大仙市藤木大保で鹿島流し

合戦絵巻のような船の華麗さ

昔の伝統を守って侍大将らを乗せ旅立ち(7月18日・月)
 
 
  江戸時代から明治中ごろにかけて船運で栄えた大仙市藤木字大保地区の「鹿島流し」が17日、雄物川で行われた。葦(よし)で編んだ長さ約2.5メートル、中央の幅約1メートルの船2艘(そう)に武者人形を乗せ、はんてんを着た子どもたちに見送られて鹿島は旅立った。2艘の船には巨大な錨を担いだ船頭、その後ろには華麗に着飾った侍大将らが陣を成し、まるで武者絵のような鹿島船だった。

  大保集落は藩政時代から明治37年(1904年)に奥羽本線が開通するまで船運で栄え、船頭も最盛期には150人もいた。船頭たちは地主町として栄えた隣の角間川町にあった川港からコメを船に積み込んで秋田港まで運び、その帰りには大阪などから仕入れた衣類や海産物を積んで戻ってきた。その船頭たちも船運が衰微すると生活を求めて北海道などに渡り、現在の大保集落は120世帯ほどとなっている。

  鹿島流しは雄物川と玉川が合流する花館地区の伊豆山と神宮寺の神宮嶽ふもとが渦をなす激流になっていて、船が巻き込まれて沈んだり、コロリと呼ばれて恐れられたコレラなどの疫病が入って来ないよう鹿島船に乗せた武者人形に託して流し、航海の安全と悪い病気から集落を守ってもらうよう願いを込めて始まった。しかし、いつの時代がその起源なのかは記録もないため、分かってない。

  鹿島流しは川のある集落のあちこちで昔から行われているが、大保の鹿島の自慢は人形の華麗さとりりしさ。人形を作る家は代々、高橋家と決まっており、今もその末裔(まつえい)である会社員・高橋仁さん(49)が祖父や両親から習い覚えた人形作りをしている。人形の顔は土を練って作るが、顔は歌舞伎役者のように真っ白にし、眉と目は猛り狂ったかのように吊り上げ、八の字ひげが描かれる。そして赤や黄色、紫など華麗な色紙で作った兜(かぶと)、羽織姿とし、さらに紙で作った白い馬、黒毛の馬に武将をまたがせる。

  鹿島人形は高橋さんから1体ごとに買うのだが、巨大な錨を背負った船頭、白い馬にまたがった侍大将、黒い馬に乗った武将と、それぞれの人形を買える家の格式は昔から変わってない。高橋さんは船頭2体と馬の半身に武将を乗せただけの人形、それに白い馬の場合は体全体を作って侍大将をまたがせる3種類の人形70体ほど作る。中でも侍大将は手がかかる。右手には扇、左手には弓を握らせ、背中には流しぼんでんと呼ばれる華麗な吹き流しや母衣(ほろ)を背負わせる。そして馬は耳、顔、目、首、銅、足、尻、それにたて髪、尻尾の毛すべて手作りだ。

  その人形を鹿島流しが始まる前に買い求め、家に飾って家の中にある厄を吸い取ってもらい、鹿島流し当日に船に飾りつける。武者人形の背中には武運長久を祈って送り出す家族が背負わせたのだろう。赤飯を包んだ小さな袋もあった。

  2艘の船はリヤカーに乗せられ、諏訪神社で神官のお祓いを受け、旅立ちの無事を祈願した。船も戦後間もなくは4艘だったが、子どもの数が減ると共に3艘から現在の2艘となった。その船も川原から葦が取れなくなって、一時は木製の箱船に代わったが、昔からの伝承を守りたいと5前から再び葦の船を復元した。

  神官のお祓いを終えた鹿島船は子どもたちの引くリヤカーに乗せられ、約1キロ離れた雄物川へと向かった。そして大人たちが川に入って船を送り出した。鹿島船は合戦絵巻のような華麗な姿を川面に映し、流れに乗ってユックリと下流へと下った。

  堤防の上から見送る50代、60代の人たちは「おれたちの子どものころは中学生が主役となって鹿島を担ぎ、昔の船着き場から川に入って揉み合いしながら鹿島を流したものだった。今のように河川改修が行われる前の川は深くて、潜っても潜っても川底に足が届かなかった」と懐かしんだ。