子どもの自立を考える集い

フリースペース To Be主催

登校拒否文化医療研究所の高橋所長の講演から(2)=1月28日・金=

  大曲市のボランティアグループ「フリースペーストウービー」主催の「子どもの自立を考える集い」が23日、花園町の中央児童館で開かれた。講師の登校拒否文化医療研究所の高橋良臣所長は「責任を感じるよりも支援することを」と題した講演を行った。2回にわたって詳細を掲載する。

【対人関係について……社会参加しにくい人々】
  登校拒否や引きこもり傾向の子どもたちの対人関係は、ある時期からは停滞しがちです。その背景には本人の性質や気質という個人の個性の課題も含まれています。また、本人の成長発達段階での対人関係と心の成長の問題の可能性もあります。H.S.サリバンは自己組織とか自己力動態勢には、本人にとって安全で満足できるというように理解できているあらゆる経験と、相手(他者)との人間関係の持ち方が含まれているといいます。またH.コフートは自己愛を中心に大切にしたい自己と他者との関係を述べています。対人関係の進展と共に中核自己が豊かに成長することも述べています。

  講師の高橋さんと横井牧師1.登校拒否など社会不適応を起こす人々の対人関係の特徴
  対人関係の基本は母子の二者関係に父親が加わる三者関係から始まるという学者が多数を占めます。母子プラス父親参加の三者関係が、子どもにとって楽しく快いものであれば、さらに楽しい状況を作ろうという社会参加へ向けての意思が生まれてきます。仮に母子関係だけが継続されて父親の関係参加がなかったり、少なかった場合、子どもは不安な時には母親以外の人に依存しなくなります。子育てしている人は思春期に起こる子どもの複雑な不安に、一人で完全に対応することは困難です。一般的に思春期に起こる性的な不安の多くには男女両性の援助が、それぞれに必要です。

  親子関係の不全で、仮に幼児期に自己組織や自己感などがなかなか個体化しない場合、子どもは思春期に至り、不安から緊張へ、緊張から疲労へ、疲労から萎縮へと悪循環しがちになります。やがて孤立します。孤立は同世代間の共同性(同世代に共通する常識)獲得の停滞を引き起こします。

  子どもにとって常に支えるという関わりが欠如していたり、困難な状況での支援が不十分だったり、目の前に頼りたい存在がいるのに頼りにならない状況は、現実の経済社会ではしばしば起こり得ます。そのような状況では、子どもは過去の経験で慣れ親しんだ要素だけを取り出して、残りの要素は捨て去り、却下して不安を回避しようとします。いくら新しい経験があっても自己組織内の領域でのみ解決を試みようとします。

  これは登校拒否の子どもたちが同じ言動に埋没する(悪循環を反復する)状況と同じです。知りたくない現実が迫ってきた時、子どもたちはその現実について全く気付かない状態に陥ります。仮に気付いている場合には、そこに含まれる意味(主に子どもにとっては嫌な、辛い、悲しい意味)はなかなか引き出されない(感じられない)ままの状態に置かれます(選択的非注意)。こういう状況の大部分は子どもにとっては安全保障のための操作です。安全保障のためにそのようになっているという認識もありません。だから不安感を言語で表す(引き出す)こともありません。

  社会不適応や登校拒否状態になる傾向の子どもたちの対人関係も、その対人関係に不安や圧迫などが感じられる要素が含まれていると、このような安全保障操作を行ってしまいます。その時期はそれぞれの事情により異なりますが、多くの場合は親元を離れ、地域の子ども同士の遊びに参加する時期から安全保障は行われています。そこで親の支援があれば、子どもは何かあった時に元に戻れば良いという安全感を獲得します。この場合、母親がその子どもの欲求を受け入れることが前提となります。

  そのような現実がない場合、選択的非注意は解離の元になってしまいます。解離された事柄を意識の中に戻す可能性から遠ざけ、さらに注意を逸らすことになります。つまり意識から隔離し続ける状態を生みます。「良く分からない」「そんなことはしていない」「そんなことは言ってない」「覚えてない」状態が起こります。

  これではまともな対人関係はできません。通り一遍のごまかしで「友だちはたくさんいるよ」「みんな友だちだよ」といった答えが生まれます。そのようにいう登校拒否の子どもは実に多くいます。

