心得ているので実行はしませんが。
自己主張だという彼らの多くは自分だけの時間をあまりにもたくさん持っていた人達です。本来、親密にかかわる相手との共有する時間があまりにも少なかった人々です。否、一部の特定の相手(狭い仲間)とはかかわる時間の共有はかなり強烈です。その時間や場所を強烈に共有できた人々は、ほとんどが似た者同士の「自分の時間だけを大切にしていた」から、共にいても相手に親密なかかわりを持たない、気にしないのです。「あんなに危ない雰囲気の人といつも一緒にいて大丈夫なの?」と疑問をぶつけても「別にぃ。あいつは何もしていないし……」と言うばかりです。一緒にいても抵抗や違和感がないのです。かかわりがお互いに希薄だからです。
この流行は大人社会にも共通してあります。今は「オレ流」が流行っています。もっと古くは1970年代から、若者達はどこへ出かけるにもジーパンスタイルでした。それに抵抗した同志社大学のイギリス人教授が「(作業着である)ジーパンで私の授業を受けるのはけしからん」ということで授業から締め出し、一時大騒ぎにたったことがあります。そういえば、イギリスの大学(シェフィールドという所)に行った時に、学生達の多くはスーツを着用していたのを見ました。もちろん大学から出てプライベートな時間を過ごす時にはラフな私服になったいました。そのような傾向はヨーロッパ全体にありました。日本では学生時代はスーツなしで過ごしますが、社会人になると時や所かまわずスーツを着ます。理由は、相手とのかかわりを意識しているからでしょう。気にしない人は「オレ流」を通します。「アッシにはかかわりがござんせん」です。
2.周囲にいるかかわりがある他の人に対する配慮
学校なり社会なりコンサート会場(スティタスが高い劇場)なり多彩な人々が集まる場には、それなりの自然発生的な原則的ルールがあります。最大公約数的な決まり事です。それをマナーと言います。原則的ルールに関しては必ず例外がつきます。具合が悪くなった場合、怪我の場合、視力が極端に悪くなっている人など様々な例外が生まれます。例外の中でも個人の勝手な自己主張による理由はたいがい除外されます。そのような場面を多くの日本人は学校教育の場で体験してきています。
複数の多様な人々が集まれば、そこには自然発生的な暗黙の了解が生まれてきます。お葬式には黒服、入学式・卒業式には清潔で晴れやかな服装、結婚式なら目いっぱいのおしゃれ。日本社会では儀式的な行事にはほとんど暗黙のルールがあります。ヨーロッパ、アメリカの場合は少し異なります。
会社ならその会社の人達が着用する平均的な服装、学校ならたいがい標準的に決められた服装。そのような暗黙のルールができるのは「そのスタイルがその場にはその人を最も恰好良く見せる」スタイルだからです。
制服ならそのまま着用するスタイルが本来は最もスマートなはずです。少なくてもお尻が見えそうなミニスカートや裾を踏んづけそうなズボンには相当しません。しかし、ミニスカートやダブダブズボンの人は、いつの場合でもそれが格好良いというわけですから、見当違いもはなはだしいわけです。プライベートな時間や場で着用するには、それらの同好の士が集まるわけだから、ミニスカだろうとダブダブだろうとかまいません。その区別ができなくなった社会的な背景や心模様が問題です。
それは貧困のひと言につきます。高橋が不登校の子どもたちと遊ぶ場合と、高橋が個人面接をする場合と、文部科学省の講演に出る場合とでは自然に服装は異なります。同じ講演でも高橋の本の出版記念講演会となると文部科学省の講演会とは服装が異なっても当然です。このような社会的な状況の区別が、子どもの多くはできにくくなっているのです。
3.社会体験から学ぶ
私はいちいち、このような原則を人から言われて学んだ記憶はありません。自然に身についていました。幼いころからそのような場面に何回も参加して体験的に学びました。唯一違っていたのは国教会での「いつでもカラーを着用」のルールでした。勘弁してほしかったのですが、海水浴に行く時もTシャツにカラーをつけた奇妙な格好で出かけたことを今でも奇異に感じます。それは例外ですが、子どもたちには社会体験が必要です。
【不登校や引きこもりの子どもに向けて家族ができること】
多くの親たちは自分の子どもが登校拒否や引きこもりになると、二通りの反応を示します。多くの父親は子どもを責めます。父親の中でも商店などの自営で自宅にいる機会が多い父親の中には、うろたえて仕事も手につかないという人も少なからずいます。多くの母親はうろたえます。それぞれに家庭での役割を意識していることから生まれる反応のように考えられます。母親の中でも社会参加している人は一般的に自分の子どもを責めるケースが多く、家庭にいて専業主婦の人との反応が異なります。
1.父親が一般的に子どもの気持ちを理解しきれないのはなぜか
結論からいうと父親になってきていないからです。生徒とか学生を卒業して就職し、社会人という立場を獲得します。結婚して夫という立場、役割を獲得します。その時に配偶者が社会参加している場合には、家族分担ができるかどうかが、後の家庭内の役割を担う力が獲得できるかどうかの岐路になります。夫であり家庭内の役割分担ができていて子どもが生まれた場合、妻が育児に専念しなければならない期間、家事分担と同時に育児にも関心が向けられれば、父親という役割を獲得しやすくなります。