  2.何々について知ることと、何々を解ることの違い
  あの人のことについては知っているという登校拒否状態の子どもは多くいます。しかしそれはほとんどの場合、自分の内部に起こっていたイメージだけの自己解釈でしかありあません。そのことについてはサリバンもコフートもスターンもウィニコットも似たようなことを述べています。この問題に重要な示唆を与えたのはM.ブーバーです。「我と汝」の中で、対人関係には「私とあなた」という関係と「私とそれ」という関係があるといいます。相手をあなたという自己対象に置いて関わった場合に「相手を知っている」現実が生まれます。ところが、相手を「それ」とか「もの」として対象物化した場合、その「対象物については知っている」ことになります。対象物とは対話ができないから、一方的で勝手な解釈をするのです。相手を生きて関わる自己対象にした場合、相手の現実を理解できるのです。「何々について知る」という知識と「何々を解る」という現実は明らかに次元が異なります。ブーバーは解ることの重要さを説きます。

  登校拒否状態の人々の場合、多くは相手を対象物化しています。従って「相手については知っている」状態を作ってしまい、しかも、嫌な体験と共に付着した評価を付加して「相手については知っているつもり」になっています。そのことにより彼らの対人関係は停滞します。

  3.周囲で関わる人々の影響
  どのような子どもでも自分の周囲の環境と関係に影響されます。登校拒否状態の子どもの場合は主に家にいる母親の影響を受けます。さらに父親からの影響も無視できません。しかし、多くの場合、父親は不在がちで、関係性や影響力も安定しているとは言えません。父親は理想化自己対象自己とか鏡自己対象自己としての存在にはなりにくいのです。もっと明確に言えば、子どもの中核自己形成に関わる影響がすくないのですそのことで、子どもたちは自分の生活領域を狭い範囲に囲い込むしか、安全な生きる道がなくなると確信してしまいます。これは一種のこだわりです。クロニンジャーらが言う、損害回避感情の強化です。これはクロニンジャーによれば、親たちから影響される性格因子ということになります。

  サリバンによれば、このように親たちの影響で対人関係の進展や心の成長が歪んだ場合でも、別の重要な影響力を持った他人との関わりで、その歪みは次の年齢で修正できるといいます。コフートは中核自己の豊かさを獲得していくといいます。これは父性と母性、男性と女性の共同作業で実現することです。スターン流に言えば、子どものあいまいな部分をうまく言語化でき、漠然としていた自己感を輪郭をなす方向へ向けていくことができる人の影響で、不適応は改善されていくことになります。

【子どもの意欲と主体性】
  登校拒否の子どもたちの多くは、本人の意思を尋ねられた時など「何をしたらいいのか分からない」「どちらでもいい」といった言葉をしばしば遣います。ゲームやテレビやマンガに没頭しているかのように見えていても、聞いてみると「別にぃ…、面白いからしているわけではない」とか「やりたいことがないし、仕方がないからさ」と言った言葉が返ってきます。世の中にはこれだけたくさんの遊びや楽しい行事があるのに、登校拒否の子どもたちの多くは、相変わらず「やりたいことが分からない」「何をしたらいいのか分からない」「自分が何者か、分からない」と言い続けています。

  1.大切な自己主張の尊重
  子どもが自分の気持ちを言葉に出せるようになる時期、つまり社会的な存在になってくる時期…例えば幼稚園や保育園、小学校へ入学する時期、友だち同士でどこかへ出かけるようになる時期…になると、親に対してはかなり明確に自分の意思を主張します。「あの子とディズニーランドへ行きたい」「学校の帰りに本屋に寄ってきたい」などと自分の欲望を親に言います。繰り返しそのように言える子どもは、親からの反対や批判が出ないことを予想して自分の意思を親に伝えられます。自分の主張に理解し、同意してもらえる確信があるからできるのです。子どもは積極的な自己主張ができます。親からの反対や批判が常にあれば自己主張をしにくくなります。

  生まれてすぐの子どもにはこのような社会的な意思があるかどうかは明確ではありません。「お散歩にでかけましょうね」という幼児の親は、子どもの気持ちがそういう状態ではないかと予測して、親の善意の意思で散歩に行くことを決めます。親たちの多くは親の善意の意思で自己決定して子どもの生活に関わります。しかし、いつかは親の判断による自己決定から、子どもの意欲による自己決定への移行が必要になります。その時期を逃すと子どもは自分の主体的な意思を表に現させなくなります。子どもが言葉(表現力)豊かになって来たら、子どもの方から親に向けて「お散歩、行こう」という自己主張が出てきます。子どもの自己主張に対して、関わる人が「そうしよう」という同意をし、散歩に行って帰ってきた時に「楽しかったね」という快さがあれば、その子どもはその快さを再び体験したくなった時には、母親に明確な自己主張ができるようになります。この原則は教師と児童生徒との関係でも同様に当てはまります。

  子どもとしての正当な自己主張を親たちが「わがままだ」とか「好き勝手なことを言っている」とか「遊んでばかりいて困った子だ」という解釈(親の自己主張)をして片づけてしまうと、子どもは本来の自己主張をしなくなります。その代わり子どもは親へのご機嫌伺いをしてしまいます。

  2.主体性の輪郭が不鮮明になる
  私たちの多くは自分の意思や希望がどのようなものであるかはかなり鮮明に意識できます。それは心の中にある欲望に沿うように、自己意欲に忠実な言動(意思)を表現できているからです。自己主張は本人の心の中にある欲望に基づいて生きて行こうという自尊的意欲から出てきます。

  しかし、世の中には自分の意思よりは占い師や宗教家や大先生や強烈な親たちの意思に従わなければ動けない人もいます。本心には自己意欲や欲望はあるものの、自己意欲などを抑制して別人格の意思を尊重し続ける人がいます。その場合、自己意欲や欲望は心に構成されないまま、心の中で断片化し、漂いくすぶり続けます。本人に不利益な出来事や不都合な状態が起こった場合に突然、反応します。それが解離であったり、心身反応です。自分が自分でないように感じられたり、自分の意思に反して身体だけが反応してしまったり、自分の言動が自分の意識に残らなくなります。

  自分の主体性を抑制し続けてきた人の場合、自分の考えもまとまらなくなり自分の意欲も分からなくなりMさう。そうなると何かのメソッド(例えば特定の呪(まじな)いや宗教や心理技法)に従った生活に依存します。しかし、元来そのような依存傾向がある人たちですから、あらたなメソッドを取り入れてもすぐに自己の主体性が戻ってはきません。占い師や大先生や宗教家や強烈な親から新技術という対象へ模様替えをしただけなので、それだけで自己の心の構成が本音の欲望と折り合いを付けるのは困難です。偽りの折り合いを付けて、一件落着状態を装います。H.S.サリバらが言う選択的非注意状態が継続されてしまう可能性が新たに生まれます。

  社会性がある本音や欲望に忠実に生きることは、その人にとってそれほど悪いことではありません。a.その意識(欲望)に社会性があるのかないのかは検討しておかなければなりません。社会性のない意識なら修正する必要がありますし、人間にはその能力はあります。b.その意識が他人との関わりを肯定しているのかどうかも検討の必要があります。対人関係や対象関係に滞りがあれば修正して下さい。c.その意識が日常生活に支障を来すものかどうかの検討も必要です。こだわりが強ければ恐怖や不安を克服しなければなりません。d.その意識が自分の身体的な健康に及ぼす影響も理解していなければなりません。例えばやせ願望などで、無理な食生活をして不健康な状態に落ち込む前に、修正する必要はあります。

  人間には良い方向(快さ、安全、満足)に歩もうという無意識もあり、葛藤を繰り返しています。不健全な方向へ歩む人々の多くの関係と環境は、人間学的に不自然で好ましくない状態にあることを発見して修正して下さい。

  3.主体性の回復
  主体性の回復とは自己の回復とほぼ同義語です。自分の意思で生きていくことは大切です。自分の意思を相手(社会)に向けて表現することなのです。自己の意思をどこまで開示したらいいのか悩みます。相手に気を遣う余り、自己開示できずに混乱する人もいます。彼らの多くは相手との言葉のやり取りによる対話を考えずに「一度表現したら、後からの修正は効かない」と誤解し、思い込んでいます。対話とは自然に流れる相手との言葉のやり取りですが、その自然の流れが出来にくくなってしまうのが登校拒否の子どもたちです。そして誤解します。誤解は自然の流れに反する所から生じてきます。が、相手に気を遣い過ぎる子どもたちの場合は、対話を繰り返すことは相手に失礼であるという誤解をしてしまいます。いかにも物分かりが悪い自分を相手に悟られたらまずいと意識してしまったり、相手の表現が不鮮明であることを相手に印象づけては失礼であると考えたりします。不自然な思考が対人(対話)関係に侵入することから、主体的な言動が抑制されます。「自然のままのあなたでいいのだ」「ありのままの自分でいいのだ」という支えや自覚が生まれるような、対人関係や対象関係が必要です。そのためには素敵な人、理想的な人、好きになり元気になれるような相手の存在が身近に必要です。

登校拒否文化医学研究所のホームページは下記から。

http://www.asahi-net.or.jp/~pr8y-tkhs/index.htm