反対に子どもが生まれても家事分担や育児への関心が薄い場合、父親という役割を担うことはかなり困難になります。その場合、社会人であり、夫であるという役割のみが表面に現れてきます。育児に多忙な母親に対してさえも「妻の役割を果たせ」とわがままを言う幼稚な男があとを絶ちません。多くの場合、自分の産みの母親がそのようにしてきたということを知らされているからです。実母も「女は夫に尽くすべき」という思い込みが強く、自分の息子を構ってくれない、育児に専念しているなどという話を夫(息子)から聴くとキレるようです。実際にそいう夫がいましたし、そのように嫁いびりをした姑もいました。
妻であり母親となった人が再度社会参加しようとすると「家事と育児だけはしっかりやれ」という夫が結構いました。「オレが帰宅した時にはメシはできていなければならない」「子育てはオマエに任せるのだから、マトモな子どもに育てろ」といった無謀な男がいまだにいます。
出産が無事に済み、赤ちゃんを保育所に預けられる時期になり「あなたが社会参加するなら、自分も家事と育児は分担する」という理解はほとんど生まれて来ない男性が多くいます。このように父親になれない人、父親役割を獲得できない人、家事分担ができない人が、子どもの登校拒否や閉じこもりに対して、その気持ちを理解しようとはしません。そして「そんなことでは将来何もできなくなる」とか「人間としてクズだ」といった偏った発言をしてしまいます。それらの発言は経済社会では通じる言葉かもしれませんが、育児や教育の現場では使ってはならない表現です。
獣医師としていわせてもらいますが、人間という種には男女で協力して育児するDNAが組み込まれています。少なくても過去の自然界では。しかし、経済社会とか出世という競争序列社会に心を奪われると、幼稚な欲望の歪みから、男性の一部には父親になれない人がいることを知っていた方が良いでしょう。獣医師としての断定ですが、経済活動をしない動物たちのほとんどは、よほどのことがない限り、雌雄共に子育ての共同作業を放棄することはありません。そういう意味では人間の経済社会(複雑な文化社会)はあまりにも不自然です。男性にしろ女性にしろ、経済社会は人にもかかわる本来的な父親役割や母親役割は担いきれなくなります。
2.将来社会参加させたいけれど
そうはいっても子どもが社会参加せず家に居続けることは不都合過ぎます。そのために母親に向けて夫側からの「お前の躾けが間違っていたのだからお前の力で直せ」とか「とにかく早く何とかしろ」という漠然とした言い分は、たとえ子どもに直接向けられた言葉ではないにしろ、かえって子どもの気持ちを硬化させます。母親であり過ぎなければ(共存的でなければ)、母親は母親でいて構いません。つまり母親役割は放棄したらまずいのです。少しは妻の役割も必要です。もし余裕があれば社会人としての社会参加もあった方が良いでしょう。
その全ての役割の中で感じたことを母子で語り合うことが大切です。その場合、肯定感や喜びが伝わるような会話が必要です。否定、拒否、批判などは禁物です。
夫は父親役割について真剣に検討してほしいものです。社会人だけのヒトであったとしたら、子どもは父親に対して冷淡になります。「あの人は親ではない!」と断言します。「あんな奴いてもいなくても同じ」存在に葬られます。社会的な経済人であっても夫であり、父親であることはその人そのものなのです。本来複数ある生きるための役割のうち、自分の役割を一つに限定して生きることは楽ですが、貧困な人生になる危険性を孕んでいます。一つのことだけで成功しても心は空しいでしょう。世間で言う成り金の多くは自分の気持ちをごまかして「金が全て」のような言い訳を自分の心に聞かせています。「かかわる人が全て」ではない所は悲しいです。そして注意しなければならないのは「家族が全て」になってしまっても似たようなものであるということです。登校拒否・閉じこもりの子どもを抱える家族はそのようになりやすい危険があります。必要に応じて自己が持つ多彩な役割の色彩を変える力が必要なのです。ある時は経済活動に誠実に、ある時には子どもの気持ちの理解に努め、ある時には配偶者の良きパートナーに、ある時には地域のボランティア活動に参加するくらいの余裕は必要です。気持ちの交流のための家族の対話が必要です。
全てやりっ放しでは意味がありません。「見ていれば分かるだろう」という思い込みは捨てて下さい。そのことについての喜び、嬉しさ、楽しさ、感謝などを伝える必要があります。ただし、外出できない子どもに、皮肉にならないよう言い方を工夫しなければなりません。「仕事に出るといろいろな社会現象が分かってきて、今日は新鮮な発見をして嬉しかった。少しは得した気分だ」「あの人にも良いところがあるよ。家では無愛想だけど外では大切にしてくれた。気分が良かった」「老人ホームにはいろいろな方がいて、人生観が変わった。生き方がたくさんあって安心した」など、語りかけておかなければ、子どもには伝えたい内容が伝わりません。説教にならないような語りかけが必要です。
これらの家族援助だけで全て解決とは行きませんが、少なくても子どもは家族との対話を楽しむことができるはずです。親たちは家族を閉じた世界に置かずに、カウンセラーたちと協力して社会の一員として家族という位置づけをして下さい。自分一人が頑張れば良い、自分一人が我慢すれば済むなどとは考えないで下さい。
登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。